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人間機関車~「当たり前」への執着を捨てる~

「鳥栖の雀は真っ黒雀と言われていたんだ。」
いつだったか、死んだ祖父が蒸気機関車の模型を走らせながらそんな話をしてくれた事があった。
私の生まれた佐賀県鳥栖市は、福岡と長崎、熊本を結ぶ交通の要衝で、大きな機関区があった。そこでは何百もの蒸気機関車が煙を出していたから、街の雀はすすけて真っ黒になっていたそうだ。
戦時中に物資不足が深刻化すると、石炭を一切無駄にしないためのコスト削減への意識が高まり、「黒煙は機関士の恥だ」という横断幕が掲げられていたという。黒煙は石炭が不完全燃焼するときに出るから、忌避されたようだ。
国鉄職員の曾祖父一家に長男として甘やかされて育った大正生まれの祖父は、我が儘で頑固で、一族の嫌われ者だった。それでも、私の記憶の中の彼は、半身不随の不自由な体をベッドから起こしては、いつも面白い話を聞かせてくれる、やさしいおじいちゃんだった。

思えば私のこの30年間の人生というのは、おんぼろの蒸気機関車に石炭をくべて、不完全燃焼の黒煙をそこら中にまき散らしてガタガタと走ってきた人生だった。

最新型の新幹線のようなスマートさ、洗練されたフォルム、高いスピードや効率性とは無縁。あるのは僅かな情緒のみである。

一人っ子で、同世代の子どもたちに揉まれることが少なかった私にとって、社会との最初の出会いは、幼稚園だった。今でも幼稚園二日目の光景を鮮明に覚えている。「あ、終わった。」と直感的に思った。きょうだいもいなかったため、絶叫したり走り回ったりする子どもをそれまで見たことがなかったのだ。パニック状態になり、数か月は教室に入ることを拒否した。

順応し、おとなしく座るという社会適合者の振りを覚えてからは、更なる恐怖体験の始まりであった。「先生が折り紙の折り方をみんなの前で説明していても、自分の手で再現できない」「そもそも折り紙に興味が無く、まったく工程が進まずに怒られる」「口頭で言われたことはすぐに忘れる」「他のボタンは自分で止められるのに、ブラウスの一番上のボタンだけは止められない」「トランプを切ることが出来ない(休日にキレ気味の母親に半日がかりで特訓されてやっと出来るようになった。)」「徒競走では断トツのビリ」「跳び箱が出来ない」「保護者へのプリントは必ずなくす」「連絡帳を親に見せ忘れる」「宿題を忘れる」「同じウルトラマンや遊戯王やベイブレードの話をしていても、なぜか周囲の子どもとは着眼点が違っていてうまく馴染めない。(皆が盛り上がっている必殺技の名前や真似事にはあまり興味がないが、隊員個人のストーリーや怪獣が生み出された背景のうんちくにはやたら詳しかった。余談だが、私が知っているベイブレードとクワガタムシの数はクラスの誰よりも多かった。そういうのを面白がって仲良くしてくれる2~3人の友人がいつの学年の時もいたので、完全に孤立することはなかった。)」
小学校、中学校と生きづらさのネタは違っても、基本的にはこれが私の日常だった。恐らく発達障害の傾向があるのだが、当時はそんな言葉も一般的ではなかった。
時折、運動のできる陽キャに執拗にいじられ、それが原因で喧嘩にエスカレートし、保護者呼び出しのような騒動に至った事は枚挙にいとまがないし、小学6年時の数か月はあまりのトラブルの多さに業を煮やした両親によって半強制的に不登校となったものの、近年のニュースで目にするような惨たらしいいじめを受けた事はない。
それでも、私にとっての社会というのは、「他人が呼吸するようにできる当たり前のこと」ができないという現実を突きつけられ、マジョリティからは嘲笑される場であった。

転機が訪れたのは、中学から高校にかけての時期だった。
中学一年の時、あの祖父がくれた古銭を題材にした詩を書いて、それがあるコンクールで約860篇近くの中から一席に選ばれた。中学三年の時、学校で行われたディベート大会なるもので、学年代表に選ばれた。恐らく、元々言葉遣いが固いのと、社会科教諭の父親の影響で新聞を読むのが好きで、政治や社会問題について周囲の中学生よりは詳しかった事が競技との親和性があったからだ。それと、生まれつき声がよく通るほうだったせいだろう。高校に上がると、更にそういった活動に精を出すようになった。相変わらず帰宅部の陰キャで、放課後は地元のTSUTAYAでレンタルCDを漁るくらいしか楽しみのない暗い青春だったが、仲間を集めて学外のディベート大会に出たり、弁論の大会にも出るようになった。

兎にも角にも、それまでの私には人前(主に体育の授業と朝の会、帰りの会。運動神経が鈍いのと、忘れ物・失くし物の多さが主な要因)で怒られることはあっても、評価される経験がほとんどなかったのだ。戸惑いつつも、嬉しかった。帰宅部で眼鏡をかけて、今よりもヒョロヒョロと痩せていて特段ムードメーカーでもなかったので、スクールカーストは相変わらずシュードラ並みかそれ以下だったが、ディベートはその立ち位置にかかわらず、与えられた持ち時間で、誰にも邪魔されることなく、自分の知識や考察を伸び伸びと表現できるのだ。それがとにかく快感で仕方なかった。

自信が芽生えると、苦手だった勉強にも意欲的に取り組むようになった。まさに大きな汽笛と水蒸気の音を鳴らして走る機関車のように、周囲の見下すような目、かつて受けた嘲笑をバネに、どす黒い黒煙を体内に充満させて、のめり込むようになった。成績は向上し、科目ごとにムラはあったものの偏差値は二年足らずで20近く上がり、高2の終わりには文系三科目で佐賀県一位を取った。

かつて恐れていた周囲の見下す目は、気が付いたらどこにも見当たらなくなっていたし、不良じみたクラスメートからも少しは一目置かれるようになった。

そして、私は第一志望の都内の国立大学に現役で合格した。決して誰もが知る超名門大ではないが、小学三年生まで指を使わないと一桁の足し算ができなかった私の地頭を考えると、地方旧帝大とほぼ同偏差値の大学に入れるまでに学力を伸ばせたのは上出来といって差支えないだろう。

曲がりなりにも成功体験を手に入れた私の中には、希望が芽生えていった。「'人並みの事が何一つ満足にできない残念なチー牛'に甘んじていた自分のどうしようもなく惨めな人生は、もしかしたら行動次第で変えられるのではないか。」
「自分に合った事に絞って努力をすれば、どんな人間でもそれなりの結果は出せるんだ。」
嘲笑やコンプレックスをバネにして、まさに結果でねじ伏せて周囲を黙らせることに成功した私は、まさに社会的成功の常道と言われる「他者貢献」「利他の精神」とは真逆のベクトルの、反骨心を燃料にしたそのどす黒いエネルギーの力を過信した。おびただしい量の石炭を消費し、黒煙をまき散らしながら走った人生という名の蒸気機関車は、この先もずっと明るい未来に向けて走り続けると信じて疑わなかった。それが、自分の人生を大きく狂わせることになるとは当時は知る由もなかった。

大学では、知的で温和で人間的にも優れた同級生、先輩、後輩に恵まれた。時に劣等感を感じたが、それ以上にそんな環境に身を置けるまでになったことが嬉しかった。自分の努力で、この素晴らしい自分の居場所を作ったんだという確信-今振り返ると恐ろしい勘違い-は、大学卒業まで揺るぐことはなかった。
学生時代は好奇心の赴くままに行動し、気が付いたら難関とされる奨学金プログラムに選出されていた。後に各界で活躍し、後塵を拝すことになる学外の優秀な学生と交流した。

思えば大学時代というのは、蒸気機関の黒煙のようにマイナスの感情を原動力にするのではなく、心の赴くままに動いて、その度にどんどん世界が面白くなっていった唯一の時期であったのかもしれない。世界はどんどん広がっていくような気がした。

恵まれすぎた環境の中で、私は自分自身が「人並みの事が何一つ満足にできない残念なチー牛」であり、「そのためには人と同じ正攻法の努力ではなく、価値の出し方を工夫しなければならない」ことを忘れていた。
というよりは、思い出させるタイミングがあまりに少なかったため、「俺も人並みに勉強して、人並みに就活すれば、人並みかそれ以上の人生を送れるんだ」という根拠のない自信に満ち溢れていた。
自信というにはあまりに陳腐に見えるかもしれないが、「人並みの事ができない」という事に数えきれないほど直面してきた私とっては、「普通になれるかもしれない、いや、きっとなれる」というのはこの上ない希望だった。当時の私はJRの駅でアルバイトをしており、通勤ラッシュの電車の中にサラリーマンたちを押し込んでいた。「このオッサン達くらいにはなれるに違いない。(東京で人並みの社会的成功は手に入れられるだろう)」というのは醜くも捨てがたい幻想であった。

今振り返ると、一年でも早くその勘違いに気づいて、自分の情熱や興味・関心、比較的得意な事を活かせる職を早い段階から探すべきだった。ただ、学部の勉強でもサークル活動でも常に上位互換に囲まれ、彼らに挑み続けるも無残に負け続け、当時興味を持っていた外交や国際協力の分野(新卒では特に組織の選択肢が極めて限られる)で自分が生き残っていける気もしなかった。
特に決定的な挫折は大学二年時に自身が責任者となったサークル活動の企画である。自分がテーマについて最後までほとんど理解できておらず(それなりに勉強はして臨んだものの内容が当時の自分には高度すぎた)、物事を推進する力も計画性もなく、結局有能な周囲に厄介事を押し付け、何とかギリギリ持ちこたえるという体たらくであった。それでも新入生の前では、自分がその議題の第一人者であるかのような顔をしてプレゼンをしなければならなかったのは中々の苦行であったが、どうしようもない。全ては私の無能が招いた事態である。

そういう挫折も味わった末に就職活動を迎えた私の手元に残っていたのは、「自分もどうにかここまで来て、そこそこの大学に行って、優秀な周囲に揉まれて人に話せるような経験をしたのだから、人並みの人生は送れるはずだ」という淡い期待だけだった。

その期待はその後、最終面接7連敗のち精神崩壊という惨憺たる結果に終わった就職活動、新卒で入社した会社の早期離職、その後の転職活動で何度も打ち砕かれることになる。いや、正確に言えば、それを捨てられなかったからこそ、何度も地獄に突き落とされることになった。

新卒で入った外資系メーカーは風土、(一人の教育係の先輩を除いた)人間関係、業務内容、何もかもが合わない環境だった。しかし、私を9か月で早期離職に追い込んだのは、職場環境そのものだけではない。
私を何よりも追い詰めたものは、中学の終わりに人生が好転し始める前の、あの「当たり前のことができない」という生き地獄の振り出しに強制的に戻されたような絶望感だった。

配属された子会社で担当した製品は脊椎の手術で用いるネジとドライバー。まず、ネジのサイズ、スペック、使い方、これがどうしても覚えられない。ただ、メーカーの人間が製品の事を説明できないのは、事務職の職員がPCを使えないどころか、PCの電源を入れられないとかそういうレベルの話である。ビジネススキルとか最早そういう次元ではない。

一歩目で大いに躓いた私は、営業所にこもりきりで器械の使い方を覚えるよう命じられた。営業先から帰ってきた先輩社員の前でシミュレーションをするが、どうもうまくいかない。その度に罵倒され、「いい大学を出ているくせに頭が悪い」云々と嫌味を言われた。時には営業所の倉庫、時には他の部署の社員もいる会議室、時には先輩と二人きりの営業車。場所は変われど、罵倒と溜息は日を追うごとに強くなっていく。上司は初対面から私に学歴コンプレックスをぶつけてきたので恐らく元より私の事が気にくわなかったのだろうが、このOJTの惨状からして愛想をつかされるのに時間はかからなかった。「お前はどうせ学生時代も内輪でぬくぬくと過ごしていたんだろう、だからコミュ障なんだ。」「どうせお前は甘やかされて、怒られたことなんてないんだろう」と、業務に関係ない事をネタにしたフィードバックをもらうようになった。スタートラインにも立てていない金食い虫の無能社員が厳しい扱いを受けるのは営利企業であれば仕方のないことだが、さすがにこれはこたえた。私は心に何の拠り所もないから勉強にしか活路を見いだせず、その結果塾にも予備校にも通わずに、藁をもつかむ思いでそこそこの学歴を手に入れたのだ。そんな思いも知らずに、まるで「俺は恵まれていない環境(Fラン卒)からのし上がった。お前は恵まれているのに怠慢だ。」と決めつけたような言い方をされるのは我慢ならなかった。

入社5か月目、24歳の誕生日を目前にして精神の限界に達し、営業同行拒否を始めた。その後は新卒社内ニートの爆誕である。最後は誰にも合わないよう夜に営業所に行って退職書類を置き、年末に地元に引き上げた。金沢のボロアパートを引き払い、雪景色の小松空港から福岡行の便に乗り込む時の絶望感、屈辱は今も毎日のように思い出す。私はあっという間に社会の落伍者になった。

その後の6年間は、とにかく人生を立て直すのに必死だった。まさしく蒸気機関を最大出力にして、妬み、恨み、怒り、屈辱だけをエネルギーにして、煙突から立ち上る不完全燃焼の黒煙で周囲の人を咳き込ませ、自身の内面もすすけて真っ黒にして、それでも走り続けた。

行先は分からなかったし、正直どうでも良かった。原動力は未来への希望ではなく、忌まわしい過去から少しでも離れることだった。線路の続く限り、青森だろうが鹿児島だろうが関係ない。とにかく、遠くへ。遠くへ。

あれから6年間遮二無二走り続けるうちに、ネジ屋の影は遠くに霞んでほとんど見えなくなった。しかし困ったことに、「遠くへ行く」という目的を果たした今、進む方向が分からないのだ。

旅の過程の中で、自分の原点ともいえるトルコとパレスチナという、日本人が普通に生きていたら中々関わる機会のない地域にどっぷり浸かり、濃い経験をさせてもらった。
一方で、社会人としてのキャリアは大きく躓き続けた。大学で学んだ事を活かせて、且つ、さながら歩く事故物件とでも言うべき職歴でも新卒と同じ土俵で選考を受けられる某省を目指したが、面接試験では最低の人物評価を付けられた。

紆余曲折を経て、今はアラビア語もまともにできないくせにパレスチナで紛争被害者への支援をさせて頂いている。自分の中途半端な志、中途半端な問題意識、凹凸というか凹しか見当たらない業務遂行能力には勿体ないくらい出来すぎた環境だ。本当はこんな駄文を書いて自分を慰めている場合ではない。早く、一円でも多くの資金を得て、一人でも多くの人が希望を失わずにいられるよう、本来の課題に向き合わなくてはならないのだ。
それが分かっていても、こうして長ったらしい言い訳を書き連ねる自分の甘ったれた卑屈な性根には反吐が出る。

かといって、「色々辛いことがあったけど、理不尽な環境下で懸命に生きるガザ地区の人に勇気をもらったから僕も頑張ります!」みたいな白々しい事は今の私には言えない。文章でどんなに綺麗な締め方をしたところで、実際の人生はそのように美しく終わってはくれないし、残酷なまでに淡々と続いていく。結局は自分で、この先の先行き不透明で厳しい現実を生き延びなければならない。

ニーチェのいう「末人」よろしくこの先の人生を敗戦処理と位置付けて淡々と消化してしまいたい気持ちがないと言えば嘘になる。
黒煙で自分自身の中身も周囲も真っ黒に汚して不健全なエネルギーを生み出しながら、とりあえず今現在のみっともない居場所から一駅でも先を目指して終着駅のない線路を走り続けてきたが、もうこのどす黒いエネルギーに頼ってがむしゃらに走る気力がかつてほどは湧かなくなってきた。

国鉄の電化から遅れる事数十年、今から電線のある線路に乗り換える方法も分からなければ、乗り換えたところで名だたる超特急電車、新幹線、ひいてはリニアと同じ路線で走ったとて、勝負にならない事も察しがついている。
かといって、このまま僅かな石炭を細々と燃やし続け、一部の鉄道ファンに喜ばれるために生き延びる覚悟もない。今は油の切れかけた車輪をゆく当てもなく動かしている。

ただ、自分にとって最も大きな救いは、黒煙を燻らせて爆走していた時も、脱線事故を起こして大破した時も、変わらずよき理解者として接してくれた人が少なからずいたことだ。学生時代の友人、先輩、後輩、トルコ留学時に懇意にしていた一家、彼らには感謝しかない。いつ枯渇するか分からない石炭を細々と燃やして進み続けたこの先に何があるかは分からない。ただ、最低限そういう人たちを裏切らずに生きていれば、おおよそ不幸な人生にはならない気がしている。

30歳を目前にした総括としてはあまりにもお粗末だが、最後に常に自分の心の支えになっているamazarashiの「雨男」という曲の歌詞を紹介して、ひとまず筆を置きたいと思う。

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「やまない雨はない」
「明けない夜はない」
とか言って明日に希望を託すのはやめた
土砂降りの雨の中
ずぶ濡れで走っていけるか?
今日も土砂降り
そういや いつかもこんな雨だった
そういや いつかもこんな雨だった
そういや いつかもこんな雨だった
雨だった

(曲の公式音源は以下)

未来に不確かな希望を抱くのではなく、今この瞬間を肯定して生きるしかない。まさに今の私はそれが出来ないからこの見苦しい駄文を書き連ねているのだが、それでも、いやだからこそ常に心に留めて生きていたい。

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