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雑感記録(301)

【遠回りしたって良いじゃない】


無知

 私の知らないことに
 私は支配されている
 私が何を知らないのか
 それすら私は知らない

 見えない壁がある
 何世紀にもわたって
 人間が築いてきた壁
 真実と虚偽を積み上げて

 その壁を越えさえすれば
 自由になれる
 と 私は考えているが
 その先にいったい何があるのか

 そこで私は何を知るのか
 言語を通さずに知る何か
 嘘と本当の区別のない何か
 無知の未知の地平?

 知らないことで
 守ってきたものを
 知ることで失う
 ヒトの知はもろい

谷川俊太郎「無知」『どこからか言葉が』
(朝日新聞出版 2021年)P.46,47

今日も朝早く目が覚めてしまった。

どうもここ最近の休日は早起きしてしまう。そのまま二度寝すれば良いのだろうけれども、今日は上手い具合に二度寝が出来なかった。カーテンを開けて太陽を眺める。そして思う。「あぁ…牛丼食べてえな…」と口の中が唾液で満たされる。人間の身体は不思議なもんだなと思いながら1人暮らしの狭い洗面所に向かい歯磨きを開始する。

本当に…毛が延びたなあと鏡を見る。

それにしても…「ブサイクやなぁ!」と思わず声に出してしまった。当然寝起きということもあるだろうが、顎髭のまばら感、そしてボサボサの髪の毛を見て思う。コロナ禍から僕はマスクを着用し続けており、職場でもマスクをして仕事をしている。皆から「暑くないの?」と言われるのだが、「いや、マスク好きなんですよ」と何とも頓珍漢な回答をする。半分本心である。

男性諸君はお分かりかもしれないが、電気シェーバーを持っていないと髭剃りが面倒である。剃刀でイチイチ剃るのはかったるい。僕は毛が濃い方なのですぐに生える。2日に1回剃らないとならない。こんなこと毎日やるのは骨が折れる。「たったそれだけでしょ」と思われるかもしれないが、「カミソリ負け」って結構痛いんだよ。女性諸君。男性が顎に小さい怪我していたら「ああ、この人はカミソリ負けしたのかな?」と優しく見守ってほしい。

人間隠したいことの1つや2つある物だ。

恋人間や夫婦間では関係性をオープンにしなければならないということがしばしば散見される。別にそれはその人々の間の取り決めみたいなものだから僕が何か言えることは無いし、偉そうに言うつもりも微塵もない。ただ、全てをオープンにすること自体が良いとは思わない。逆に健全ではないとすら思ってしまう。秘密を抱えることは良くないことなのか。

僕はその抱えている秘密があるからこそ、隠したいものがあるからこそ人間として存在出来るような気がしている。これが原因で不和が生じてしまうことも当然あるだろうが、その時は全力でぶつかればいい。様々な困難や面倒くさいことがあるからこそ人間なのかもしれない。とこう書きはしたものの、僕はあまりそういう経験がない。何故なら、自分で隠すことに耐えきれず自分から言っちゃうからだ。

「避けること」と「逃げること」は違う。

これはあくまで個人的な感覚でね。逃げるっていう方がまだマシな気がしている。1度言葉にしてみようか。「争いから逃げる」「争いを避ける」と、まず以て助詞が異なる訳だ。「から」と「を」では違う。「から」というのは既にその渦中に存在している訳で、向き合うことは1度はしようとしている訳じゃない?もしも、そこから実際に逃げても、とっ捕まえればまだその場に居たのだから状況は把握できているし、まだ真面な話が出来る。

ところが避けるとなると「を」になるので、その状況が起きないようにする働きをする。つまり、前もって予防線を張って衝突が起きないように配慮することである。これは何だか僕はね、卑怯なような気がするんだ。分かりあう以前の問題で、「衝突を避ける」なんて言うのは一見すると良いように聞こえるかもしれないが、単純に相手に対して興味がないことの現れでしかない。というよりも、予防線を何重にも張り巡らす時間があるなら他のことに時間を有効活用した方が有意義ではないか。

だから僕は浮気や不倫する人の気持ちがよく分からない。


服を着替えてルーチンである服薬をし、読書を開始する。

谷川俊太郎『沈黙のまわり』というエッセー集を読み始める。

谷川俊太郎のエッセーは結構面白い。というよりも、最近詩やエッセーも殆ど谷川俊太郎しか読んでいない。正直ね、一部「むむ?」となることがあるけれども「なるほど」と気付かされることが多い。詩のイメージとは少し離れており、新鮮味があって非常に良い。彼の詩思想と言うのか?それを感じるには持って来いである。

 あらゆる人間は 常に何ものかを通して、生き続けてゆこうとしているのである。詩人もその例外ではない。彼は詩を通して生き続けてゆこうとしているのであって、決して詩そのものを求めて生きているのではない。生きてゆくために、あるいは、生きているから、詩を書くのである。私は詩に惚れていないが、世界には惚れている。私が言葉をつかまえることの出来るのは、私が言葉を追う故ではない。私が世界を追う故である。私は何故世界を追うのか、何故なら私は生きている。
 私にとって。世界は女に似ている。私は世界と一緒に寝たがっている。私のいうことは観念的に響くのであろうか。だが世界という言葉は、私にとっては、大層肉感的な言葉なのである。

谷川俊太郎「世界へ!」『沈黙のまわり』
(講談社文芸文庫 2002年)P.34,35

個人的に1番響いたのが、「私は詩に惚れていないが、世界には惚れている。私が言葉をつかまえることの出来るのは、私が言葉を追う故ではない。私が世界を追う故である。」この部分である。この「世界」というのを「生活」に置き換えてもいいかもしれない。やはり僕はこういう言説に弱い。何より生活に根付く考え方が好きであり、やはり芸術などというものは自身の生活から生まれ得るものだと改めて認識することが出来る。

自身の思考を再確認する為の読書。

最近、何だかそんな傾向にあるような気がする。あんまりこういうのは良くない。というのもこれは自分の考えていることの正当性の担保としての意味合いが孕まれるからである。自分自身の思考なんていうものはいつもあやふやなものである。だからこそ誰かに常に更新され、面白い思考がそこかしこに発生するのである。思想はいつもあやふやであるべきだ。

とこんな書き方をすると方々から「いや、違う」とのお声が掛かるだろうが、そもそも人の考えることに完璧などということは無い。あらゆる時代に於いて、あらゆる場面で適応できるものがあるならそれは怖い。というより、そんなものがあるならとっくに世の中良くなってるって。不完全であるからこそ、不確かであるからこそ僕等は物を考えられる。そしてその発露として生活があり、世界がある。そして芸術がある。僕も世界が好きなのかもしれない。

便意が催されたのでトイレに向かう。

そう言えば昨日、健康診断があった訳だが都会の健康診断は凄い。都会?いや、違うのかな?会社の健康診断が凄い?どう表現して良いか分からない。いずれにしろ、物凄く整った施設で健康診断をするのは入院以来である。専用の着替えとかそういったものもあったり、健康食堂みたいなものもあったり、何だか至れり尽くせりで驚きを隠せなかった。

「ゆりかごから墓場まで」

僕がこの言葉を知ったのはTHE BLUE HEARTSの『1000のバイオリン』である。

その後、高校の世界史で学んだ。第二次世界大戦後のイギリスの社会福祉政策のスローガンだということだけは記憶にあるが、具体的にはどんなことをしたかは思いだせない。もう1度高校から世界史を…って僕は日本史だった。だが、後は言葉から考えれば良いだけで、要は生まれてから死ぬまでの手厚い社会保障みたいなことでしょう、多分ね。

有難いことだなと思いつつ、この「ゆりかごから墓場」精神みたいなものが蔓延しすぎているなあとも感じる訳だ。特に最近の読書なんかはそれを感じざるを得ない訳だ。これは毎度毎度書いていることで、色々な所でそういったものを眼にし耳にし、憂鬱な気分にならざるを得ない。


これも毎度毎度僕は書いていることだが、だからこそ遠回りする気概を持った方が良いと思う訳だ。僕はそういったものに抗う為に積極的遠回りをしたいと考えている。というか、現にそういうスタンスで生きている訳だ。

昨今氾濫している自己啓発本然り、YouTubeやSNSで散見される本紹介、そしてその中で行われる「要約」。僕はやっぱりこの手のあらゆるものに抗って生きていきたい。別にそれがそれで現にそういう場が出来てしまっているのだから、もう今更それを解体する気も全く以てない。やるなら勝手にやってくれという感じである。だが、少なくともその場が拡大することには危惧を抱かざるを得ない。

よく僕が引き合いに出して語るのが「100分de名著」というやつ。

僕はあの手のものが嫌いでね。単純にこれは考えて欲しいというか、感覚として分かるんじゃないかな?例えば、自分が好きなこと、これは何でもいいよ。アニメでも映画でも、美術でも、車でもバイクでも…。それを自分自身が誰かに語る時には話が止まらないものである。事実、本の話を友人とする時はどれぐらい時間があっても足りないと感じる。

それを例えその道のプロであったとしても、100分という時間の中で果たして本当に語ることが出来るのか。見ている側からしたら堪ったものではない。そもそも、その時間設定が合っているのかすら分からない。僕がもしね、いや、万が一にもあり得ないけど、例えば本を書くとするじゃない。それについて「5分で纏めてみました」って言われたら発狂のうえ、そいつに何するか分からない。

色々と本を読むと分かるけれども、何かを語る時には遠回りをせねば語ることは出来ない。というよりも、それこそが必要だ。言葉で何かを紡ぐということは不可避的に遠回りをするものだと思う。それが現代では許されない。遠回りをしてもそれが5分、10分そして100分という括りで語られてしまう。こんな馬鹿げた話があって堪るか。

ここでも書いたけれども、宙吊りにされる状態にあまりにも拒否反応を示し過ぎではないか。何故そこまで早急に答えや要点を求める時代になったのか。そこで伝えられる以外の部分の表現で刺さることがあるだろう。読む人は様々で皆が皆、画一的な感情や思考を持っている訳では決してないのだから。あまりにも人間存在を愚弄しているとしか言いようがない。

そうすると、皆こぞって口にするのが「時間がない」だ。「時間がない」から本が読めない、作品に対して向き合えない、考えることが出来ないと。だから手短に見られるものに優位性がある。


「時間がない」というのはただ体裁よく避けているだけだ。

「時間がない」と言えば「それ自体に関心はあるけれども、取り組んでいる暇はない」とそこに関係するつもりはあるんだよと表明しているニュアンスがある訳だが、結局「つもり」であって避けているに過ぎない。「逃げている」のではなく「避けている」のである。逆説的にこの言葉はそのものに興味関心が全く以てないことを示してしまっているのである。

そうして今度はそれを労働時間にすり替えて、「仕事が忙しくて時間がないんです」と枕詞のように「仕事が忙しくて」というのが入る。別に仕事の忙しさというのは人それぞれである訳で、僕も過去に触れて書いているがブラック企業に勤めている人は本当に忙しくて時間もないし体力的にもしんどいことは重々理解しているつもりではある。

疲れていると中々作品に集中することが出来ない。それは僕もよくあることだから分かる。だからと言って5分でとか10分、100分でとか要約で補おうとは全く以て思わない。それで分かった気になるのが1番怖いからだ。それを見聞きし読んだだけで「分かった」と評定してしまうのは、浅瀬で足首まで使っていないのに「俺は海を知った」と言っているのと同義である。そんなに単純な事なのか。

思案というのは必ずしも手短に明文化される必要などないのであって、本を通読し、ココがポイントであろうと加工する行為は、その本の「真」を摑むための行為ではない。加工では「真の情報」は摑めない。本は、そして文章は、すぐに摑めないからこそ、連なる意味があるのだ。簡略化される前の、膨大なものを舐めてはいけない。

武田砂鉄「要約という行為」『わかりやすさの罪』
(朝日新聞出版 2024年)P.42

ここに加えるならば、やはり遠回りすることが必要だと思われて仕方がない。スピード感が求められる社会で逆行して遠回りしながら様々なものに触れながらその都度興味関心が湧いたものに進んで行けばいい。与えられた「問」に対して「答え」を出さなくても良いじゃない。その「問」が「分からない」ということを心に持っておけばいつか辿り着くこともあるだろう。遠回りをしていれば例え辿り着かなくてもその周囲に転がっている宝石に気が付けるかもしれない。


この早急さについては社会がそうさせているのか、はたまた自分自身の心の持ちようなのか。

いずれにしろ、僕はこのスピード感には僕は必死に抗いたい。5分で纏められる作品、100分で纏められる作品、たった数百文字で要約される作品。そんなものばかり摂取していたら不健康になる。だが、皮肉な話だ。本を読ませるように仕向けているのにも関わらず、その行為のお陰でどんどん作品を地の底に落していき、僕等の複雑な感情や思考のありようを否定してしまうのだから。逆に読む気が失せてしまう。

しかし、ここまで来てしまったのだから仕方がない。だってそれが現在に於ける「読書」と呼ばれるものらしいのだから。読み方を教えてくれるのではなく、読み方を損なわせることが現在の読書らしい。何度も書くけど、別に否定したいわけじゃあない。それを読書だと思っているのならそれはそれで構わない。ただ、僕はそんな社会に抗って遠回りをしたい。それだけに過ぎない。

遠近法

 …

 君はもう習っただろうか
 かみを長くのばした
 あの若い美術の先生に
 西洋の絵かきたちが
 遠近法を発見したときのこと
 近くのものが大きく見え
 遠くのものが小さく見え
 もっと遠くのものは
 そのもっとむこう
 すべてのものが消えさる
 ひとつの点がある
 そうして絵かきたちは
 見えるものを見えるとおりに
 えがくことを学んだのだ
 けれどそのときかれらはまた
 人間には決して見ることのできぬ
 遠くのあることも知った
 どんなに近づいても
 いつまでも手のとどかぬひろがり
 それこそが私たちの生きている
 この世界の大きさだと
 気づいたのだ

 …(以下略)

谷川俊太郎「遠近法」『日々の地図』
(集英社 1982年)P.15,16

そうして僕は今日も遠回りする為に散歩に出かける。

よしなに。





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