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雑感記録(295)

【実家の猫を思う】


 驚くべきことにそれでも幸せはちっとも減らない
 ひとりの女とひとりの男は手に手をとって
 我ながら呆然として
 何もないところに立ち尽くす
 すると時間の深みからまたしても
 あの秘密の誰かの声が聞こえる
 「なんにもないのになにもかもある
 それこそ私の最大の贈物
 それを私は愛と呼ぶのだ」

谷川俊太郎「足し算と引き算」
『真っ白でいるよりも』(集英社 1995年)
P.9,10

今日も今日とて朝早くに目が覚めてしまった。

朝5:00に突然、目がカッと開きそのまま起きた。カーテンを開け、目を細める。目覚ましを掛けていないのにも関わらず、早く起きてしまった。服を着て歯を磨く。しかし、どうも今日は目覚めが良い。不思議である。

僕の過去の記録を見ている人にはお分かりかもしれないが、僕は土曜日にいつも散歩している。前日の金曜日の夜、就寝前にどこへ行くかを決める。以前、どこに行くか決めずに出発数時間前に決めたことがある。

何かを決断することは難しい。例えそれがこうした小さなレヴェルに於いてでもである。だが、冷静に考えて日常というのは決断の毎日ではないかと思う。例えば「今日の夜ご飯を何にするか」という何気ない些細な事であっても、「そうめんも良いけど…パスタも食べたいな…。いっそのこと両方食べるか?いや、それだと太るしな…。」と考えに考え出すとキリが無くなる。そういった小さなレヴェルで毎日毎日決断ばかりしていると人間は気が付かないうちに疲弊してしまうものである。

そう考えると「ルーチン」というのは便利である。決められたことをただ淡々とこなせば良いだけなのだから。しかし、それは逆を返せば思考回路を閉ざすことにも繋がりかねない。「どうしてそれをするのか?」と聞かれた時に「ルーチンだから」で終了してしまう。その元々の動機みたいなものがどこか遠くへ遠くへ行き、いつしか忘却の彼方へ連れ去られてしまう。そんな感じがして怖い。

だが、「ルーチン」も良いことはある訳で、考えなくて済むということは、その決断から逃れることが出来る。それは決められたことであるから、それをしない理由が大層なことがない限り見当たらないからである。ある意味で読書は僕にとってそれなんだけれども、でも「ルーチン」という程「いついつに何ぺージまで読む」とか制限は掛けていない。読みたくなったら読むというスタイルである。そんな感じである。

さてさて、それで散歩コースをどこにしようかと思ったのだけれども、困った時に僕はいつもお台場に行く。これは果たして「ルーチン」と言っていいものなのかは不明だが、大概本当に行くところがない場合はお台場まで電車で行き、海辺を散歩し自己憐憫に浸り、タバコを蒸かして、再び電車で帰るということをしている。しかし、何故お台場なのか。

というのも、わりとこれは自分の中では結構単純な理由である。まず海なし県出身の僕からすると海はどこか異世界連れて行ってくれる場所である。広がる景色の先には何があるのだろうかと想像力を掻き立ててくれる。そして電車での移動時間が思いのほか長く、しかも座ることが可能なのだ。つまりは読書が捗る。そういう訳でいつも何も決まっていない時にはそこへ行く。

それで身支度を整えたは良いのだが、流石に朝の6:00から行くのは早すぎる。とりあえず7:00ぐらいまで読書をしようと思い、竹田青嗣『現代思想の冒険』を読み始める。

こういう入門編的な本は僕からすると物足りなさを感じるし、何より自分が知っている領域だと「ん?」となる部分も多い。だが、その「物足りなさ」を感じるのは知っている人間であり、知らない人間にとってはこれがある種の絶対的なものになる。そう考えると「入門書」というものも手放しには肯定しかねるなと思ってみたりもする訳だが、朝の頭の回らない時間での読書ではこのぐらいの方が平易で良い。

1時間ぐらいで切り上げ、散歩に持って行く本を数冊見繕い、7:15ぐらいに自宅を後にした。


これも前回の記録で書いているが、最近の散歩では音楽を聞かないようにしている。最初は音楽がないことに抵抗があったが、やはり快適さの方が勝ってしまう。今日も暑い。ヘッドホンはある意味で耳当てみたいなもので、冬はそれで暖を取れるが、夏にはそんな暖など不要だ。それに聞きながら歩いていて、暑くなったら外して首に掛けるでしょう。首元の汗とヘッドホンがくっつくのが気持ちが悪い。装着して行かなくて正解である。

それで歩いて、いつもの最寄である神楽坂駅ではなく、少し歩いて江戸川橋駅まで向かった。朝早い時間だと歩行者も少なくて快適である。すれ違う歩行者との距離感をいちいち気にせず歩ける。都会はこういうことを考えなければならないから窮屈である。物理的にも窮屈だが、精神的にも窮屈になりかねない。特に平日の出勤時は最悪だ。道は非常に狭いのに人が沢山だから窮屈でしかたがない。だが今日は休日である。

駅に着いて新木場行の電車に乗る。有難いことに、新木場で乗換えなので終点までは座ることが可能だ。電車もガラガラで端の席を確保し読書に勤しむ。今日は3冊。谷川俊太郎『真っ白でいるよりも』、西田幾多郎『善の研究』、大澤真幸『近代日本思想の肖像』である。僕は飽き性なので毎回3,4冊ぐらい持って行かないといけない。こういう時に困り物である。荷物が増えて仕方がない。

黙々と本をとっかえひっかえしながら読んでいく。

やはり谷川俊太郎の詩は良いなと思う。最初の引用は今日読んだ詩集の中で1番好きな箇所である。特に最後「なんにもないのになにもかもある/それこそ私の最大の贈物/それを私は愛と呼ぶのだ」という言葉に心を奪われてしまった。この詩を繰り返し繰り返し読んだ。この「なんにもないのになにもかもある」という矛盾した言葉の羅列に僕は不思議と惹かれてしまった。そして何と表現すればいいのかまだ定まっていないのだが、自分の生を重ねてその矛盾に僕は沈み込んでいく。

そうして読んでいると、僕の隣に恥ずかしい話だが、滅茶苦茶可愛い人が座って来た。物凄くフローラルな香りがし、スマホを操作する手元がどこか妙に妖艶だった。本当に、あの、変な話ではなくて、東京には美しい女性が多くてどうもドギマギしてしまって良くない。僕はいつもそれを隠すことに必死だ。悟られないように、ただ目の前の言葉に集中する。しかし、それにしても…いい匂いだ…。と書くと変態みたいだ。

しばらくすると、女性の頭が僕の肩に乗る。一瞬「何事か!?」と思ったがすぐに「そうか、疲弊して寝てしまったのだな」と思いなるべく動かさないように本を読み続ける。しかし、集中できない。これがもしおじさんとかだったら気にせず読めるのだけれども、どうも美しい女性だと…困り物である。早く新木場まで着いてくれと祈った。

数分後、終点の新木場に着く。女性の頭は僕の肩から離れ、一瞬僕の方を見て気まずそうにして去っていく。だが、これはあくまで僕の主観でしかない。もしかしたら、というか確実にそうかもしれないが、こんなキモイ男の肩に頭を乗せていたと思うと…と思われていたに違いない。本当に彼女には申し訳ないことをしてしまったなと心の中で謝った。そして良い時間をありがとうと心の中でお礼を言った。

新木場駅はご存じの通り2路線が通っている。1つは京葉線。これはまあご存じ、東京ディズニーランドの最寄である舞浜駅がある路線である。そしてもう1つ、りんかい線である。やはり京葉線のホームに向かう人でごった返す。その人混みを抜け、僕はりんかい線のホームへと向かう。降りると電車は驚く程にガラガラ。僕はお台場海浜公園に向かうため、東京テレポート駅まで再び電車で揺られた。


お台場海浜公園に着いた頃には8:10ぐらいだった。

駅から歩いているとお腹が鳴る。朝ごはんがまだである。どうしたもんかなと思い、歩いて吉野家を見付けたので吉野家で牛丼を食べることにした。僕は大学生の頃をこれまた思い出す。

僕は毎週日曜日の朝1番でバイトを入れていた。朝ごはんをいつも早稲田駅出てすぐのファミマの中にある吉野家(何と、今ではガチャガチャのお店になっていた!哀しき哉!)で牛丼を食べてからバイトに向かっていた。今日と同じぐらいの時間帯である。店内にはいつも僕だけであった。紅しょうがを大量に入れ、つゆはいつも「だくだく」で。半ばお茶漬けのような感じで食べていた。僕はそれを思い出した。

今日もそういう感じにしようと思ったが、タブレットでの注文になっており、「つゆだく」は選べたが「つゆだくだく」にするにはどうしたらいいか分からなかった。僕はねぎ玉牛丼のアタマの大盛つゆだくで注文をした。ここの店舗ではその殆どがセルフサービスみたいなもので、画面に注文番号が出たら取りに行くシステムだった。画面に自身の番号が出たので取りに行き、自席につき牛丼に喰らいつく。無心で食べた。

腹ごしらえした後、タバコが吸いたくなり海浜公園内にある喫煙所に向かう。海浜公園に近づくにつれ黒々とした人たちが散見される。この時期にもうこんなにこんがり焼けてしまったら夏本番は真っ黒になるんじゃないかと思いながらすれ違う。喫煙所で海を眺めてタバコを蒸かす。

だが、朝早くに来た弊害。それはお店がどこもやっていない。大概、11:00ぐらいから始まる訳だが現在はまだ9:00前である。2時間も日陰のない炎天下を散歩するのは、流石に散歩好きとは言えども体力が持たない。暑さにやられては意味がない。どうしたもんかなと考えあぐねる。ふと、谷川俊太郎の他の詩集も読みたいなと思った。朝早くから本を読める場所と言えば1つしかない。図書館である。それで次の行き先は決まった。僕の通っていた大学の図書館に向かうことにした。


再び電車に乗り込み、最初のスタート地点である江戸川橋駅まで戻る。

本当は飯田橋で下車し東西線で乗り換えれば良かったのだろうけれども、やはり神田川の小路を歩きたかった。駅を出て神田川沿いの小路を歩く。それにしても相変わらず生臭い川の匂いが漂う。以前散歩したころよりも強烈な匂いになっている。そして藻が干からびている様子がハッキリと確認できる。もう夏が来るんだな…と思った途端、頭の中でWHAM!『Freedom』が流れ始める。僕の夏曲はこれである。

黙々と歩く。今日は人通りが多い。いや、というよりも犬の散歩が多かった。すれ違うのは人もだが、犬も付随している。小さい犬から大きい犬。そして面白かったのはリクガメを散歩させているおじいさんが居たのには驚いた。やはり東京は凄いなと思った。

それでふと、実家に居る猫のことを思い出す。

僕は実家で2匹猫を飼っている。1匹は僕が中学2年生の頃から一緒だ。里親会で貰ってきた。メス猫である。もう1匹は僕が高校2年生の頃から一緒だ。こいつに関しては父親が「怪我している子猫が居る」ということで見るに見かねて拾ってきた。あれは12月28日の出来事である。オス猫である。こう改めて書いてみると、結構長いこと一緒に居たんだなと実感する。1匹目の猫は迎えて14年が経ち、2匹目の猫は迎えて11年が経つ。

2匹とも人間年齢に換算するならばもうヨボヨボのおばあちゃん、おじいちゃん猫である。特にメス猫の方は動きが最近では鈍くなっており、実家に戻るといつも寝ている。オス猫の方はわりと元気なのだが、しかし2,3年ぐらい前、生死の境を彷徨ったことがある。余命宣告までされたが、家族全員で全力でサポートした甲斐があってか、何とか生きている。しかし、いつ悪化してもおかしくない状況である。毎日薬を飲ませなければならない。それに食欲が減衰し、日々痩せている。実家に戻って抱っこする度に軽くなっている気がする。

彼らとの想い出を語りだせばキリがない。というのも、これも至極当然な話だが家に居れば必然的に一緒なのだ。外出することもない。僕が1人で家に居ても猫たちは居る。そして寝ている。そう、猫たちはいつも寝ている。僕はその姿にいつも癒されていたことは言うまでもない。時たま構ってくれと言わんばかりに足元に頭突きを喰らわしてくる訳だが、何だかそれも愛おしい。特にオス猫は甘えて欲しいのか、実家に戻るといつも僕の後をついてきては頭突きを足元に喰らわす。勢いがあってよろしい。

冬になるとメス猫はこたつに入る僕の膝に毎回入って来る。最近では僕が居ないので父親の膝に乗るらしい。だが、年々肥えてきているので重くなって仕方がない。僕は帰省する度に「痩せろ!運動するぞ!」と言っておもちゃで誘導するのだけれども、身体を動かすのが面倒なのか、いつも上半身だけで対処してすぐに飽きてそっぽを向いてしまう。昔ははしゃいで一緒に家中を走り回っていたのに…。

なんにもないのになにもかもある/それこそ私の最大の贈物/それを私は愛と呼ぶのだ

別に猫が僕等の生活に何か具体的な事象を以てして与えてくれる訳ではない。しばしば「猫の手も借りたいくらい」という比喩表現が使用される訳だが、実際猫の手を借りることは不可能である。そういう意味で言えば、何にもない。今では昔に比べて遊んでくれなくなったし、寝ていることが多い。だから僕の生活には何の影響もなければ、「なんにもない」のである。

しかし、そこに居るというだけで「なにもかもある」のだ。これは人間のある種身勝手な傲慢なのかもしれない。そこに居てくれるだけでいい。それだけでどこか自分自身の生活にほんの些細な彩を与えてくれる。何か小さなことでも幸せになる。猫と一緒に生活しているとこの谷川俊太郎の詩の一節が身に染みてよく分かる。彼らは僕に愛をくれる。でも、僕は彼らに愛を与えられているのだろうか。人間のエゴになっていやしないか。

あと何年生きられるか分からない。特にオス猫の方は先にも書いた通り、病状が改善されたとはいえ、完治した訳ではない。それにメス猫の方も日々その行動に老衰を感じざるを得ない。僕は猫の寿命というものがどれぐらいかということは詳しく知らない。というよりも、知りたくないというのが本心である。そうしたらば、余計な気持ち、邪な気持ちで接してしまいそうだからだ。何と言うか彼らに「もうそろそろ死ぬんだな」というのを感じさせたくない。

遠くで犬同士が吠えている。


実家の猫たちは元気だろうか。

スマホのカメラロールにある猫たちの写真を見返す。「この頃は自分も元気だったし、猫たちも元気だったな…」と懐かしくなる。何度も言うようだが、過ぎてしまった時間はもう戻ることはない。「今、この瞬間」というのも既に過去になるのだ。もう戻りはしない。だけれども、人間の特権として「振り返る」ことが出来るのだ。記憶を遡り、回顧することが出来る。

そんなことを思いながら新緑の輝く小路を歩く。



 1
 おまえが愛するとき
 草も木もおまえの味方だ
 だがおまえが愛するとき
 誰もおまえを助けない

 何ものにも学ばずに
 音楽に酔うこともなく
 おまえは愛することを覚える
 肉ゆえに魂をおのがものにする

 目に見えぬもの
 成就することのないもの
 決して到達できぬもののみに
 みちびかれて

 2
 おまえが愛するとき
 いまはいま終り
 いまがいま始まる
 時は怖れと安らぎに充ちる

 つつましいここにいて
 おまえは無方へ旅する
 幻のはての
 なつかしい故郷に魅せられて

 そこですべての名は溶けあい
 ひとつの名になる
 その名を呼ぶことでしか
 おまえはおまえを見出せない

谷川俊太郎「愛」『真っ白でいるよりも』
(集英社 1995年)P.18~21

そうして図書館へ向かった。

図書館での読書記録については別途書きたいことが沢山あるので日を改めようと思う。

よしなに。





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