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雑感記録(48)
【時間について(殴書的覚書6)】
最近、どことなく疲弊した日が続く。自身のプチコロナ騒ぎがあったこともあるが、仕事に対する絶望感というか将来性のなさというか…。言語化するのが難しいのだが、まあそういった悩み(という程のものでもないのだろうが)によって悶々とした日々が続いていることも1つの要因である。
Instagramのストーリーを見ると、皆こぞって月の写真を挙げている。これは何事かと思い調べてみるとどうやら「皆既月食」らしい。するとLINEに1件の通知。何故か階下に居る父親からだった。「今日は皆既月食です。日本では442年?ぶりらしいよ。東の空を見てみれば。」とのことであった。せっかくLINEをくれた訳だから見てみるかと自分の部屋のシャッターを上げ、窓から身を乗り出し月を見る。
本当に小さな月であったが、通常見ている月とは違う、紅に染まった月が見えた。せっかくなら綺麗に見たいので、部屋の電気、テレビを消して再度窓から身を乗り出して5分から10分ぐらい眺めていた。何も考えずに見る月は良いものだと思い、物思いに耽ってみたりした。
僕は常々感じていることなのだが、こういった自然の織り成すイベントや季節の移ろいに対して美しさや感動(これは心が動かされるという意味での「感動」であり、泣く=感動ではない)を感じられなくなったら人間として終りであると。自然に対する風情を感じられなくなったらお終いである。どれだけ疲弊していようが、どれだけ落ち込んでいようがそれらを感じられなくなってしまったら相当に酷い状態である。
現に僕は疲弊している状況の中、精神が落ち着きをなさない中でこうして月を眺めて「綺麗だ」「美しい」と感動が出来ている訳であり、まだまだ人間として終わっていないんだなと改めて思う訳だ。
ところで、僕は最近【時間について(殴書的覚書)】と題して「客観的時間」と「主観的時間」という括りで記録をつけている。さらには「客観的時間」をまるで害悪かのような書き方をしてしまっている。詳細については僕の記録を読んで頂けると幸いなのだが、「主観的時間」を置き去りにしていく「客観的時間」であると。
今回のこの皆既月食について考えて見ると、これは「客観的時間」の織り成す美しさの1つなのである。しかし、やはり考えて見ると僕らの「主観的時間」に干渉しつつもやはり終りがある。皆既月食がいつまでも永遠に続くことはないのである。
希少性。自然が作り出すあらゆるものは「客観的時間」の中に晒されながらもその中でしたたかに彼らの「主観的時間」を生きている。僕はそう感じてならない。自然。人間が自然に叶わない理由の1つはここにこそあるのではないか。つまり、自然はそれが例え我々人間が破壊しようとも変容しつつ自身の「主観的時間」を「客観的時間」と見事に調和させながら存在しているのである。
ある意味でここが自然の美しさであるとも感じる。時間を超越出来るこの地球上の生物(という表現があっているかは不明だが)は自然である。例え人間が亡びようとも進む「客観的時間」の中で自然自身の「主観的時間」は進んでいくのである。自然に人間は太刀打ちできない。
さて、話はまた別の方向に飛ばすが、直近の【時間について(殴書的覚書)】で保坂和志のエッセー『プー太郎が大好きだ!』という話を引き合いに出して「今、この瞬間」という時間を大切に生きるその姿勢に心底心を打たれたということを記録した。また、そこで僕はそこに全力で振り切れる程の根性というか精神性を持ち合わせていないことに落胆したということを記録したような、していないような…。多分だがInstagramと混同してしまっているのかもしれない。まあ、いいや。
こういう自然の織り成す「客観的時間」を超越した「主観的時間」を体感することは僕にとっての「今、この瞬間」を感じているような気分になるのだ。要はプチプー太郎体験とでも呼んでおこうか。そういったものなのではないかと思う。
恐らくだけれども、僕と同じように「今からプー太郎になりたくてもなれない」という人は数多くいるはずだ。今の仕事を投げうってそこへ行こうとすることは危険なことであると、自身の理性が歯止めをかけてしまうからだ。ただ、それでもプー太郎のように「今、この瞬間」を大切にしたいと思うのは僕だけではないはずだ。
そういったところで、何と表現すればうまく伝わるか分からないのだけれども、そういう中でこの自然の一瞬一瞬の変化する様相を感じることを忘れてしまったら僕らは永遠に「今、この瞬間」を感じることは出来ないのではないのだろうかと考えてしまった。こういった経験を重ねることでその時間の大切さというものが身に染みて分かるのではないだろうか。
ここまでこうして書いてみて、僕らの時間というのは「今、この瞬間」の蓄積なんだよなって改めて認識した。僕らの「主観的時間」はもしかしたら、いやもしかしなくとも「客観的時間」の「今、この瞬間」の蓄積によって成り立っているのではないだろうか。
その蓄積を自身の中で上手に調合し、新しい時間を創出する。「主観的時間」の誕生なのではないのだろうか。ともすると僕がこれまで殴り書きしてきたことは大いに道を逸れてしまっているのかもしれない。しかし、それも僕の思考過程の時間の流れであるのならそれはそれで面白いとは自分自身で思ってしまう。まあ、そもそも自分のために記録している訳だからそれはそれでいいのか。
自然。これにはやはり人間の手の施しようがない。それなのに無理矢理と人間使用に変容させて、この壮大な「客観的時間」を超越しようとする「主観的時間」のストーリーを崩してしまっていいものなのだろうか。
昨今はSDGsとか何とか言って、「持続可能な社会を目指しましょう」とか何とか言っちゃっている。僕はどこか腑に落ちない。要は人間が自然を有用に使えるようにしたいだけなのではないかと思ってしまう。しかし、そうしなければ人間は生きていけない。人間とは何とも不自由な生き物かと改めて思ってしまう。だったらそんなSDGsとかいう言葉を使うより、もっとはっきり言えばいいんじゃないかと思ってしまう。「自然も枯渇するから程々にしていこうぜ」ぐらいなもんでいいと思う。
とこういう風に書いてしまうと、僕が自然環境保護団体の一員かなんかと思われてしまいそうで怖い。僕はそんな人間じゃない。僕は自然の恩恵にすがている人間だからだし、環境破壊は人間という生物がいる以上避けがたいものであると思っているからだ。自然には申し訳ないが、僕らも生きていく以上は使わせて頂く。
話が大分逸れてしまったようだが、とにかく僕が言いたいことは「自然の美しさ、季節の移ろいを感じられない人間が居るんだとしたら、今1度自身の周囲の環境を見直した方がいいんでない?」というようなことかもしれない。
逸れたついでにちょっと思ったことを。
日本には和歌がある。古くは『万葉集』から連綿と続いているものであるが、あれこそ正しく人間自身の手で自然の超越的な姿勢を捉えようとした唯一の試みであり、尚且つそれら作品の中で新たに時間を創出しようとする試みであったのかもしれない。要は和歌というものに時間を託したのではないだろうか。
言葉により時間を創出する。厳密に言えば、和歌とは究極のところ自然の「客観的時間」を超越しようとする自然の「主観的時間」を作者自身の「主観的時間」にすり合わせて人間と自然とを一体化させる壮大な試みであったのだろう。そうすることで新たな時間を言葉により創出するのであろう。
これは俳句にも同様なことが言えるのかもしれない。いや、もしかしたら俳句はそこをかなり厳密に突き詰めていった言語システムなのかもしれない。それは「季語」を使わなければならないといった明確なルールが存在するという点に於いて明らかなような気がしてならない。
僕は僕の人生の時間を感じたい。
また同時に
僕は僕の季節の時間を感じたい。
「今日は月が綺麗ですね」
よしなに。
※過去の【時間について(殴書的覚書)】はこちらから↓
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