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雑感記録(340)

【これまでの総括と定点観測】



はじめに

僕はnoteに日々感じたことや考えたことをあること無いこと書いている。その時々、触れた作品や出来事によって思考が変化して行く訳だが、根本の思想みたいな部分は変わらない。様々に記録を残していく中で自分の中にある根本思想みたいなものがまばらになってしまい、実際自分自身でもどれがどれだか彷徨ってしまうことがある。そこでこの記録では自分自身の根本思想的な側面だけを取り出して書き上げてみたいと思う。

先に断っておくが、これは自分自身の為に書き上げる。無論noteの特性上SNSという部分で書いてしまうので数多くの人に触れるだろう。時折、稚拙な考え方や変な表現が出て来たり、或いは「いつも書いていることと違うこと書いているじゃないか」と思われるかもしれない。しかし、それはそれで1つの思想の面白さでもある。先日の記録で触れたが、東浩紀『訂正する力』に影響を受け、「じつは…だった」というスタンスで書き記してみたいと思う。


1.ニーチェと僕

僕の根本的な考えの底にはニーチェが居る。とはいえ、ニーチェを専門に学んできた訳ではないし、さして詳しくはない。ニーチェの良いとこどりをしているに過ぎないのである。だが、それでも僕の考えの根本にあることは間違いのない事実である。

★★「中心点」と「シミュラークル」★★

この「中心点」という言葉は僕の記録の初期のころからよく出てくる頻出ワードといっても過言ではない。何か物事を考える時や、小説や芸術、あらゆることを考える際に僕の中ではいつも出てくる言葉である。

物事には必ずと言っていい程「結論」というものや「結果」というものが存在する。あるいは「ゴール」や「目的」と言っても良いのかもしれない。僕等人間はその「ゴール」や「目的」に向かって人間の中に存在している諸力を総動員させるものである。例えば、「大会で優勝したい」という目的を持ったアスリートが居るとしよう。彼らは大会に向けて一所懸命に努力する。日々練習を続け、その練習の中で身体の使い方や、他の領域、例えば物理学や生物学などの知識を援用し、パフォーマンスの向上の為に努力を続ける。

無論、その目的を達成するために日々研鑽を重ねることは常人には出来ないことである。それが愉しいから、面白いからとはいえ中々続けること、継続することは難しいものである。人間誰かしらにも弱さの部分がある訳で、その弱さを騙し騙し生き、強くありたいと願ってしまう生き物であると僕は考えている。目的に向かう為の努力。それは素晴らしいことであるし、僕には到底できないことである。

だが、ニーチェはそれをある意味で「危険である」と言うのである。それはどういうことか。簡単に説明してみようと思う。ある目的(=中心点)を措定しそこに向かってあらゆる諸力、人間の中に眠っている諸力は集中して行く。しかし、そこに向かう為に遠回りすることが出来なくなる。例えばだが、「大会で優勝したい」という目的を達成するためにそこに対して全諸力を集中させる。ところが、その余り自分がやりたいと思っていたことに対する諸力を軌道修正し、その目的達成の為にコントロールするのである。

本当は他に可能性がある、やりたいこと、考えていることを抑圧してしまう。「他にもこういうことがやりたい」「目標達成の道中で他のことに興味が湧いてきた」という気持ちを抑え、諸力の制御を行ない進んで行く。だが、もしかしたらその抑圧してきたことの中に自分に向いていることや、本当に自分が求めていたことが転がっているかもしれない。目的達成のために何かを見捨てることに他ならない。

こう書きはしているものの、こんなことは綺麗ごとでしかない。誰しも何かに向かって生きている。例えそれがどんな形で在れ、人間は中心点に向かって生きていく。その抑圧したことに対して諸力が向かえば、いつしかそれも中心点になり、全諸力が向いてしまう。その反復運動が常に起こるのである。どれだけここで綺麗ごとを書いても、人間は「結論」「結果」「目的」と言った中心点に向かうことは必然である。僕だって事実そうだ。

そこでボードリヤールの「シミュラークル」を援用したい。「シミュラークル」というのは言ってしまえば疑似的な真理である。僕は中心点というものではなく、ここを目指したいと考えているのである。ここで少し真理という部分についても触れて置かなければならない。ここで言う真理は中心点と考えて貰って結構だ。

ニーチェはこれまでの哲学者は馬鹿であると言う。簡単な話で、今までの哲学者はそもそも「真理」というものが既に存在していると考えている時点で大間違いであるという。それはその哲学者が真理を必要としているからこそ、その哲学者にとって真理である訳で、それを必要としていない人にとっては真理ではなく、ただの何かとしてしか認識され得ないのである。ということは、誰かが措定している「結論」や「結果」「目的」と言った中心点は結局それを措定している人にとって、またそれを必要としている人間にとってしかそうなり得ないのである。関係しない第3者の立場の人間にとっては正直何ものでもなく、ただの事象にしか過ぎない。

そして、個人のレヴェルで考えた時にも重要なことだし、誰かと向き合うことに於いても重要なことである。例えばだが「目的」を達成する為に様々な諸力が働く。それぞれの諸力はどこかで交差する場合がある。様々な諸力が交錯しその中で空間が出来る。その空間、すなわち「シミュラークル」が模擬的な真理として存在するのではないか。点的な目的が空間的な目的となる。僕はこれを創造したいと考えているのである。それは常に更新することが可能であり、訂正することが出来るからである。

もう少し分かりやすく書くには、誰かと向き合うことを例にとった方が良いかもしれない。人間は1個人として諸力の散乱を抱えている。そしてその人間同士がコミュニケーションを図る。お互いがお互いに様々な方向に諸力の散乱が起っている。その諸力の散乱は人間によって異なる。何に対し興味を持ち、何を中心点として措定し、何を考え行動しているか、その諸力の散乱は様々である。しかし、誰かと向き合うということはお互いの諸力の散乱を交錯させる必要がある。

その中で、互いの諸力の交錯から生まれる空間こそがお互いにとっての疑似的な真理である。それがお互いが目指すところであり、それを創出し続けることが関係性を深めることであるのではないだろうか。人間関係に於いて肝心なことである。僕が考えるのは線的な動作による点としての真理ではなく、線的な動作が交錯することによって生まれる立体的な空間が真理、それも可変可能な真理である訳である。

僕は常々記録の中で、人間の思考は流動的であると書いている。それは例えば小説や哲学書に流れる諸力と、自分が持ち得る諸力が交錯する中で、今まで既に出来上がっていた空間に対して別のベクトルでの諸力が介入し新しく空間が出来上がるのである。そういう意味で僕は人間の思考は流動的であると書いている。つまりは、流動的な思考というのは僕にとって「シミュラークルの可変行為」に過ぎない。それは何度でも書くようだが、真理では無く、疑似的な真理であるからこそ出来る芸当であるのだ。

これは言ってしまえば「変化すること」とも関わってくるのである。僕等人間は変化することを怖がる傾向にある。無論、僕もその人間のうちの1人である。変化することは恐怖である。しかし、シミュラークルは先にも書いているが可変可能な疑似的な真理である。お互いに創出していくのだから、お互いに可変、訂正し続ければいいだけの話である。ここで昨日、良い言葉に出会ったのでそれを書いて纏めにしてみようと思う。

大切なものを手放さないようにするための変化ならgood

これは正しくお互いの諸力の交錯の中で「シミュラークル」を創出することに他ならない訳である。お互いの大切にしたいものを手放さないように諸力を交錯させ、常に疑似的な真理を可変的に変化させていくことが肝心である。1つの固定的な真理に惑わされることなく、更新して行くことに他ならない。自分自身の根本は変わらない。お互いに大切にしたいことは当然ある訳だ。それを守るために日々諸力の交錯の中でシミュラークルを更新することが肝心である。

ここまで書いておいた訳だが、シミュラークルに関してはかなり過去の記録で触れている。その記録について以下にリンクを貼っておくので、興味があればぜひご一読いただきたい。

この時は「アウフヘーベンによる新しいシミュラークルの創出」と書いた訳だが、実際これは今思うと違う気がしている。というのもそれは自身のシミュラークルと他人のシミュラークルが既に分離している状態で書かれているからである。これでは、お互いの諸力の交錯というのは実現できていないからである。この時はある意味でお互いのシミュラークルをぶつける形で書いており、これでは創出とは言えない。

「相互シミュラークルの対話」と僕は書いてしまった訳だが、そもそもシミュラークルは対話することで成り立つものである。自己との対話、そして他者との対話。そういう中で異なる諸力が重なり合って初めて生まれるシミュラークル。これこそが今、自分の中で求めている考えである。


2.対話と僕

上記でシミュラークルの話を書いた訳で、結局これらを創出するためには「対話」が必要である。この「対話」というのは何も誰かと話すことだけということでは決してない。「対話」というのは関係性を築く為に、そして「読む」→「書く」→「対話」というサイクルの最終地点でもある。

★★「読む」→「書く」→「対話」の循環★★

何かを「読む」ということは一方的な行為である。自分自ら積極的に「読む」ということは自分の中に在る思考とそこに在る思考を上手い具合にすり合わせることである。これは何も読書に限ったことではなく、例えば映画を観ることも、芸術に触れることも、誰かの話を聞くことも広い意味で言えば「読む」ということに他ならないのではないか。

今向き合っていることに対して、その言葉に耳を傾ける。これは肝心なことである。その中で自分の言葉と思考をミックスして行く。そして言葉を吟味し、何を言いたいのか、何をこの人は伝えようとしているのか。これらを汲み取ること。まずこれが前提である。しばしば「傾聴」と言われるが、過去の記録にも書いた通りこれはただの始まりに過ぎないのである。

この「読む」という行為が最近では欠如しているのではないかと僕には思えて仕方がないのである。これは言ってしまえば「想像力の欠如」である。相手が何を考えそれを発しているのか、その演技は何を含蓄しているのか、その美術作品は何を訴えかけているのか。それを僕等は想像しながら自分とすり合わせることでそれは作品足り得る。僕はそう考えている。

僕はが想像力の話をする際にいつも引き合いに出しているのは保坂和志のエッセー集からである。『人生を感じる時間』から引用している「想像力の危機」である。これは「読む」ということに関しても、そして「書く」こと「対話」にも大切なことである。大切な部分なので再度引用してみたいと思う。

想像力のない人の考えることは途方もなく馬鹿馬鹿しく、その馬鹿馬鹿しさが底知れなく怖い。想像力のない人は相手がどれだけ想像力があるか想像することができない。いや冗談や言葉遊びを言っているわけではなくて、2の想像力しかない人間が相手に10の想像力があることを想像することは不可能にちかい。「不可能にちかい」という留保がついているのは、「この人は俺が想像できないことまで想像することができるんだろうな」という想像さえできれば、2の想像力しかない人でも2以上の想像力がこの世に存在しうることだけは想像できるからだ。それを相手に対する「敬意」と呼び、そういう敬意は文化や教養によって育てられてきた。中身までは想像できなくても、それがあることだけでも想像できれば、2の想像力しかない人の内面も豊かさに向かって開かれる。

保坂和志「想像力の危機」『人生を感じる時間』
(草思社・2013年発行)P.232

「読む」ことは読む側の想像力が試されるものである。再三の繰り返しで恐縮だが、相手の言葉に耳を傾けること。そこで自身の想像力を働かしてその言葉や提出されたことに対して解釈をしていく。そうして自分の中で「きっとこういうことを言いたいんだろうな」「こういうことを考えているんだろうな」と想像を働かせる。しかし、それだけでは足りない。十分ではない。その次のステップとして「書く」という行為が存在する。

僕はその場としてこのnoteを利用している訳だ。頭の中で如何に想像しようともそれはどこか浮遊した言葉であって、ただ漠然とした言葉である。それを掴むために「書く」という行為があるのである。僕の記録では時たまというか殆どの記録がそうであるが、どんどんと話はズレていき、あらぬ方向に進んで行くことがある。これが果たして自分自身が「読む」ことを纏めていることにはならない。しかし、言葉が言葉を呼ぶということは往々にしてあり、そういう中で生まれる言葉などもある筈だ。

ここで勘違いしないで欲しいのは、「書く」ことが思考の整理になるとは限らないということである。言葉が言葉を呼び、その「読む」ということで得た言葉が広がりを持ち、それが書くことによって骨格を持つ。そういうイメジを僕は持っている。要は「読む」ことの骨格形成としての「書く」という行為がある。そうして言葉は骸骨になる。

想像力によって生まれた想像に言葉で骨格を与えること。それが「書く」ことである。幸いにも昨今ではSNSで簡単に自分自身の思考や考えを発信することが出来る。その中で自分自身の「読み」の想像力を骨格にすることが出来る。そしてそういう中で自分自身がどういう経緯でどういった形で想像力を働かしたのかというその過程を具に確認することが出来る。そうして形成された言葉の骨格に今度は肉付けを行こない、言葉に骨格の修正および身体性を付与する。それが「対話」である。

「対話」をすることは言ってしまえば「書く」ことで形成された言葉の骨格の見直し作業である。自分の言葉の骨格と相手の言葉の骨格をそれぞれ見比べる。対話をすると「あ、この人にはこういう考え方があるんだ」とか「なるほど、自分はこう考えていたけれども、こう考えているのだな」というように様々な発見がある。そこで随時自分の言葉の骨格を見直し修正をして掛かる。お互いに補強し合う。訂正しながら補強し合うというのが正しいだろう。

そして「対話」というのは双方向のコミュニケーションである訳だ。そしてその場には物理的な身体が伴う。その言葉に重なる身体性というものが肝心になって来る。言葉は骨だが、その骨に載せられるニュアンスや筋肉の付き方、脂肪の付き方は人によって異なる。そういった部分を受け入れることで、自分の骨格を修正する。そうして肉付けを行っていくのである。言ってしまえば、それがシミュラークルを創出していくことに他ならないのである。

そして「対話」が終れば、その「対話」を自分自身の中で再び反芻する。それこそが「読む」という行為である。再び「読む」ことで自分自身の想像力で以て考える。そうしてそれを「書く」という行為に映す。この「書く」というのは「行動する」と置き換えても良いのかもしれないとここまで書いてみて思った。僕の場合には「読む」→「書く」→「対話」→「読む」→「書く」→…という循環で書いている訳だが、この「書く」という部分については人それぞれである。それは「何か行動すること」である。

この循環運動については、過去に無名人インタビューを受けた感想として書いた。インタビューも含めて読んで頂くと分かるかもしれない。

一応の修正として提示しておくならば、「読む」→「書く」→「対話」という循環運動に於ける「書く」という行為はあくまで僕にとっては「書く」ということであって、もっと敷衍して考えれば「行動すること」である訳だ。いずれにしろ、僕自身はこの循環運動を大切にしたいと考えている訳である。そして何より「想像力」ということについて今1度鍛え直さねばなるまい。

どんなものになるのかなぁって想像してるの。

この言葉に僕は救われながら生きている。しかし、僕はしっかり想像力を以て接して生きているのだろうか。こういう風にして言葉で表現してくれることに嬉しさを噛みしめる。僕も日々想像力を働かせることを意識しながら生きていきたい。そしてその想像力を鍛える為に「読む」→「書く」→「対話」という循環運動は欠かせないものである。

自分自身が大切にしたいものを守るために必要な力であると同時に、開かれた世界を創造する為にもこういったことは継続的にしていきたいと考えている。僕もそろそろ「書く」だけではなく「何か行動する」というフェーズをもう少し加えていくべき時なのかもしれないなと思いながらこれを記す。


3.「あそび」と僕

東京に来てからというものの、僕は小説から距離を置き、詩と哲学書を専ら読んでいる。その中で谷川俊太郎に傾倒している訳だが、そこで僕は素晴らしい概念に出会い、最近はそのことばかり考えている。そしてこれが僕の今求めている新たな指針でもある。

★★「あそび」の「宙吊り状態」を求めて★★

西洋の哲学を読んでいると苦しくなる時がある。それは二項対立が激しい様相を以て眼前に現れるからである。何かの物事には「/」が必ず入っており、「良い/悪い」という構図がその背後には潜んでいるのである。そういう物事に対してデリダ「脱構築」という概念を創出し、様々に論じている訳だが正直中々難しいところがある。

この二項対立という構図はどこかしかにも存在している。誰かと話をしている時でも、それが自分にとって「良い/悪い」という判断軸の中で展開されることがある。白黒つけなければならない。そういうことが往々にして存在する。白黒つけなければならないことがあることは十分分かっているつもりだが、それだけではどうすることも出来ないことが世の中には沢山ある。

例えば先のニーチェの話で言えば、何かに対して「結論」や「結果」を求めることが人間の性であるというようなことを書いた。だが、その先はどうだろうか。それを判断する際に「良い/悪い」ということで判断してはいまいか。僕はその感覚がどうも苦手である。勿論、どこからどう考えても「良い」ことはあるし、どこからどう考えても「悪い」ことも当然に存在する。しかし、そこで判断を下してしまった時点で思考することを辞めてしまうのではないかと僕は危機感を抱いたのである。

そんな時に、谷川俊太郎のエッセー集である『ことばを中心に』という中に収録されている『ことばあそびをめぐって』というエッセーに出会った。これに僕は感銘を受けて「あそび」について考えることとなった。言ってしまえば、二項対立の隙間を考えるということである。

 *言語は大変複雑な構造をもっていて、簡単にわりきることはできないんですが、かりにそれを実用的なことばと非実用的なことばという軸で分けてみたとすると、たとえば法律の条文、商売のほうの契約書、自然科学の論文、新聞記事、器具の説明書など、ふだんの生活の中で耳にしたり目にふれたりすることばの多くは、いわば実用的なことばですね、私たちの日常会話の大部分も、そうだといえる。だけどたとえば、そういう日常会話の中でも、ちょっとした冗談を言って人を笑わせたり、その場の雰囲気をやわらげたりということもあるでしょ。
 そういう冗談はべつに実のあることを伝えているわけじゃないんだけど、建具屋さんがふすまと敷居の間に適当な〈あそび〉をつくるように、人間の心と心の間にゆとりをつくる働きをするんだと思います。これはすでに広い意味での〈ことばあそび〉と言ってもいいんじゃないでしょうか。

谷川俊太郎「ことばあそびをめぐって」
『ことばを中心に』(1985年 草思社)
P.238

ここでは「ことばあそび」という表現の元に行なわれている訳だが、僕はこの「あそび」という部分に惹かれたのである。谷川俊太郎が例にも挙げているが、所謂「隙間」である。物と物との間にある空間、ゆとり。これがあることで僕たちには心の余裕が生まれ、ユーモアを以て愉しめるのではないか。そう考えたのである。

そんなことを考えている時に、僕は鈴木大拙に出会い、更にそれが強化されることとなる。『東洋的な見方』の中に収録されている『東洋的見方』というエッセーの中に描かれる「渾然として一」という言葉。これが僕には響いたのである。こちらも再度引用したい。

 東洋・西洋というと、漠然としたことになるが、話の都合がよいから分けておく。東洋的見方または考え方の西洋のと相異する一大要点はこうである。西洋では物が二つに分かれてからを基礎として考え進む。東洋はその反対で、二つに分かれぬさきから踏み出す。「物」といったが、これは「道」でもよし、「理」でもよし、「太極」でもよし、神性でもよし、絶対「無」でも、絶対「一」でも「空」でもよい。とにかく何かある、それが分かれぬ前というのは、「渾然として一」である状態である。これは甚だ誤解しやすい言詮であるが、今しばらく仮にそういっておく。言葉はいつもこれで困るのだ。それで西洋の考え方は、二元から始まるとしておく。
 二つに分かれてくると、相対の世界、対抗の世界、争いの世界、力の世界などというものが、次から次へと起こってくる。西洋に科学や哲学が、東洋にまさって発達し、したがって技術の面にも、法律的組織の面にも、著しい進捗を見るのは、いずれも個に対して異常な好奇心を持っているからである。東洋はこの点において大いに学ばねばならぬ。対抗の世界、個の世界、力の世界では、いつも相対的関係なるものが、弥が上に、無尽に重なりゆくので、絶対個は考えられぬ。いつも何かに連関しなければ考えられぬ。個は、それゆえに、常住、何かの意味で拘繋・束縛・牽制・圧迫などいうものを感ぜずにはおれぬ。すなわち個は平生いつも不自由の立場におかれる。自ら動き出ることの代わりに、他からの脅迫感を抱くことになる。たとい無意識にしても、そのような感じは、不断あるにきまっている。

鈴木大拙「東洋的見方」『東洋的な見方』
(岩波文庫 1997年)P.20,21

ここで指摘されている通り、確かに二項対立によって進展してきたことがあることもまた事実である。ただ、日本語の特性上どうしてもそこには難しい所があるのではないかと考える様になった。そこから僕はどんどん日本語そのものに傾倒していくことになって行く訳だが、いずれにしろこの「あそび」という概念については継続的に考えていかなければならないという問題意識が芽生えている。

そんな中で、最近の傾向としてどうも二項対立の傾向が強くなっている気がしてならない。週刊誌では誰かのゴシップが撮影され、記事にされ、断罪される。そこに映し出される人間は「悪」として成立し、大衆はその記事だけを捉え「悪」と評定しSNSやらニュースやらで祭り上げられる。そうして不思議なことに、そういう人たちを擁護しようとすれば「お前は何を言ってるんだ」と言われ炎上する。そういう世の中の構図になりつつある。

所謂、その中間層みたいなバッファーみたいなものが存在しない。そこから考えればいいのに、そこを忘れがちである。どちらかの立場に寄り掛かる形でしか物事を語れないのは少し違うんじゃないのかなと考えた。SNSでは叩く姿が称揚され、数多くのビュー数を稼げばそれが正義だと言わんばかりになっている。そしてその投稿をした人は一躍SNS上でのヒーローになれるのである。何者かになれるのである。

そこで僕は「何者かになりたい」という気持ちが実は危険なのではないかと考える様になった。SNS上や昨今の書店の傾向にしてもそうだが、何も考えずとも「何者かになれる」というような投稿や自己啓発本が増加傾向にある。僕は何故そういうものが跋扈しているのか未だに理解が出来なかった訳だが、これら「あそび」の問題を考えている時にふと「宙吊り状態」になることに抵抗があるからではないかと考えたのである。

「あそび」の空間というのは、その二項対立の間に存在する空間である。そこには「善/悪」という問題が曖昧になっている。どちらが良いとか悪いとかそんな問題は一旦棚の上に於いてフラットな視点で見ることである。どちらにも属さず、それこそ何者かではない状態で、宙吊り状態で物事を捉えることに他ならないのではないかと考えているのだ。人間はそう簡単に割り切れるものではない。

そして、そういう曖昧で居て良い場所というのは実際どこにもない。それはどの関係でも同じである。特に恋人関係や夫婦関係ではそう言ったことは許されざることである。曖昧模糊とした態度は不和の原因を招くし、関係性に亀裂を生じさせてしまう危険性を孕んでいる。しかし、物事の始まりというものは「渾然として一」である。曖昧模糊とした所から始まり、それを紐解いていくことで初めて二項対立などが生まれるのではないか。その原初の姿をすっ飛ばして最初から二項対立で語ろうとすることは危険である。

これらについての記録はかなりの量を割いて書いている。もしかしたらそちらを読んで貰う方が良いのかもしれない。以下にリンクを貼っておくことにしよう。自分も再度読み返すように。

今もなお、「あそび」について考え続けている訳だが、どうも自分の中でうまい具合に生活に活かせているような気がしない。だが、少なくとも早急に判断しないという意味では、一歩立ち止まって考えるという点に於いては非常に有用であるなとも思う。物事をどの立場にも属さずに考えること、一個人として考えること。「あそび」から「渾然として一」を考える。そこから二項対立について考えていけばいい。

これからも何かを考える際にはぼくは「あそび」に居たい。そしてそこから様々なことを考えていきたい。


おわりに

さて、まあここまで長ったらしく書いた訳だが、何となくの総括と定点観測である。まだまだ考えていることは沢山ある訳だが、ここでは書ききれない。先にも少しだけ触れたが、日本語についても最近は考えている。そちらの記録についても最近、集大成という訳では決してないが、今の所のことを書いた記録がある。

ちょうど記録が340回目ということもあるので、定点観測としてこの記録を記すことにした。一応の自分の中でのキリの良いところで纏めてみようと思い立って書き始めたのである。人の思考は流動的である。ここでいくら根本思想を書いても変化することが今後も起こり得るだろう。だが、ここに書いた根本思想についてはあまり変化しなさそうな気がする。その中での細かい部分での変更、訂正はあるかもしれない。

これからも日々、考え続けて生きていきたいところだが、考えすぎるのは体に毒である。だから、今度は「書く」ことから少し離れて行動することも考えてみても良い時期に来ているのではないだろうか。そんなことを考え始めている。だが、僕の重い腰は果たして上がるのだろうか。

ゆるやかな変化ねえ

そう、僕は緩やかに変化しているのかもしれない。そういう変化を僕は大切にしていきたいと心からそう願う。これからも駄文を連ねるnoteになるだろうが、書き続けるだろう。

これからも、よしなに。

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