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雑感記録(38)

【時間について(殴書的覚書1)】


最近、記録をこの媒体に残そうと思ってタイピングし始めるのだけれども、どうも纏まりがつかない。仕事の忙しさを理由にしてはいけないのだろうけれども、そうしなければやっていられないというのも事実な訳で…。もどかしい。非常にもどかしい。

しかし、こうして「今、この瞬間」僕はタイピングをして文字を打っているのだけれども、実際に紙に書き記す行為とタイピングする行為とではやはり少し頭の働きや時間の動態なるものが違っているように僕には思えて仕方がない。いや、事実異なっているのではないだろうか?

例えば、上記文面をタイピングした訳だけれども、これを打つのにせいぜい30秒ぐらいしか掛けていない。どこか「自動手記」のような趣すら感じてしまい、果たしてこれが自身の思考性なるもののうえに屹立したうえで書かれているものなのか峻別がつかなくなっている。というのを読み返すたびに思われて仕方がない。


既にこの段階でまず以て僕は時間と書くことについての違和感を感じてしまう。思考の時間と打つあるいは書くという行為における時間の齟齬とでも表現したらいいんだろうか。僕には到底分からないけれども、違和感を感じていることだけは確かなようである。

僕は先に「今、この瞬間」と打った。でも、それを打った時点でその瞬間はすぐさま過去のものとなり、その瞬間などは表現できないのだ。それを上手に表現することは出来るのかもしれないのだろうけれど、その時間を言葉として掴むということはどれだけ文才がある人でも無理難題なのではないのだろうか。

言葉はそこに留まっていることが出来るかもしれないが、時間は際限なく進んでいく。僕らが「いや、待ってくれ」と思ったり考えたりしても外的な時間(ベルグソン的に言えば客観的時間となる訳だが)は容赦なく僕らを置き去りにしてしまう。

言葉に表現しうるものは時間そのものではなくて、思考性の時間なのではないかと最近考えるようになった。(ベルグソン的に言えば主観的時間なのだろうか?)自身が何を考え、どのような流れでその思考に至ったのかという思考の時間性。これは外的な時間の尺度で表現できないからこそ、言葉という尺度を利用して表現が可能なのではないだろうか。

哲学の面白さとは何だろうか?単純に面白いことを言っている、その知見が面白い。ただそれのみに還元しうるのか?否。そんなものではない。これは哲学が分かりやすいのでここでは例として挙げた訳だが、これは小説などにも関係してくる。

書物を読むことの愉しさはまず以て、その言葉の中に流れている思考の時間を手繰り寄せることにあるのではないのだろうか。例えば、これまた何回も登場しているニーチェだが、昨今は「神は死んだ」というようなキャッチーなフレーズ(?)のみが先行している。どういうことなのそれ?と聞いてみるとその言葉だけが記憶に残っているありさまだ。

況してや、その言葉に対して表面上の意味を求める。つまり「神は死んだ」という意味はねこれこれこうでね…とさらに言葉で還元しようとする。確かにニーチェがこの言葉で伝えたかったのはそのたかだか数行の内容であったかもしれない。でも、それ単体だけでその言葉の奥底まで見渡せたことになるのだろうか?

その言葉にたどり着くまでの思考の流れというのがその前段階で、ニーチェがあらゆる言葉を尽くして記している訳だ。その思考の流れを掴もうとせずに、単体のみで考えることなど僕から言わせれば笑止千万。学校の暗記の勉強じゃないんだから、辿れるところまで辿ることも大切だろうと思うのは果たして僕だけなのだろうか。


話が随分と脱線してしまった気もするが、ある意味でこの脱線するということは客観的時間にあらがおうとする僕なりの抵抗なのかもしれない。ここで軌道修正してレールの上にのせて書くことは簡単なのだろうけど、それはそれで面白くない。せっかく何を書いてもいい、白紙のプラットフォームがあるのだから、そこに時間を導入してどうする?

時間は戻せない。どんなに言葉を尽くそうが、どんなに科学技術が発達しようが時間に勝つことなど到底できない。とりわけ「今、この瞬間」を捉えるなど無理難題である。

冷静になって考えてみよう。小説やら詩の評論とやらで「瞬間を表現するのが上手だ」と書く輩が居る。しかし、これはちゃんちゃらおかしな話である。そこで表現されるのはまがい物であり、瞬間などではない。そもそも言葉で落とし込めてしまえるようなものが果たして「今、この瞬間」というものなのだろうか?

僕は「言葉は常に事後的である」という風に考えている。その時の気持ちや感情を相手に伝えようとしても、それは事後的なものであり、上手にそれを伝えることの方が困難なのである。だから人間はその表情というものがあるのだと思う。その「今、この瞬間」を表現しうる手段としてそれがあるように最近は思えてくる。

個人的な話になるが、以前付き合っていた彼女に別れ際、こう言われた。
「あなたって機嫌悪かったりとか、調子が悪いとすぐに表情や態度に出るから本当にそこが子どもだよね。」と。その時はそうなのかなとも思ったりしたが、改めて考えて見るとそうなのか?と言ってやりたい。1番気になるのは「子どもだよね」と言われたことだ。


言葉で表現できない「今、この瞬間」を表現したいと思うからとっさにそうなってしまうのではないか。仮に嫌なことがあっても我慢して、表情1つ変えない人の方が僕は心配になってくる。それもその人の思考の時間なのかもしれないのだろうが、そっちの人の方が色々と後手後手に回りそうな気がしている。これは僕の偏見ではあるのだけれども。

しかし、これもよく考えて見ればおかしな話ではないように思える。彼女との喧嘩の場面なんかを想像して貰えればよく分かるのかも分からない。こちらが言葉を尽くして説明しても、彼女は彼氏の「今、この瞬間」など知ったこっちゃないのだから、何を説明したって結局後付けの理由ぐらいにしか聞こえないのだ。

だからと言って言葉で説明することを怠れば余計に事態は悪化してしまう。何と表現すればいいのか難しいのだが、そこの逆転現象も僕にはよく分からない。言葉で伝えることが困難な「今、この瞬間」を言葉にしたところでいい訳にしか聞こえないし、かといって黙ってやり過ごしていれば「なんか言えよ」と言われるのが関の山なのである。

言葉は万能であると思っているかもしれないがそんなことはない。むしろ、僕は言葉に不自由さを感じることの方が多い。その代表が僕にとっては時間なのだ。自分の過去の記憶を言葉で覚えていることがまず以てあり得るのだろうか。言葉で説明できるがあくまで現在という位置から過去を眺めて言葉にしているにすぎず、その当時の「今、この瞬間」はどう頑張っても戻ってくることはない。

だから我々はノスタルジーというものを感じられるのではないだろうか。しばしば、「過去の栄光にすがる」という人たちがいる。要するに過去の自分の自慢?なのかな。武勇伝とか…色々と言いかたはあるのだろうけれども、まあそういったことだ。それに対して嫌悪感を抱く人間が多い。「自分の自慢ばっかしてんじゃねーよ」と。


しかし、これは僕にとっては悪いことではないように思えるし、正直嫌な気持ちを感じたことがあまりない。その人が過去の「今、この瞬間」を現在の「今、この瞬間」に落とし込もうとしているある意味での努力に僕は思われるのだ。言葉で時間を超えようとする1つの挑戦でもある。言いかたは悪いがある種の哀れみみたいなものだ。

僕もしばしば過去の出来事を思い出し、それを友人たちに共有しようと言葉を尽くす瞬間がある。最近、そういった場面が多く、その言葉で表現できない時間を共有する作業の困難さに直面した。

「同じ時間を共にした」「同じ釜の飯を食った」等々、様々な表現が存在する訳だが、厳密に言えばそもそも個々人でさえ時間の捉え方は異なる訳で、皆が皆同じ時間を共有している訳ではない。あくまで同じ場を共有したにすぎない。そこに対する時間は人それぞれであるように思える。

そこは簡単な話で、同じ場に居たとしても記憶していることが異なることを思い出して貰えれば恐らく了解できるのではないだろうか。起きた事象に関しては同値であるが、そこに介在する時間や空間というものはおよそ共有することは不可能な話ではなかろうか。

それでも、「ああ、昔は良かったよな」とか「あの頃に戻りたいな」というような思考は大体共通している。そこが面白いところだなと思ったりもする。僕は戻れるなら大学生からやり直したいと切に願っているが、現実は甘くはない。

畢竟するに、僕らがノスタルジーに浸りたくなる、過去の武勇伝を話したくなるという現象は戻れないと分かっている時間を何としてでも手繰り寄せたいという1つの欲望である。また、それが原動力となり日々の生活へのちょっとした潤いを与えてくれるものでもあるのではないかと最近の僕は考えている。


随分と書きたいことから遠ざかったような気がするが、そこは置いておく。自分で言うのも大変恥ずかしいが、実はタイピングしながらテキトーに考えたことを打ち込んでいるにすぎず、実際に記録を付けているノートとは掛け離れたことを書いているのだから。

ただ、「時間」と「言葉」ということは軸としてぶれていないことを再確認できただけでも大きな収穫であったように思う。

空間を計測する道具であるところの物差しは空間の中に現実に存在していて、私たちはそれを手に持って使うことができる。時間を計測する道具は時計ではあるけれど、時計というのは流れ続ける時間の中に存在しているから私たちと一緒に時間に流されている。一メートルの物差しの先っぽにフックをつければ、一メートル離れた場所にある物体を自分のところに引き寄せることができるけれど、三分を測れる砂時計を使っても、三分過去や三分未来を引き寄せることはできない。空間には人間の力が及ぼせるけれど、時間には人間の力は及ぼせない。

保坂和志「時間には人間の力は及ぼせない」
『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』(草思社2007年)P.160,161


殴り書き失礼。よしなに。


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