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雑感記録(42)

【時間について(殴書的覚書3)】


最近、寒さが厳しくなって自転車通勤から徒歩通勤に切り替えた。お陰で朝は通常よりも早く出なければならないが、歩いている最中に音楽が聴けることは凄く愉しい。自分の好きな音楽を聴きながら歩くのは好きだ。そう、歩くのは好きだ。職場に着けば一気に冷めてしまうのだけれども。その落差たるや。

以前、自身の好きな曲を多少紹介したのだけれども、ヒップホップがメインになってしまっている。しかし、ここ数日は山下達郎を鬼のように繰り返し繰り返し聴いている。最近、山下達郎の新しいアルバムを購入したので、その流れで昔の曲も聴いている。サブスクで早く解禁になればいいのになと聴くたびに思われて仕方がない。大瀧詠一がサブスク解禁になった時と同様の、いやそれ以上の反響があるかもしれないだろう。

↑ちなみに最高のアルバムだった。


そんな音楽を聴く中で、本当に久々に聴いた曲があった。

トラックメイカーである、みちたの『あぶそりゅうとでぃふぁれんす』である。その中に収録されている1曲「コギト・エルゴ・スム feat.TO FACE」である。この曲を聴いたときに心打たれたのである。それは何故か。

長い長いリリックをよく聞いてみると興味深いことを言っている。少し長くなるが引用してみたい。

生きようとすればするほどに終りは近づき 近くにいるはずなのに未だ未確認
今尚この時も終わりに向かい時は過ぎ 俺を生かす死の顔も知らず暮らす日々
流れに任せただ生きる人生はなんとしがない 死ぬまでの日々はそれからの日々よりもずっと短い
この驚きや閃きは今だけのものでしかない ならばこの一瞬の時を唄にしない手はない
ボールペンのインクに理性と感性の2つと 血と汗を混ぜたフラスコを揺らすと
肉体の動きを超えて起きるChemical Reaction フラストレーション解き放ち書き出す哲学書
何かを求めるほどに自然とペンは深くなり 未知なる日々への意味を探り明日に向かう足
微かに覗く明日へ ペンが指すままに さすらい続ける侍に同じ日はない


この最初の始まりから僕は好きだ。「生きようとすればするほどに終りは近づき 近くにいるはずなのに未だ未確認」さらに畳みかけるようにして「今尚この時も終わりに向かい時は過ぎ 俺を生かす死の顔も知らず暮らす日々」


畳みかける部分、ここが僕には響く。瞬間瞬間はやはり事後的なものでしか捉えることが出来ないのである。加えて自分を生かしているのは死の顔であるとまで言うのである。

冷静に考えて、この歌詞にもある通り、僕らは常に終りに向かって進んでいる。死の顔、確かに自分自身で自分の死に顔など確認できるはずもない。幽体離脱するぐらいしか方法はない。ところが、僕らは生きている以上、死など経験できる訳もない。

僕は以前の記録で死について感じることを記録した。忘却されることこそが本当の死であると考えている僕にとって、この曲を聴いて感じたことはその忘却ですら時間による手が及んでいるということなのである。時間が経てば経つほど忘れ去られていく。

生きようとすればするほどに終りが近づく。正しくその通りだと思う。ただ、死がゴールではなく死してなおまだ生き続ける人間がいる。時間の中で醸成されていく人間すら存在する。

客観的時間の中では一部の点としての出来事であるかもしれないが、主観的時間に換算してみればそれはまだ続く時間である。そのズレを乗り越える手段を持ちえない人間は何とか弱い生き物なのであろう。

時間を意識してしまった途端、その枠組みに抑えられてしまう。1日は24時間であるかもしれないが、もしかしたら36時間かもしれない。48時間が1日なのかもしれない。そういった画一的な数によって僕らは図られてしまう。僕らは終わりに近づいている、それは確かなことである。しかし、それを具体化することは不可能であり、この曲のように「何となく」でしかつかめないものなのではないか。


以前、僕は数字について記録を残している。数字というものは絶対的差異を相対的差異へと還元してしまうということを書いたと記憶している。時間の感覚もある意味でそういったものの中にある訳で、人それぞれで考えることが違うように、それに対する時間の掛け方も違ってくる。ただ方向性は同じく「終りに近づく」ということは確かなことのようだ。

「終り」とはなんだろう。何を以てして「終り」とするのだろうか。この曲では「死」というものが措定されているし、また「流れに任せただ生きる人生はなんとしがない 死ぬまでの日々はそれからの日々よりもずっと短い」という何と言えばいいのか、自己というものが存在しない時に「終り」を迎えるともいう訳だ。

果てしなく見えないものの先に「終り」があるのか。そもそも「終り」は存在しないのであろうか。僕にはよく分からなくなってきた。だが、これこそ時間という概念から抜け出せない僕らの性というか、運命じみたものがそこにあるように思うのである。

小説などには「終り」がある。形式的な「終り」がある。それは本という形式をまとってしまったが故の時間である。いや、違うな。本は本という世界の中で時間を形成しているのだ。


小説や哲学、もっと広げて芸術的な分野全般に共通することであるように思う。そこに作者は時間を作り上げているのである。一見「終り」というものが本という形状を纏って存在するが、その人の作成した人の時間がそこに投入されている。

とこんな風に書いてみると、いかにもマルクスっぽくなってしまっていやな気分になるのだが…。別に芸術は労働の所産?であるかは分からないがそんなものではないのではないだろうか。ある意味でそういった世界観から抜け出るための芸術などではないのだろうか。

時間を留める技術としての芸術。その時間を生成する作者。

我ながら「時間を留める技術としての芸術」と書いてみたが、「むむ」となってしまった。厳密には「時間を生成する技術としての芸術」なのではなかろうか。

時間に勝てないのなら自分で作ってしまえ。生きている時間を無駄には出来ない。捉えようのない「終り」に我々は近づいているらしいから。僕はいつ「終り」を迎えるのだろうか?死を迎えた時か?自分という存在が忘れられてしまった時か?自己を失ってしまった時か?


殴り書き失礼。よしなに。

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