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雑感記録(28)

【僕の原点回帰(大学編)】


先日、同様のタイトルで記事を掲載しました。

この高校編なるものを書いている時に、学生時代が走馬灯のように蘇ってきました。高校時代の放課後はまず以て、僕の思考形成という意味で非常に原初的な体験だった訳です。何というか僕の奥底に通底している思考軸とでも言えばよいのでしょうか。そういった意味で原点な訳です。

僕は一応、読書好きな人間…という立ち位置にいると自負しています。Instagramとか見て頂ければ分かるやもしれません。本当に自分の好きなものしか投稿していませんから。しかし、今思い返してみると自分で凄く不思議な感じがするんです。何故かというと、僕は読書がそもそも好きではなかったからです。

今日は自身のそんな境遇を綴りつつ、再度「読書」という原点から自分自身を見つめなおしてみたいと思います。


〈読書好きとしての原点〉

話は高校時代から始めたいと思います。僕は高校時代、実はあまり読書をしてこなかった人間です。いや、むしろ全然していなかったというのが正確でしょう。本当に必要最低限の読書、まあこれは皆さんと同じです。つまり、「教科書を読む」ということぐらいしかしてこなかった訳です。何か自分で本を買ってきて読むなどということは全く以てしませんでした。というより興味がなかったというのが本当のところだと思います。

ただ、高校3年生の時に倫理の授業を取ったんですね。これが僕の中に残っていた中二病の残滓が心を大きく揺さぶったんですね。簡単に言えば「哲学学んじゃってる俺、かっこよくね?」という感じです。気持ち悪いですよね…今こうして冷静に考えてみるとね。

倫理って本当に読書好きな人にとっては今思えばだいぶ天国的な授業なんですよね。哲学、まあ古代ギリシア哲学から現代哲学まで広くやりますし、何なら日本の文学的なこと、夏目漱石や森鷗外(確か「かのように」をやったのかな)なども学ぶことが出来るからです。哲学と言いつつも文学についても学べるその広さに面白みがあった訳です。

始まりはこの倫理の授業からだったと思います。最初に興味を持った著作として、これ未だに忘れられないんですが

これを読んだんですね。正直に言うと「マジで意味わからん、こんなん読んで何が楽しいだ?」という感覚になったことを覚えています。

ここから興味が湧けば良かったのですが、ここで僕は「こんなんつまらん」と投げ捨てました。今思えば、そんな時の自分を思いっきりぶん殴ってやりたい気分ですが…。これを読んでからはあまり本を読むということについては特段何も起こりませんでした。


時はしばらく過ぎて、大学時代。恥ずかしながら僕は推薦で大学へ進学しました。要するに学校の成績は良いけど、模試やら試験やらの成績はダメダメで、お情けで大学へ行かして貰えたというような状態な訳です。こんな気持ちで入学すれば「俺は劣等生なんだ」という意識が自分の中で無意識のうちに生まれる訳です。(いや、こう書いている時点で無意識ではないのだろうが…まあ、そこは置いておきましょう。)

僕は最初のクラスの授業で衝撃を受けました。これは鮮明に覚えています。クラスの皆が皆、「好きな作家は誰だ」とか「好きな作品は何だ」とか話している。ある程度知識はあったから「ああ、夏目漱石ね」とか「村上春樹ね」とかそこらへんは分かっていたけど「おれ、ツルゲーネフが好きなんだよね」とか「わたしジュネの『泥棒日記』が好きで、フランス文学学びたいんだよね」とか…マジで何言ってるか訳が分からない。

そんな中、「君はどんな作品好きなの?」と聞かれた時に恥ずかしくも言葉に詰まってしまった。「……夏目漱石とか?」というと「作品だったら何が好き?」と聞かれる。おうおう、これは困った。教科書でしか読んでないんだから他の作品なんて知る訳がない。「…『こゝろ』とか…かな…」というと一言「ベタだよね~」との返し。これほど悔しい思いをしたことはなかった。

こいつらよりとにかく量をよむしかねぇえ‼‼‼‼‼‼‼‼‼

この一心でした。高校時代の時も部活で入部初日で出鼻を挫かれている訳です。そんなことの二の舞になってたまるか、このやろう…という気持ちが僕の心を支配しました。せっかくこんないい大学に入学したんだ。自分自身を大きく変えてやるんだ。そんな心持でした。

これが僕の読書好きになるスタートになります。


しかし、急に本を沢山読もうと思っても、中々読めるものじゃない。第一、何を読んだらいいのか?というところからのスタートですから、本当に右も左も分からない状態でした。

「図書館へ行けば何とかなるだろう」と安易に考えた僕は文学部のキャンパスにある戸山図書館へ向かった訳です。学生証をゲートにかざしていざ入場!……ところがどっこい。「えっと、どこへ向かえばいいんだ…?」

そりゃそうです。今までまともに本を読んでこなかった人間がいきなり本の森に真っ裸で挑んでるようなもんです。最初はどの階にどんな本があるのかを把握するところから始めました。地下1階から4階まで時間を掛けて探訪しました。壁の至る所に、しかも天井にまでおよぶ本たち。「うわ~、これ地震が来たらどうなるんだろう」なんてアホみたいなこと考えながら歩き回りました。

しかし、歩き回ったところで「結局、俺何読めばいいの?」となるのは至極当然の帰結。それでもクラスの奴らより量を読むんだと決めていた僕は「何か1冊選ぶんだ…ええい、この際何でもいいや!」とどこか自暴自棄ぎみで選び出しました。それが

『横光利一集』でした。(図書館で読んだものには確か『伊藤整集』は収録されていなくて、『横光利一集』のみだった記憶があるのだが…筑摩書房から出てたやつで…)

しかも、ゴリゴリに『機械』から読み始めた訳です。文学に何の素養もなかった僕にとって正直「何が面白いだ?」と思いました。せいぜい分かったのは「屋敷が死んだ」という事実だけで、その他については言葉が漏れていく感じというか、全く頭に入ってこなかった。

「ふーん」という感じで途中からだんだん「読みたくないな…」という感情になったのですが、その時にクラスの人たちの、あの「お前それも知らないのかよ」という顔が一気に眼前に現れたのです。

「くそう、何が何でも読み通してやる!」と心に強く誓い読み進めました。また、授業を受ける中で課題図書だったり、「この本は読んでおけ」というようなことも言われたりしていたので、色々と本を読まねばなりませんでした。半ば強制的に。

先述した通り、僕は本当に文章を読むのが苦手で、ただただ苦行でしかなかったんです。でも、ここで読むのを辞めたらあいつらの顔が…と自分を奮い立たせました。大学1年生の時、僕は読書に時間を費やした訳です。嫌々ながらも。


大学1年生、時間があれば図書館へ行き、幸運なことに図書館が夜10時まで開いていたので遅くまで残って読んでいました。酷いときは朝9時の開館から夜10時までいることも普通にしていました。本当にただ何も考えず、黙々と書物を読んでいました。

それからしばらくして、大学2年生になった時、少し変化が現れ始めました。まず、読むスピードが格段に速くなったことでした。今まで短編を読むのでも半日費やすこともあったのですが、それなりの作品であれば3時間もあれば読めるようになったのです。

次に現れた変化は分からないことを楽しめるようになってきたことです。文学を学ぶとは言いつつもそれを論じるには哲学的な素養が必要になってきます。これは否が応でもです。哲学書を読もうとするのですが、ハッキリ言って何言ってるか分からない。「認識論的布置の転倒?なんそれ!?」「コペルニクス的転回?なんぞ?」とか色々と分からない言葉が羅列されている。

最初は「こいつは何が言いたいんだ」「こいつのこういっている趣旨はなんだ」とか色々と考えて読んでいたんですが、限界はある訳です。まあ、そもそも頭良くはないですから。それが気になったら気になりだして理解するまで深く考えてしまい、結局分からなかった時のあの消化不良感。

しかし、ある程度本を色々読んでいると、どこか余裕?が出てくるのか分かんないんですが「ああ、またこいつ変なこと言ってるわ(笑)」みたいな感じで受け取れるようになったんです。勿論、それについて深く考えることはしましたが、以前より時間を掛けることはしなくなりました。心に留めておくぐらいにすることが出来るようになったと思います。

そして、これが1番大きかったのかもしれませんが、世界はどこかしらで繋がっているということを知れたことです。本って色んな種類な本がある訳です。文学作品もあれば雑誌だったり、画集だったり、写真集だったり本当に色々とある訳です。一見何の関係もないような本であってもどこかに繋がりがあって、それが植物の根のように広がりを持っているんです。

哲学書を読むとそれがよく実感されます。最初、「こいつは何を言ってんだ」と分からないところが出てくるけど、他の全く関係のない作品を読んだときに突然、そう正しく晴天の霹靂のように降りてくることがある。「ああ、もしかしてあいつが言いたかったことってこれなんじゃねえのか?」と繋がってくる。そこから色んな角度に広げることが出来る。「例えばこういう場合だったら…」などと。

そうして不思議なことに、これは本の世界だけでなく、僕らの生活している世界にも繋がってくる。つまり、本は言葉を通してあらゆる世界との繋がりを読者に持たせ、世界を広げる可能性を読者に与えてくれるものであると。これほど面白いことはない。自身のパースペクティヴが広がる瞬間ほどに快感なことがあるだろうかと僕は感じてしまったのです。


こういった経験があったことで、今もこうして本であったり芸術の分野に飽くなき向上心を持って接することが出来ているのではないのかと常々思います。というより、嫌いにならずに、飽きもせずにこうして続けられていることが僕にとって本当に幸運なことな訳です。

人生を賭けてでも向き合っていきたいものに出会えて僕は本当に幸運な人間だと思います。

ちょうど昨日、こんな記事を書きましたが、この経験こそ正しく「なにくそ」というある種のネガティヴから生まれた訳です。「うわ、俺は全然知らない」「こんな人たちとやって行けるだろうか」というある種のネガティヴから今ではポジティヴに大変身を遂げている訳です。

再度の繰り返しになりますが、「自我をへし折ってこそ浮かぶ瀬もある」…。自分で言うのも恥ずかしいですがそれを身をもって体験したと言っていいのではないでしょうか。


最後に。これだけは伝えたい。

読書をすることは単に「頭が良くなる」とか「文章能力が向上する」とかそういった表面的な効力をもたらすものではない。読書を通じて、言葉を通じて、この世界との関り方、繋がり方を身をもって体験すること。それが真の読書である。と。

よしなに。



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