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雑感記録(302)

【駄文の円環part10】


このシリーズは「何か書きたいという気持ちはめちゃくちゃあるのに、何を書いたらいいか分からないから書き出す」というものである。とこうして改めて文字に起こすと変な感じだ。だって、「何を書いたらいいか分からない」のであれば書かなきゃいい。別にこの記録は誰かの為にというより、他でもない自分の為にやっているのだから、書かないことだって選択することが可能だ。

「何か書きたいという気持ちはめちゃくちゃある」ということと「何を書いていいか分からない」というのは何だか相反している物言いである。そもそも「書きたい」という衝動は何か書きたいことがアプリオリに存在してそこから「書きたい」になるのではないか。手放しに「書きたい」と思うことはある意味でおかしい事なのかもしれない。つまり、何もなしに書きたいという欲望・欲求が誕生しうるのか。そうして何もなしに書くことが出来るのか。

僕はこうして彼是300本記録を書き続けてきて、まず思ったのは、何でも良いから言葉を書くとそれにつられる様に言葉が出てくる。これはいつも思うが、不思議な経験である。僕も実際今こうして言葉を継ぎ接ぎしている訳なのだが、「この次に何を書こう」という構想など殆どない……と書いているうちに「次はこう書こう」と頭の中にふと考えが浮かび上がる。そして、瞬間的に忘れ、再び別のことを書きながら思い出す。言葉は芋である。

そういえば、小さい頃、それは幼稚園の頃。

これは僕が実際に覚えているという訳ではなく、写真で見た。しかし、普段自身が小さい頃のアルバムの写真を見返す訳もない。何でだろうと今更ながらに思われるが、まあそんなこたぁ、どうだっていい話だ。それで、その写真にはドロッドロになった僕と知らない女の子が芋を持って2ショット。もう1度言うが、この時の記憶など全く以てない。写真があるのだから事実としてあったことは言うまでもない。

写真というのは恐ろしいなとも思う。

僕は前にSF小説の世界で所謂「エビデンス主義」がどうも苦手であることを書いた。僕の記憶では全く以て芋掘りなど記憶にない訳だが、写真としてこのように残されているということはそれが実際に起きたことであると評定される。「それ、ホントかぁ~?」と考える人は誰も居ない。こういう時、僕は凄く複雑な気持ちになるし、やっぱり写真には幾重にも重なる物語を創出するヒントが転がっていると改めて思う。

例えばね。僕が芋掘りに行ったのかもしれない。写真上ではね。でも僕自身は記憶がないのだから、実際にその時に何をしたかは覚えていない。飛躍するならばその瞬間というのは僕が唯一僕という存在の確証が持てない空間であるのだ。つまりね。僕は芋掘りしてなくて、スタジオでグリーンバックを背景に撮影された写真かもしれない(と書いていて2000年代にそんな精緻な技術があったかどうかは知らないが、可能性として。可能性を語ることは自由だ!)し、この地球ではなくどこか別の惑星で撮影された写真かもしれない(と書いていて「宇宙服を着なくていい惑星なんてあるのか?」と思ったが、突拍子のないのがSFの好きな所だ)し…。

写真を見ると、そこに居るのは確かに自分だ。だが、「本当にこれ、自分かぁ~?」と段々、僕の存在すら怪しくなってくる。そもそもだ。僕等は普段から自分自身の顔を見ることなど出来ない。せいぜい窓に映る自分の姿や、鏡に映る自分を見て「おお、こんな…ブスじゃねぇか!」となれる訳である。だから写真に写された自分を「これがお前だ」と言われても、自分だけで見る分には「いや、俺じゃないかもしれない」ということは可能である。

自分が自分であるということを担保するにはやはり他人という存在はどうしても必要不可欠なのではないか。写真1枚を見せられて「これがお前だ」と証拠として出されるとそれが屈強な真実として僕等を襲い掛かってくるが、しかしよくよく考えてみて、それが果たして本当の自分かの確証には成りえない。「俺は、イケメンだ」と思い込んでいれば鏡に映っている自分は別人だろう。同じ身体を共有している他者としての自分みたいな。

これの度が過ぎれば、ビリー・ミリガンみたいな感じになる。


そういえば、昨日カメラマンの友達に「俺の写真を撮ってくれないか」とお願いした。金額は問わないから適当に撮影してくれと。

何でお願いしたかというと、これも単純な話で、遺影用の写真が欲しかったという、それだけの理由である。「いえーい!」用であるとふざけたことを書くと罰が当たりそうだが、至って僕は真剣に遺影用の写真が欲しかったのである。だが、この「いえーい!」も間違っていない1つの「遺影」の表現なのではないかと思ってしまう。

だが、何で「遺影用に」というわざわざ付けなくてもいい枕詞を僕は付けたのだろうか。第一、写真を撮ってほしいなら「写真撮ってくれ」で済む話だ。そこに「遺影用の」と付けるのは僕の趣味か、はたまた大きな思惑があってのことなのか…と書くが、本当に字義通り「遺影用の」写真が欲しかった。キッカケはよく思い出せない。

ただ、昨日僕は何もすることが無く、部屋で1人ずっとボケっとして過ごしていた。このボケっというのは純粋に身体的な「ボケっと」を指しており、頭の中はぐっちゃぐちゃだった。谷川俊太郎『一時停止』を無造作に読んでみたり、突然ブリッジしてみたり、EMINEMの『Rap God』を適当に歌ってみたり、部屋に居たテントウムシと遊んでみたり…。よく分からない休日を過ごしていた。

そこでふと天井を眺めた時に、何だか凄く空間がグルグルしだしたのね。そこで「ああ、目が回るなぁ…」と思って愉しくて、グルグルする天井を1時間ぐらいかな。ずっと眺めていた。仰向けになって寝転んで。ふとね、「あ、今にも電気が堕ちてきそう」って思った時に突然「あ、遺影用の写真撮らなきゃ」となったのである。

人間の思考なんていうのは、どこからともなくやって来る。

僕は別に最初っから「俺は遺影用の写真を前から考えていて…云々」みたいなことは全く以て頭の中には無かった。だがグルグル回る天井を眺めながら、恐らくだけれども「死」みたいなものを何となく感じたのかもしれない。って、いや、『ファイナル・デスティネーション』かよ!ともかくこんな格好つけるつもりは微塵もないけれども、ただ僕にはそれとなくそこにはあったということだけは事実のように思われる。

という訳の分からない文章をこうして延々と書き続けて、この感覚が理解してもらえるかどうかは分からないが、これが「書く」ということなのではないか。何の脈絡もなくただ延々と話が続くってことが、「書く」ことの本質のような気がしてならない。頭の中に浮かんだ単語を書き出し、それに身を任せて言葉を繋ぎ合わせる。それが「書く」ということなんじゃ…ない?


常に言葉を書くということはこういう状況になる。言葉が勝手に僕等を挑発し、他の言葉を吐き出させようと躍起になる。しかし、その「書く」という行為が今脅かされている。

言葉を書くことは迂遠するということであることを分かっていない人が余りにも多すぎる気がしてならない。言葉で何かを語ることは必然的に遠回りをせざるを得ない。ということについては以前の記録で書いた。

どうして人は寄り道したくないのだろうか。どうして人は近道をしたがるのだろうか。近道した先に一体何があるのだろうか。これは僕のポリシーだが、結局同じ答えに辿り着くんなら、遠回りして面倒くさい解き方をしておいた方が良いと思っている。これは学習観点的な意味合いから言っているのではなく、純粋に愉しいじゃない。時間がある若い人は大いに遠回りするべきだ。それを知らずして近道の有難みや存在そのものを疑うことが出来ず、ただ回収されて終わりになってしまう。

そもそも、書く行為というのは2次的なものじゃないですかい?

自分の考えだったり、頭に浮かんだ言葉を書き連ねていく。しかし、それが純度100%の自分の思考かと言われたらそれは異なるだろう。言葉というものを使って代替しているに過ぎない。そう考えると、純度100%を言葉で伝えるには相当量の言葉を費やさなければそこには到達することが出来ない。それを小説家であれば、世界を言葉で構築し、その作中人物などにそれを託したりする訳だ。小説やそういった文学の面白さはここにも存在している。その遠回りがあるからこそ作品が輝く。

とは書きつつも、僕は何も近道が悪いとは思わない。

僕だって近道をする時はある。散歩でもそうだし、哲学書を読む前に事前に入門的な書物を読んでから当該の作品を読み込むということは結構ある。近道は良い。その分、他のことに時間を充てられるのだから。それに実際、社会に出ていれば「忙しいこと」というのは沢山出てくる。何件もタスクを抱えていれば当然だし、繁忙期に入れば忙しくなり、遠回りなんて悠長に言ってられる余裕すら無くなるのはよく分かっているつもりではある。

そことどううまく折り合いを付けていくか。そもそも、「折り合い」なるものを付ける必要があるのかということも考えなければいけない訳だが、向き合わねばなるまい。僕は「忙しさ」と遠回りするということは繋がらないと思っていて、忙しくても遠回りすることはできる。それはその目の前に与えられたことをただやるのではなく、「そもそも」とか「なんで」とか1言添えた上でやればいい。そうすれば遠回りは簡単に出来る。


面倒くさい奴だ。

そう、遠回りの秘訣は面倒くさい奴を目指すことだ。と「面倒くさい」という一言で済ませるのは中々卑怯な感じだな…。何だろう…とにかく考える奴。それも色んな角度から考えられる奴。それが遠回りすることなのかな、書いてみて何となく思うけど。とにかく迂遠して迂遠して辿り着く。これが言葉を書くことに於いても重要だし、今の物事の捉え方というか想像力を豊かにする方法なのではないか?

とかく、今は皆が表層的な部分でしか考えられないと思うのね。

例えば、最近YouTuberの暴力騒動あったじゃない?たまたま僕は一方をチャンネル登録して好きで見ていたから、「何事だ!?」と驚いたけれども。だっていきなり謝罪動画から始まるんだから何事かと思う訳で、最初の内容が辻褄合わせというか、検証から入っているのだから「なんだ、なんだ」とならざるを得なかった訳だ。

それで、相手方の方の動画も見たが、何というか前提として知能指数低い動画を掲載している残念な人たちだなと純粋に思った。別にこの騒動があったとかないとかに関わらず。それで問題の動画を何本か見たのだけれども、正直ね「まあ、でしょうね」と言った感じで進んで行き、お互いがお互いの言っていることに齟齬が生じている状態だった。

大概、こういう衝突というのは「言った/言わない」「やった/やらない」という手の二項対立の衝突が前提にはある訳だ。正しくその構図だった訳だが、僕が非常に感心したのは「第三者のYouTuber」と「お店側の人」を登場させ証言を擦り合わせていくという作業をしたことだ。これは上手いなと思った。ある意味で2人はその「言った/言わない」「やった/やらない」のこの「/」の隙間に存在している人の意見を聞き入れるという点だ。しかも聞いていると、どちらにも肩入れしていないのが面白い。全体を通して「渾然として一」を目指す感じがする。

対して相手側の動画は所謂「身内」で語る。「言った/言わない」「やった/やらない」という二項対立の構図にまんまと嵌められている。そして一貫して「言わない」「やらない」という態度を取る。これがまた面白い。結局そこで語られるのは身内の論理だ。僕はこの手のものが嫌いである。僕の嫌いなコ○.みたいな感じだ。身内の論理に反するものは排除する。これは集団的暴力以外の何物でもない訳である。グループの誰かが馬鹿にされた。許せねえ。って言う気持ちは分かる。僕もどちらかというとそういうタイプ。だが、そこで身内の論理で「こいつは良い奴なんだよ。だから悪くないんだ。」というのはオツムが弱すぎる。お前らにとっては良い奴かもしれないけど、人間なんだから、外ではいい顔しているかもしれないだろ。

そういう部分にまで配慮…というか頭が単純に足りないだけだろうけれども、考えているのならばどう対応すべきかは明々白々である。馬鹿の1つ覚えのように公園で叫んで罵倒すれば良いってものでもないし、某配信者の手を借りる必要が本当にあったのかも分からないし、お店に全く関係ない視聴者を数十名連れて謝罪に行くということを企画にしてしまうというその想像力の無さ、そして表層だけを愉しもうとする彼らは最初から負けているような気がしてならない。気がしてならない?いや、既に負けていることは事実である。


それで何の話を書いているか分からなくなってしまったので、そろそろタイピングを辞めにしようと思うが…。

結局僕は何を書きたかったのか分からない。本当にこれらのことを書きたかったのかどうかさえここまで来てもよく分からない。しかし、書き出してみると案外書けるものである。今ここらで大体5,300字程度だ。言葉というのは本当に不思議である。

適当に何か一文字でも何でもいい。ノートに殴り書きしてみると良い。

勝手に言葉が言葉を呼んで行くから…。

よしなに。











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