見出し画像

雑感記録(183)

【エッセー/対談集を読もう!】


最近、どうも長い文章を続けて読むのがしんどくて、対話集やエッセーばかり読んでしまう。

現在は柄谷行人を中心に色々な作品を読んでいる。『探究Ⅰ』『世界史の構造』『柄谷行人 中上健次 全対話集』『ダイアローグⅠ』など。あとはちょこちょこ丸山圭三郎の『言葉と無意識』とか、鷲田清一の『普通をだれも教えてくれない』とか…。昨日は田村隆一の『腐敗性物質』を合間に読んだかな。柄谷行人を読みながら色々な作品に手を出している。

今僕が列挙した作品には共通点がある。

それは、「章立てが非常に細かい」ということである。総体として見ると文章量は当然多いし厚みのある本である。ところが、これらの作品は非常に細かく章立てがなされており、キリがつけやすい。非常に有難い話である。お陰で自分で「ここまで!」と中途半端な切り上げの見極めをしなくていいというのはある種助かっている。1人で読むとどうも下手な所で見切りをつけていけない。

そもそも、キリをつけずに一気に読めればいいのだろうが、僕は飽き性であるから、常に何冊か携えていないと落ち着かない人間である。1冊を延々と読めるほど僕は忍耐強くないのである。僕は僕の諸力に従って生きていたいなと思う。せめて自分が好きな事柄に対しては、正直に居たいと思うのは傲慢なのだろうか。


そんなことはさておき、僕は小説や哲学作品を読むことも当然に好きであるが、実を言うと対談集やエッセーを読む方が1番好きなのかもしれない。何というか身構えず読めるという点で、まず以て僕の中で「読む」というハードルが極端に低い。それなのに深い内容、中身の濃いものがそこに凝縮している。有難いことだ。

当然、中には対談のレヴェルが高かったり、エッセーもレヴェルが高かったりすると途中で「ムムムっ!」となることはある。しかし、小説や哲学などと異なり、別に全てが全て分かろうとしなくていいというその寛容さが大きい。エッセーや対談集は小説や哲学作品などとは異なり、「分からない」を受け入れてくれる懐が深い。もう少し具体化してみよう。

小説や哲学作品はそこに書かれている言葉の流れ、あるいは思考過程を辿ることに愉しみがある。そしてその言葉の作用によって物語が展開していくこと、作者の認知しえない所で働く作用を発見すること。ここに小説や哲学作品を読む面白さがあると思う。しかし、それを発見するにはそれなりの鍛錬が当然に必要になってくる。

とりわけ、哲学作品は過去の哲学作品の反復および更新作業が殆どである。詰まるところ、前提としての哲学作品を知らないと思考過程を辿ることは難しい。ちょうど柄谷行人を読んでいるので、例えば『世界史の構造』を例に挙げてみよう。

『世界史の構造』はマルクスの『資本論』にある、所謂「価値形態論」の部分へ着目し、すなわち交換様式A,B,C,Dとして、その交換様式それぞれと国家の成立について述べられることになる。例えば交換様式Aであれば、「贈与」の話がメインになってくる。この「贈与」を考えるうえではパッと思い浮かぶのがマルセル・モースの『贈与論』である。仮に日本の最近の著作で挙げるなら近内悠太の『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』もあるだろう。

まず以て、こういった「贈与」とか「互酬性」とかそういった言葉を見た瞬間に、そういったことを思い浮かばなければならないはずだし、浅くとも少しはその概観を知らなければ難しい。無論、当然知らなくても読めることは読める。言葉そのものとして読めるのだから、記号としては読めなくはない。しかし、意味が分からないのでその真意の数割かを見落としている可能性がある。中には丁寧に触れてくれる人もいるが、書きたいことは自分のことなのだからそこまで文量を割くことは出来ない。つまりは、ある程度の日頃の読書経験が試される。

話を更に脱線させるなら、この『世界史の構造』はこの作品の前に書かれた『トランスクリティーク カントとマルクス』をベースとして書かれている。この作品を読んでいればある一定は柄谷行人の思考過程を辿ることが出来るのである。こういった事情を踏まえると、やはり哲学作品を読むということは最低限の知識が求められ、また小説も然りであるということである。

それで対談集やエッセーになる訳だけれども、これらも当然に作者の思考過程を辿ることに面白さがあるのは間違いない。しかし、全部が全部分かる必要はなくて、先の例で挙げた哲学作品まで厳密な外部的な知識を無理に必要としない所が凄く楽でいい。

だからと言って、「じゃあ何にも知らなくていい訳だな」という事にはならない。知っていることに越したことは無いのだから、知っていれば当然に良い訳だが、「そこまで読むことのハードルが高くない」という意味である。知っていた方がより愉しく読めるけれども、知らなくても愉しく読めるという意味で僕は先に「分からない」という事に寛容であると述べたのである。

とこんなことばかり書いていてもなんなので、僕の個人的なオススメエッセーを列挙していこうと思う。もし興味があればぜひ覗いてみて欲しい。


1.ル・クレジオ『物質的恍惚』

僕の大好きなエッセーである。何回も何回も何回もこの僕の記録では書いているのでもう詳しいことは書きはしない。ル・クレジオについても何度も書いている。それぐらい僕は好きである。

純粋に「言葉を味わう」という意味で凄く良い作品である。ル・クレジオ自身の体験や思考が延々と語られる。しかし、どこか言葉が読む僕らを拒むように並んでいて分からせようとしない姿勢が見える。僕はこの『物質的恍惚』のお陰で生きること、働くことが馬鹿らしくなり「転職」を決意し実際にした。そういう僕の経験もあるから思い入れがある。


2.保坂和志『人生を感じる時間』

保坂和志はこの手の本は全部お勧めしたい。本当ならば全部と言いたいところだが、その中で選ぶならこれかなといった感じである。これは単行本の『途方に暮れて、人生論』の文庫版である。ちなみに僕は好きすぎて単行本も文庫本も両方とも持っている。

保坂和志の場合は自分の経験則というよりも、「小説から世界を考える人」であり、どこか現実と虚像の狭間で書いているような印象を受ける。詰まるところ、「小説」と「エッセー」の境界線がない。これは当然に小説もまた然りである。特に個人的には『朝露通信』なんかは本当に混乱したものである。

これも過去の記録で再三に渡って書いているが、僕はもはや保坂和志の信者みたいなところがある。どうしても肩入れしてしまうのである。許してほしいところではある。ちなみにだが、リンクを貼ることはしないが『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』は読んでおいた方が良いだろう。あれこそ正しく「小説から世界を読み解く」ということなのだろう。


3.大澤聡『教養主義のリハビリテーション』

これについては、「読書を始めたいけれども、読書をする意味が分からん」という人にはオススメである。大澤聡の言葉から伝わる優しさ、そして一見すると他愛のない話に見えて実は結構奥が深い。

これを読んだのは社会人になってからだったと記憶している。ちょうど僕の周りには読書する人なんか毛ほどもいなくて、自分自身が「本を読むことなんてな…」と少し打ちひしがれている時に確か読んだ。本を読むことが重要であると分かっていても、それをいざ言語化するというのは難しい。でなければ、ここ数日こんなにnoteを書きはしない。

読書を好きな人も、まずそもそも「読書することって何よ?」という原点的な所からもう1度振り返ってみると良いかもしれない。この本をきっかけに考えて頂くと良いんじゃないかなと思ってみたり。


4.大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』

これはある意味で上級者向けの詩の入門みたいなところがあるが、実際読んでみるとそうでもないことが分かる。これについては前回の記録で谷川俊太郎の記録を残した時に、この作品から数多く引用した。詩人の考えていることを知る上では非常に重要な作品である。

しかし、タイトルにもある通り『詩の誕生』であるので、2人の詩人の経験を通して延々と語りその答えに近づいていくその過程を辿るのは非常に面白い。言葉のダイナミズムを感じられるいい作品である。これは詩を読みたいと思っている人、あるいは「詩は感性で書かれている」と思い違いをしている人はぜひ一読されたい。


5.金井美恵子『目白雑録(ひびのあれこれ)』

僕は金井美恵子の小説は読まないが、金井美恵子のエッセーは大好きでよく読んでいる。とにかく書き方が最高である。そのエッジの効いた言葉の数々に僕はやられてしまった。とこういうように書かれることを拒まれるのだろうけれども、こう書かずにはいられない。

男性作家の書く文章を所謂「マッチョ」と比喩しているところも秀逸だが、そこに続く辛辣な言葉の数々もまた凄まじさがある。痛快。その一言に尽きる。何というか、人のエッセーを読んでここまで気持ちよくなれるのか!?という経験をさせてくれた初めてのエッセー集。


6.園子温『けもの道を笑って歩け』

これは僕が好きな『非道に生きる』というエッセーの謂わば、続編のエッセーとなるものである。『非道に生きる』では2012年あたりまでしか書かれていないが、このエッセー集ともなると2017年ぐらいの頃まで確か書かれていたはずだ。これほどまでにアホなそれでいて深淵なるエッセー集はない。

園子温というと恐らくあまり良いイメージはないだろう。映画だと血が噴き出てるし、女はみんなセックスしてるし…といったようなエログロ映画を製作する人間だが、文章は中々面白い。と言うよりも破天荒気味な文章である。当然に、作者自身が破天荒な生き方をしているので…というと何だか変だが、そういったことを反映しているような文章である。

しかし、よくよく読んでみると、所々に優しさがある。「今何かを生み出そうとしているが中々上手くいかない」という人にはオススメの本である。


7.深沢七郎『生きているのはひまつぶし』

深沢七郎についてはもう何を読んでも面白い。ただ、とりわけエッセーは本当にのびのび書いている感じがして読んでいるこちらも気持ちがいい。一見、馬鹿のようなことを延々と書いているが、裏にはどことなく暗くぬめぬめしたようなものが隠れている。

深沢七郎と言うとやはり『風流夢譚』で悪い意味で文壇に衝撃を与えた訳だが、他の作品もかなりいい。僕は地元が一緒なので、その言葉のリズムが分かるので読んでいると故郷を思い出す。あの会話のテンポ感は僕がそこで生まれて育ったということをいつでも思い出させてくれる。

エッセーは勿論だが、『笛吹川』『甲州子守唄』はオススメしたい。


8.古井由吉・大江健三郎『文学の淵を渡る』

これも本当なら古井由吉のエッセーも実際全部が全部最高なので、保坂和志と同様に全部オススメしたい。しかし、ここはある意味で苦渋の決断的なところがある訳だ。この対談集は中々に深い。

現代文学を牽引してきたある種の2台巨頭の対談。これほどまでに重厚感のある言葉が両者から飛び交い、その言葉に魅入られる。実は僕は古井由吉は友人が好きで読んでいたので、そのお陰ですんなり入れたのだが、実は大江健三郎はあまり読めていなかった。この対談集を機に大江健三郎を読み始めたことは確実である。肌感を持った記憶として僕にはある。

しかし、これは自分で言うのも烏滸がましいが2人の小説を読んで、その世界観を味わったうえで読むとさらに愉しめる。言ってしまえば、上級者向けかもしれない。古井由吉のエッセーも単体で面白いのでぜひ。


9.吉岡実『「死児」という絵』

これは正直、もう完璧な僕の趣味だ。吉岡実については延々と書いているので、これももう書きはしまい。詩については実際に読んでもらうと良いだろう。

しかし、吉岡実が書く散文と言うのは個人的に中々新鮮である。恐らくだけれども吉岡実の纏まったエッセー集はこれぐらいではないか?あと新書かなんかで出ていたものだと思うが、このエッセー集の重厚感には敵わないだろう。そら当然か。文量が違うんだもんな。


10.三島由紀夫『美と共同体と東大闘争』

これはもう映画にもなっているので、映画を見てもらった方が早い。しかし、全部が全部映像化されている訳ではないので、全文を知りたい人はこれを読むことをオススメしたい。

正直、僕は三島由紀夫の小説は好きではないが、批評やこういう対談集みたいなのは好きだ。「三島かっけえな…」と思わず。右とか左とかそういうの関係なしに「天皇性」について考える上では非常に重要な討論の記録だと僕は個人的に思っている。『文化防衛論』と併せて読むと良いのかもしれない。

右か左かという問題は今も当然にある訳だが、ある意味でどちらの立場にも寄らずニュートラルな気持ちで読んでみると意外と発見があったりして面白い。


11.石ノ森章太郎『漫画超進化論』

この対談集も中々興味深いものがある。漫画と言うものが小説からスタートしているという内容のものもあったりと、名だたる漫画家たち、とりわけ日本の漫画界を牽引してきた作家たちによる漫画対談である。

これも単純に自分の興味なのだが、漫画好きな人はぜひ読んでみて欲しい1冊である。オススメです。


小説あるいは哲学作品を読んで少し疲弊してしまった人、あるいはこれから小説を読もうと思っているけれども中々そのハードルが高い人は実際、エッセーや対談集から始めてみるといいかもしれない。大概、その中で本の話も当然にされる訳なので、その本を気が向いたら読んでみるでもいいと思う。僕がよく言うところの「数珠繋ぎ的読書」をするには持って来いである。

本当なら仔細に検討したうえで紹介したかったが、僕にその体力が無かったのでこういうような雑な形で紹介せざるを得なかった。僕の力量不足であり、怠慢である。

ぜひ、エッセーや対談集を読んでみてください。

よしなに。

現在読んでいる対談集たち


この記事が参加している募集

スキしてみて

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?