雑感記録(31)
【"共感"について】
今日は特段、大きな用事がなかったので午前中にパッパとその用事を済ませて家に籠り映画を見ていました。最近、本を読む時間とそれ以外のもの、映画や写真、絵画などを鑑賞する時間をバランスよく取ることを心掛けています。
僕は一時期、本が思うように読めていませんでした。冷静に考えてみて、本への比率があからさまに大半を占めていたのです。今までの僕は割合的に言えばおおよそ8割ぐらいが本を読むこと、残り2割ぐらいが映画や写真、絵画鑑賞と言った比率で接していました。そこを少し改善して、本への比率を6,7割ぐらいに調整するようにしました。お陰で、ここまでいい調子で難なく読めています。
今日見た映画は3本。
これらを見ました。とりわけ『佐々木、イン、マイマイン』は結構好きで繰り返し見る映画の1つなのですが、やっぱり何度見ても楽しい。『明け方の若者たち』もどこか心を動かされる所がありました。要するにこれら映画を見て僕は少しばかし「感動」した訳です。
本や映画などではしばしば売り文句として「感動する」という言葉が並べられることがあります。また同時に、それら作品の表現をする際に「共感できる作品」という言葉を眼にする機会が多いのではないでしょうか。僕は個人的にそう感じています。本屋に行って新刊コーナーを見て回っていると、帯に「感動必須」「共感できる」といった言葉を見て常々「?」と感じていたんですね。
今日は「共感」について考えていることを記録します。
1."共感"について考える準備
ここでは「共感」を中心に書いてみます。そもそも物事に対して「共感」するとはどういったことなのでしょうか。漢字そのものから見ると「感を共にする」ということですよね。もっと詳しく見てみましょう。
僕が個人的に気になっているのは「ヒトは他人のことをより深く理解することができる」という文言です。果たしてヒトはヒトのことを深く理解することが出来るのでしょうか。はたまた、「共感」=深い理解というのは本当なのでしょうか。
僕はここでボードリヤールの「シミュラークル」とクロソウスキの「諸力」(正確には『ニーチェと悪循環』で使用していたもの)を利用して考えてみました。ここでは本筋を考える前段階、準備をします。
我々人間にはあらゆる「諸力」というものが錯綜しています。例えば「〇〇をしたい」「〇〇面白そうだな」「〇〇食べたいな」…挙げればキリがないのですが、所謂「指向性」というものを所有しています。言いかたは色々あるでしょうが一言で言えば欲望や欲求の類だと考えて貰って結構です。(厳密には欲望と欲求は全く以て異なるものですが、今回は詳細な説明については省きます)
ニーチェはそれを「猛獣」と比喩します。我々は自分自身でもコントロール出来ない力、あらゆる方向へ向かって行く力、すなわち「諸力」が身体の中に渦巻いているんですね。この手に負えない力をどうコントロールするか。ニーチェは「そんなもん、1個の中心点を与えちまえばいいのさ」と言うのです。これが所謂「真理」というものになります。
1つの真理に向かって諸力を集中させることで他のものに眼を向けさせず、そこへ向かって行く。ある意味でその真理も諸力の一種、諸力の中のうちの1つではありますが、まあ、簡単に表現するなら「もしかしたら他にもっと重要なことがあるかもしれない」というチャンスを見逃しているということでしょうか。
つまりここでまず抑えておきたいことは、真理=1つの中心点であり、真理などはそんなものではない。諸力がある限り、真理というのは可変的であるということ。とは言え、真理というものがあるということは我々の思考には少なからず存在する訳で、それについてある一定の解釈を与えてあげないとならない。真理が存在しないというのは難しい。
そこで使用するのがシミュラークルという概念です。訳すと「模像」というところでしょうか。このニーチェとシミュラークルがどのようにして関わってくるのでしょうか。
我々の身体には諸力が散乱しています。諸力というからには様々な方向に力が働いている訳です。あれしたい、これしたい、あんなこともしたい…等々様々にです。
図示が下手くそすぎて申し訳ないんですが、イメージとするとこんな感じで、本当はもっと矢印が沢山ある感じです。着目してほしいのは色がついている箇所。ここが所謂「シミュラークル(模像)」というものになります。諸力の交点により出来た空間です。
交点がシグナルを発する場所です。例えば、全く関係のない何かが交わった時に繋がる感覚とでも言えばいいのでしょうか。
ここでも少し触れているのですが、全く関係のない本を読んだ時に「あ、これってもしかして…」となる感覚だと思うんですね。つまりその繋がるという感覚そのものが何かしらのシグナルであると思うのです。そうしてそのシグナルがどんどん増え、そのシグナルが生み出した空間というのが真理となる。
ただここで留保していおきたいのは、あくまで「模像」なのです。つまり先にも述べたように可変的であるということです。例えば同じ作品をAさんとBさんが読んだとしますよね。しかし、AさんとBさんでは考えることは当然異なる訳です。それは何故かと言えば、AさんとBさんの諸力は一致していないからです。
仮に同じ事を考えていたとしても、その時に何に対して興味があるかとか、どんな欲望や欲求を持っているかで変わってくる。もっと言ってしまえば、個人でも十分に起こり得ることです。僕はよく感じるのですが、かつて読んだ作品を時が経って読み返してみるときに少し感覚が異なるってことありませんか?正しくそういったことだと思うのです。
ここまで準備が長くなりましたが、さっそくこれらの概念を利用して本筋に話を引き戻していきたいと思います。
2."共感"とは?
さてここからいよいよ「共感」について考えていく訳です。長ったらしくニーチェやらシミュラークルやらと話をしてきたのですが、これが果たしてどう関わってくるのか。
先程、僕は「同じ作品を読んだ、見たとしても諸力が異なる」と書きました。それはつまり、皆が皆異なったシミュラークルを持っているということになります。何1つ同じシミュラークルは存在しないのではないのか。僕はそう考えました。
つまりここで言いたいことは、お互いに深く理解するということがまず以て不可能であるのではないか?ということです。しかし、「共感」というものは「深く理解することができる」状態な訳です。では、「深く理解することができる」という状態とはどのような状態なのでしょうか?
(ⅰ)等しいシミュラークル
簡単に図示すればこうなります。AさんとBさんが同じ作品に触れた時に全く以て同じシミュラークルを生成するということです。しかし、これはハッキリ言って不可能だと思います。諸力が2人とも全く同じ方向へ向かっている状態でなければならない。作品のシミュラークルと自身のシミュラークル、あるいは人と人とのシミュラークルが全く同じでなければならない。現実的に不可能であると思います。
(ⅱ)相互シミュラークルによる新しいシミュラークルの創出
またまたド下手な図示で申し訳ないんですが、表現するとこんな感じでしょうか。恐らく、こちらの方がより現実的で達成される可能性も非常に高いように思われます。簡単に言うなれば、「アウフヘーベンによる真理の模像の創出」であるのではないでしょうか。
つまり、潜在的なところでの繋がりだと僕は考えます。表面的なところで繋がっているということではなくて、あくまで潜在的なものです。加えて言うならば、お互いに作り上げていくものであると僕は考えています。対話を重ねることで発生する、具体的ではなく、こうなんだろうな、もっと抽象的なものだと思うのです。
どちらの場合でもそうですが、作品であるならば作品のシミュラークルと自身のシミュラークルとの対話が重要になってくると思うし、人との関りであれば相手のシミュラークルとの対話が重要になってくると考えています。
ここまで長ったらしく書いてきた訳なのですが、僕が考える「共感」というのは相互シミュラークルの対話による新しいシミュラークルの創出ということです。しかし、ここで問題なのはこれをハッキリと自覚することが難しい点にあります。「何となく繋がってるのかな」という具合だと思います。ハッキリとした形を帯びておらず、それを明確に捉えるのは難しい。でも繋がっているという感覚はどこかにある。こういったことだと思うのです。
重要なのはここからなのですが、「分からない」という前提から初めて相互シミュラークルの対話が始まるということです。ここが僕の考える「共感」のミソになってきます。「分からない」という状態から初めて対話が生まれて、その対話を重ねることで何となく繋がっていることを理解することができる。
つまり、僕の考える「共感」というのは
①前提として「分からない」という状態にあること。
②相互にシミュラークルを捉えること。
③相互のシミュラークルを捉えたうえで、新たなシミュラークルを創出すること。
④何となく繋がっているという感覚を獲得すること。
これらのことを総体したものであると僕は考えています。
3.現在に蔓延る"共感"の真相
僕は現在の「共感」という言葉の使われ方に疑義を抱いています。例えば皆さんにはこんな経験ないでしょうか?
仲の良い友人と飲みに来た時に、「ねえ聞いてよ~」と話を始める。話を聞くと自身の身にも起きうることであったり、また同じような境遇であったことからその話に聞き入ってしまう。そこで相手が話をしていた時に自身が経験したことと全く同じようなことを話した。その時に「分かるわ~」と言ってしまうことないでしょうか。
世間一般ではこれも「共感」の一種として扱われるらしいのですが、いや流石にこれは違うだろと僕は常々感じています。
これはあくまでも経験的知による繋がりであって、表層的なところでしか繋がっていない。仮に全く以て同じような経験を経たとしても、そこで感じる事柄や感情はそれぞれが異なると思うんです。先の言葉を使うなら、諸力はお互いに異なるから、同じ経験をしても感じることや考えることは異なる。
それなのに「分かるわ~」なんて言われたらたまったものではないですよね。僕は「分かるわ~」と言われた時に少しイラっとしてしまいます。「お前に俺の諸力が分かってたまるか」と。しかし、反射的に出てしまうことは勿論あります。そこでどのように軌道修正するかが重要であると僕は考えています。
先程、「共感」の前提には「分からない」という前提が存在するということを書きました。この「分かる~」という言葉はこの前提と相反する言葉になります。実際に「分かる」と言ってしまうとそこで話は完結して、表層的な繋がりで終わってしまう。ではそれを真に「共感」に持って行くためにはどうするのか。これは簡単です。
仮に「分かるわ~」と言ってしまっても、話の最後に必ずこう聞いてあげてみてください。「あなたはその時、何を感じたの?」と。感情やその人の思考というものは何もしなくても伝わるものでもないし、理解できるものではありません。その部分に関して聞いてあげること。ここからようやくシミュラークルの対話が始まり、真に「共感」するというところへ向かって行けるのだと思います。
またもや長く書いてしまったのですが、現在の「共感」というものは所謂、経験的知に裏付けされた表層的な繋がりだと僕は考えています。要するにただの了解作業をしているに過ぎないのです。自身の経験に沿って「分かる」ようにしているというのが現在の「共感」であるというように考えています。
以上が僕の考える「共感」というものなのですが、ここまで要点だけを纏めてみるとこんな感じになります。
(ⅰ)現在の「共感」=経験的知によって裏付けされた表層的な繋がり。
(ⅱ)真に「共感」する=新しいシミュラークルの創出。(深いところでの)
(ⅲ)創出されたシミュラークルを理解することは困難→認識すること(「何となく繋がっている」という感覚)は出来る。
こんなところでしょうか。
軽々しく「共感できる」と書かれていますが、そんな「共感」は「共感」じゃあない。ただの了解作業だからな。と警鐘を鳴らしたい。それだけ。
よしなに。
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