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雑感記録(303)

【芸術的感性の話】


ここ最近、様々な記録を書いている中で感じることである。

これは過去の記録で書いていて、例えば「あそび」の問題や、あるいは「宙吊り状態」というのは言ってしまえば、僕が勝手に谷川俊太郎やマゾッホ、そしてドゥルーズから借りてきた概念である。そしてその2つともある意味で芸術的な感性(?)とでも言えばいいのか。そういったものから出発していることは言うまでもない。

僕が何かを語る時、ベースにあるのは広く言えば「芸術」、狭く言えば「文学」「哲学」である。その物について語ることもあれば、それを援用して何かを語るということもする。基本的に僕のスタンスは「援用して語る」という方が比率としては多いかもしれない。僕は「道具的な」という表現が物凄く嫌いなのだが、敢えて便宜上ここでは利用する。文学や哲学を「道具的な」観点から利用している訳である。

また、僕は本を読むことが好きであるが、読んでいる存在が居なければ読書は始まらない。そう考えると、まず読書をするには読む人間が生きていなければならない。大前提も大前提である。そして、僕らは今この世界に居て、さらにその世界の中の自分の中の世界で生活して生きている。僕は先日の記録で書いた谷川俊太郎の言葉が本当に身に染みてよく分かる。もう1度引用したい。

 あらゆる人間は 常に何ものかを通して、生き続けてゆこうとしているのである。詩人もその例外ではない。彼は詩を通して生き続けてゆこうとしているのであって、決して詩そのものを求めて生きているのではない。生きてゆくために、あるいは、生きているから、詩を書くのである。私は詩に惚れていないが、世界には惚れている。私が言葉をつかまえることの出来るのは、私が言葉を追う故ではない。私が世界を追う故である。私は何故世界を追うのか、何故なら私は生きている。
 私にとって。世界は女に似ている。私は世界と一緒に寝たがっている。私のいうことは観念的に響くのであろうか。だが世界という言葉は、私にとっては、大層肉感的な言葉なのである。

谷川俊太郎「世界へ!」『沈黙のまわり』
(講談社文芸文庫 2002年)P.34,35

僕も自分自身の世界、そして生活が好きだ。だから僕の出発点は生活なのだと思う。生活していく中で、些細なことから大きなことまで数多くの出来事や、本当に取るに足らないことが山のように発生する。だが、僕にとってそれが面白いのだ。何故なら、それが生きるヒントを与えてくれているような気がしてならないからである。確かに、僕も言葉そのものよりも世界や生活の方が好きなのかもしれない。

言葉で世界を創造する。僕の中ではそれが1つの言語芸術感だった。小説に於いても詩に於いても。言葉で世界を創造することこそが至高であると。だが、それはどうも違うみたいだ。言葉で世界を追いかける。これが正しいような気が最近では感じる。世界は言葉では覆いきれない程の膨大なものである。世界を言葉で創作するというのは途方もないことだ。だって、ただでさえ言語化することのできない感情を僕らは持っていて、自分でさえも自分のことを捉え切れないのに、世界や生活をというのは無理な話ではないか?


ただ毎日を無為に過ごしてしまう。

よく、「今日は何も出来なかった」あるいは「今日は動き出すことが出来なかった」という人が居るよね。僕はそんなことで悩む必要ないと思うんだ。無為に過ごしたって良いじゃない。そんなに動いたら疲れてしまうでしょう。動かないことで見えてくることって様々にあるのだと思う。

例えばね。僕は毎日神保町に居て、毎日同じ書店に入るの。そして毎日同じルートで店内を回って、毎日同じルートでお店を後にして。そしてまた別の古本屋へ向かう。傍から見れば「無為な日常」だ。別に何も起こる訳もない。僕は毎日同じ行動をするのだから、僕の行動そのものには何の変化もない。毎日毎日ただひたすら同じことをしている。

だけれどもね。世界や生活が面白いのは、僕が全く以て毎日同じ動きをしても五感で感じるものは少しづつ変化しているんだ。その時にお店に居る人は昨日居た人とは違う。その時の天気も違う。置いてある本が若干異なっている。挙げればキリは無いが、そういう些細なレヴェルに於いて変化しているのである。別に大きな刺激はいらない。ただ、毎日こういう小さな刺激が蓄積されて行くだけでも良いじゃない。

ルーチンとは違うということだけ言っておこう。

これも過去の記録で「ルーチンは小さな決断をしなくて良いから楽だ」「頭を使わなくていいから楽だ」ということを書いた。

だが、こういう日常の小さな刺激は、本当にどうでも良い決断を迫ってくる。それがまた面白い。例えば、本を見ている人の左右の棚のどちらを見ようか。後を歩こうか。前を無理矢理突っ切ってみようか。…と様々に小さな決断が僕の方にやって来る。でも、この決断の殆どはほんの些細な出来事にしか過ぎない。決断を間違えた所で大きな影響が出る訳では決してない。

こういう小さな決断で日々は変化していく。こういうのを「可能世界論」と呼ぶ訳だけれども、別にそれを語る訳ではない。それはそういう本を読んで貰えればそれで十分だ。僕が語る必要はないはずだ。それで語られてしまうと世界や生活は陳腐なものになってしまうような気がするんだよね。いずれにしろ、僕らの世界や生活は日常であり非日常である。この「あそび」に居るのが僕ら人間なのかもしれない。

そう思ってみたりする。


最近、色んな人と話をするんだけれども言葉に「あそび」がない。

僕がね、無理やりズラそうとするんだけど、軌道修正されてしまう。凄く思うんだけれども、与えられた問いに真面目に答える必要はないと僕は感じる時があるんだ。質問が相手の思考を奪ってしまうことって沢山あるはずだ。これは聞き方とかにもよるかもしれない。例えば「A」か「B」かと聞かれる時に「Aだよね?」と聞かれるか「Bでしょ?」という聞き方をされると、それを選択せざるを得ない感じがする。本当はどちらでもないのに…。

そもそも選択肢が「A」と「B」しかないという点にも注意を払わなければならないけれども、何かを聞くということは言ってしまえば、聞く側が相手の言葉を吸い取るみたいな感じだ。僕は過去にマルクスの言葉を借りて、言葉でのやり取りというのは「命がけの飛躍だ」というように表現している。もし、会話などがそういうものであるとするならば、一方的に質問することはフェアじゃない。「おいで…」という幽霊にも似た地獄の扉の1丁目である。

今、このご時世に求められている物事のその殆どは「短く」「早く」「丁寧」だということを僕は記録で残した。メールの文面1つ取ってさえもそれを感じざるを得ない。特にLINEなんていうのはそうだよね。短い受け答えで、早く返信して、だけれども丁寧にこまめに返信するって言うのが暗黙の了解としてあるよね。

僕は何だか哀しくなる。だからと言ってね、じゃあ長い文章が良いのか?遅い返信の方が良いのか?っていう訳ではない。言葉自体にユーモアを孕ませる余地がないのが僕は寂しいということを言いたい。そして話は戻るが、僕らの感情はたった数文字の短い言葉で表現できるほど単純なものを持っていないのである。

不可避的に長くなってしまう。それを今の人たちは忘れていやしないかと感じる。自分の感情を押し込め過ぎていやしないか。感情の発露をあまりにもコントロールし過ぎではないか。そういう部分は大切にしたい。自分が何に対してどういう感情を抱くか。それを言語化することが全てではない。だけれども、その感情があるということは大切にしたい。


しかし、その感情というものを抱え込むことは厳しい。

厳密には抱え込むことを持続することは難しい。その維持をするには相当な忍耐力が必要になる。だけれども、人間そう丈夫には出来ていない。弱さがあるからこそ、それもまた人間であるということなのかもしれない。この感情を何かしらの形で表現することもまた人間の一種の本能であるとも言えるのではないか。自己表現するということは正しく抱えきれないそのあらゆる感情を整理する手段として存在する。

それが芸術である。と僕は考えている。

それが言ってしまえば、簡単に出来るのが「書く」という行為であり、あらゆる人に許された行為である。今僕は安易に「許された」と書いてしまった訳だが、他の手段でもって表現してもいい訳だ。それが絵画でも良いだろう。映画でも良いだろう。演劇でも良いだろう。そして小説を書く事でも良いだろう。芸術全般は開かれたものである。

ところで、僕は過去にこんな記録を残した。

自己表現をすることは同時に社会や政治を考えることになると。僕はこれまで感情的な部分でのみの話しかしていないが、芸術というのは複雑な感情を表現するものだと書いたが、やはりこの感覚も捨ててはいけないと思うのだ。複雑な感情を表現するということは、その複雑な感情の発露に遡行して考えなければならない。そしてそれは自分の存在している世界や生活から生まれるものなのだ。

そしてその世界や生活は不可避的に政治的な問題や社会的な問題を孕むのは必然のことなのである。逆を返せば、それ無しに自己表現というのはあり得るのだろうか?僕はそれについてずっと考えてしまう。特に僕は文学をベースに考えているからそれがよりダイレクトに伝わらざるを得ないのである。それは言葉というものが世界や生活を構成している要素だからである。

これも過去に書いたけれども、引用を再度してみたい。

石田 つまり、人間は、自然のなかの事物を見分けているパターンと同じ頻度で識別要素を組み合わせ、文字を作ってきたということです。
   こうした研究から、人間の文字は、動物としての人間が自然界の見分けシステムのなかで使っている識別要素とほぼ同じしるしから構成されていると考えられる。つまり、世界のどの文字も、同じ空間識別のしるしから派生した同じ特徴を要素として成り立っている。それらは三ストローク以内で書けるしるしであって、世界の文字はそれらの要素を組み合わせてできている。それらの要素は自然界の中に見つかる要素と同じものだという仮説をかれらは立てたわけです。
東  これはほんとうに感動的な研究ですね。まず第一に、人間がつくったすべての文字は、構成要素の出現頻度の点で見るとみな同じ分布でつくられている。そして第二に、その出現頻度は自然界における構成要素の出現頻度と同じ分布になっている。つまり人間は、自然のなかのかたちの出現頻度をまねるようにして、文字をつくっている。文字と自然は対立していない。それはじつは同じかたちの分布でできている!

東浩紀・石田英敬「ヒトはみな同じ文字を書いている」
『新記号論 脳とメディアが出会うとき』
(2019年 ゲンロン)P.74,75

言葉というか、文字そのものが世界を模したものである訳だ。言葉で何かを考えるということは、それ自体で生活ひいては世界の構築に繋がる訳である。言葉を使用することは二重の意味で世界を構築するのではないか。僕はそう考えているのである。


芸術的感性。僕はこの記録にそのようなタイトルを付けた訳だが、そういう感性が今こそ必要ではないかと考えているのである。

この芸術的感性というのは何もあらゆることを芸術的に捉えるということでは決してない。ここまで延々と書いてきたように「自身の複雑な感情」を大切にするということである。僕はこれを芸術的感性と呼びたい。今の世の中はとにかく画一的な感情を提示されがちである。これも再び引用したい。

 感情を規定するな。要請するな。こういうものに慣れてはいけない。やりとりに不自由が生じている状態を当たり前にすれば、コミュニケーションも言葉も活性化する。「言葉美人こそスター」になれるようではいけない。そもそも、言葉に美人も不美人もない。「言葉美人」と規定する人がいたとして、その規定から漏れる言葉や言葉遣いを「不美人」と処理する人がいるならば、その行為こそ絶対的に、言葉不美人である。4回泣けますと言われて、4回泣いているようではいけない。何度だって抗いたい。

武田砂鉄「4回泣けます」
『わかりやすさの罪』(朝日新聞社 2024年)
P.198

この「自身の複雑な感情」から全てが始まる。コミュニケーション、それも深い部分でのコミュニケーションが始まる。あらゆる物事は何も単純に出来ている訳では決してない。もし、複雑なものを単純化して捉えてしまえることが容易に出来てしまえるのだとしたら、世も末である。複雑なものを「複雑である」ということを認識したうえで、自身で紐解き、そしてあらゆる人との対話などを重ねる中で「複雑である」ものを「複雑である」と受け入れることが肝心である。

しばしば、「分かりにくいこと、難しいことを分かりやすく説明できる人は本当の意味で頭が良い」と評定されることがある。無論、僕もそれを否定するつもりは微塵もない。複雑に入り組んだ仕組みを万人に分かりやすいように説明出来ることは凄いことだと思う。しかし、問題はそれを受け入れる側である。享受する側に僕は問題がある。

安易にそういった「複雑である」ものを「単純である」ものに変換されたものばかり吸収していると、「単純である」ものが至高であると考えてしまいがちだ。難しい本、例えば哲学の原典から遠く離れてしまう。「難しいものは良くない」という判断に陥りがちである。自分自身で「複雑である」ものを自分流に紐解いていくからこそ愉しいのである。例え、誰か先人が先に同じ事を言っていたとしても、考えていたとしても、そこに辿り着くプロセスこそが宝物である。

芸術的感性はそのプロセスをも大切にすることでもある。そしてそのプロセスが発生する場所こそ、生活であり、世界である。これも先の繰り返しになる訳だが、生活や世界にはあらゆるものが転がっている。そこに対して、自分自身が如何に複雑な感情を以てして向き合えるかこそが、今後の世界を生きていくうえでの1つの軸になって行くのではないだろうか。


長々とあることないことを書き連ねてきた訳だが、これを書こうと思った本当の理由を書いておこうと思う。

マッチングアプリを使用していて、極々まれにマッチする。その中でやり取りをすると嬉しいことに真面目な人が多いんだなという印象を受ける。色々とやり取りをしていて、様々な話をしていただけるのは嬉しい。しかし、どうも真面目過ぎやしないかという印象を受ける。それが良い意味でも、悪い意味でも。僕は過去に無名人インタビューを受け、真面目さということについて少しばかし書いた。

勿論、真面目さや真剣さというのは大切である。そういう人は素晴らしく魅力的である。だが、ガチガチに縛られていると「あそび」があらゆる場面で消えてしまう。そんなような気がしてならないのである。この「あそび」というのは何も僕が指摘するところの「隙間」の意味も含むが、「遊び」も含んでいるのである。僕は心配になってしまう。余計なお世話かもしれないのだが…。

こう言うところで僕はたまに苦しいなと思うことがある。

真面目な話を聞くことは愉しい。だけれども、僕はやはり「あそび」が欲しい。それはアプリ特有のメッセージのやり取りで感じる。僕は存分に「あそび」を入れたいのだけれども、その「あそび」が入る余地もないやり取りが続き苦しくなってしまうことがしばしばある。そういったことが最近、有難いことに、何だか自分でもよく分からないのだが、多くの人とマッチしてやり取りする中で感じた。

しかし、これはあまりにも傲慢な物言いである。

それをあまりにも感じざるを得なかった為、こうして書き出してみたのである。全てが全てを分かろうとすることには限界がある。過去の記録でも書いたが、人間100%理解することは不可能に等しい。勿論、理解するように努力することは必要だが、「それでも理解できないことはある」という了解のもとで向き合うことを忘れてはならないなと思ったのである。


さて、今日は2本も書いてしまった。先の記録を書いている時に、何となくこれが思いついたので1時間程度でこれを書く。やはり書くことが無くても何かを書き出すということは重要であると痛感する。

よしなに。

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