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雑感記録(196)

【クッキーと牛乳を買い忘れた】


この3連休、僕はひたすら散歩に明け暮れていた。

散歩については直近でも小石川後楽園に行った記録を残したし、散歩の醍醐味的なことも若干触れた。

ここでは都市にある公園の構造と人の心的構造が似通っている話を書いて、東京に来て人と接する時に感じる違和感の原因は、こういった都市構造も絡んでいるのではないかという事を簡単に書いた。本当なら前田愛の『都市空間のなかの文学』とか引用出来たらよかったのだろうが、生憎僕にはそこまでの力量はなかった。今度もう1度読み返してみようと思う。

僕はどうも多動的らしい。休日の1日どちらか一方は外出しないと気が済まない。じゃあ何か目的を持って外出するのかと言われると、実はそうでもない。場所だけ決定して、そこに電車で向かう。その目的地に着いたらプラプラしてグルグル回って、歩いて帰宅。これがお決まりのコースである。別にその場所で何かをする訳ではない。ただ自然を感じるだけなのである。その自然が果たして僕の求める自然なのかは置いておくとして。

それでこの3連休はずっと出掛けていた気がする。

初日は散歩がてら国立近代美術館へ行き、中平卓馬の展示を存分に味わってきた。これはまあ、記録を残してあるのでそれを読んで貰えればいいのだが。3連休の中で1番充実した日であったような気がする。

その次の日、つまりは日曜日。僕は電車を乗り継ぎ芝公園へ行った。東京タワーを見て、歩いて神楽坂まで戻って来た。その翌日、つまりは月曜日。僕は電車を乗り継ぎ哲学堂公園へ行った。別に何もないな…と歩いて神楽坂まで戻って来た。

自身でこうして書いてみて、ただ「散歩した」という事を脚色して、しかも小学生みたいな日記調で書いているのが何だか恥ずかしい。ただ大人になって小学生のような文章を書ける時間や場所があることは有難いことなのかもしれない。ある意味で小学生の方が言葉や概念を知らない分、少ない言葉でその物を表現しようとせしめなければならないのだから。そういう意味では凄く羨ましいなと思う。僕等は言葉にいつからか使役させられてしまっているのだろうか。


ところで、僕等は物をどうして見ているだろうか。

僕等は物を見る時、これは風景でも何でもいい。それを「どう」見ているか?と聞かれたときになんて答えるだろう。僕は正直答えられる自信がない。結局それを答えた所で、僕はそれを言葉で表現してしまうことになり、その時の感動や興奮を伝えようと言葉による脚色に脚色を重ね、その原風景が崩壊しかねないからである。つまり、僕が見ている風景を僕が見ているありのままに説明することは不可能である。

柄谷行人の『日本近代文学の起源』をいつ久しく読んでいないので、適当なことを書いてしまうが、実際風景を描くということはそれ自体がその書く人の内面を表現せざるを得ないのではないだろうか。先に僕は「その風景の感動を伝える為に言葉による脚色に脚色を重ねねばなるまい」と書いた。だが本来なら「感動した」これで事足りる。その「感動した」というのがどこまでの範囲の心象を指すかは不明だが、いずれにしろとある風景について伝えるとき、書くときというのは「感動した景色」でもいいはずだ。

問題はそれを具に書き表そうとした場合である。その風景に「感動」したということに関しては了解した。しかし、その「感動」の中身って?と当然になるはずである。そもそも「感動」という言葉が概念を表す言葉であり、その言葉の内実には様々な含みがある訳だ。それを言葉で表現しえてこそ初めて「感動」足り得るのではないか。だから僕はやっぱり「感動」という言葉が嫌いだし、面倒くさい言葉だなと改めて思ってしまう。

何だか話は脱線したが、つまり僕が言いたいことは簡単である。僕等は言葉で景色を見ている。しかもある種の汚れた言葉で。アプリオリに言葉が存在している。これは紛れもない事実なのである。谷川俊太郎もそんなようなことを言っていた。『詩の誕生』の最後辺りで。最終部に引用したので気になる人は見て欲しい。

しかしだ、目に映る物は何も言葉を発してはいない。物自体は言葉を持たない、言葉を所有していない。あくまで所有しているのは僕らの側であって、その物自体が僕らを触発して、僕らがそれを受け取って言語化しているに過ぎない。詰まるところ、僕らは僕ら自身の手で風景そのものを言語に落とし込んでいる。僕等自身がコントロールしやすくするために。僕等が与えているのだ。偉そうに…。風景の人間化?何だろう…どこまでも人間が支配したいという欲望みたいなものが、その「言葉」なんだと散歩して風景を見る中で思った。

だが、ここで1つの疑問が出てくる。

僕等はその物自体をその物自体として見ることは可能なのか。僕等が風景を見る、何か物を見る、生活上のあらゆる目に見えるもの。そこに映る全てのものを意味のないもの、つまりはそれ自体として見ることは果たして可能なのか?僕らは本当に物を物として見ることが可能なのか?(何だかカント的な感じがして非常に嫌な感じもするが触れずにおこう。)


実はこの文章は中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』に触発されて書いている。

中平卓馬の展示を見に行ってから、恥ずかしながら中平卓馬の文章を無性に読みたくなって帰りがけに美術館の売店で購入した。それを読みながら帰ったのだが、これがまた凄く良い文章だった。何が良い文章かというのは、今回の場合は言葉の流麗さや面白さ、そういった部分での良いという事ではない。中平卓馬の写真そのものに対する考え方が非常にウィットに富んでいて面白かった。個人的にではあるがル・クレジオやロブ=グリエを援用しながら語っている部分は非常に面白かった。

だからという訳ではないのだが、中平卓馬の写真論は実は小説にも適用させることが可能であると僕には思われて仕方がない。ここで中平卓馬が挑戦しようとしていることは、これは畢竟するに文学に於いても重要な問題である。中平卓馬の場合はそれを写真というものを使って試みる訳だ。

 だがいま、まさしく世界は作家の、人間の像を裏切り、それを超越したものとして立ち現れてきているのだ。作家が、芸術家が世界の中心であるといった近代の観念は崩壊しはじめたのだ。そしてそこから必然的に作品を芸術家がもつイメージの表出と考える芸術観もまた突き崩されるを得ないのは当然のことである。そうではなく世界は常に私のイメージの向う側に、世界は世界として立ち現れる、その無限の〈出会い〉のプロセスが従来のわれわれの芸術行為にとって代わらなければならないだろう。世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それがわれわれ芸術的試みになるだろう。それはある意味では、世界に対して人間の敗北を認めることである。だが此岸と彼岸の混淆というまやかしがすでに歴史によって暴かれた以上、その敗北を絶望的に認めるところからわれわれが出発する以外ないことは、みずから明らかなことである。

中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」
『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』
(ちくま学芸文庫 2007年)P.17,18

僕が中平卓馬の写真に惹かれるかということは過去の記録でも触れた通り、写されたものが力を持ち、それを僕らが見た際に、その力に触発されて自身の諸力がありとあらゆる方向へと展開させていく。謂わば、写真そのものが物語を誘発する装置と化している。写されたものが魂を持っている。しかし、これは結局のところ、上記引用によるところの話を僕はただ言い換えたに過ぎないのかもしれない。

僕がこの引用箇所で好きな表現がある。それは最後の部分。「それはある意味では、世界に対して人間の敗北を認めることである。だが此岸と彼岸の混淆というまやかしがすでに歴史によって暴かれた以上、その敗北を絶望的に認めるところからわれわれが出発する以外ないことは、みずから明らかなことである。」という部分である。特に重要な所は、「世界に対して人間の敗北を認める」という表現である。これは重要な姿勢であると思う。

まず以て、僕はこれを読んだ時にパッと思い出されたのは三島由紀夫と東大全共斗との討論で三島が発した言葉だ。確か芥正彦との議論だったかな。「僕は歴史にやられたいんだよ」みたいな話をしていたと記憶している。日本人として生きるみたいな話…だったかな。まあ、詳しくは映画か書籍を読んで貰うとして。個人的にここと僕はリンクした。中平卓馬は世界に対して敗北を認めるという。この世界が歴史であり、敗北がやられるということなのではないだろうか。つまり世界(歴史)に敗北(やられる)ことを認めることで芸術的な何かが生み出しうるのではないか?という可能性をお互いに示唆しているような気がしてならない。

それで、ふとこれもまた古井由吉「高速の中で」(『招魂のささやき』)について書いた自身の記録が呼び起こされる。

ここでは時間というものを引き合いに出して、所謂「タイパ読書」という観点から考えてみた訳だ。そもそもこの広大などうしようも出来ない世界に逆行するかのように読書をすることは困難である。どう頑張ったって、その世界には敵わない。だからこそ「読んだときの私の静かさが、私の時間から零れる」のである。要するにこれは世界に対する敗北を認めているという事に他ならないのではないのか。この敗北を認める、「私の時間から零れる」ということを認め、再び本を読み返すという行為にこそ芸術的営みがある。そんな気がしてならない。


写真を撮るということ、それは事物の思考、事物の視線を組織化することである。私は一枚の写真に像(イメージ)の、私が世界はかくあるだろう、かくあらねばならないとするイメージの象徴を求めるのではない。既知のもの、既知の世界ならばそれは叙述可能である。そのさらに向う側に拡がる未知の世界が偶然にも発してくる象徴(くどいようだがそれは私の捕えた世界の意味の象徴とは逆転した位置にあることは言うまでもない)を受けとろうと待ち構えることである。おそらく写真による表現とはこのようにして事物の思考と私の思考との共同作業によって初めて構成されるものであるに違いないのだ。
 そしてそのためには世界、事物の擬人化、世界への人間の投影を徹底して排除してゆかねばならないであろう。なぜなら、すべてを人間中心に、人間に擬して見るわれわれの思考は、事物を事物として語らせることを初めから不可能にしてしまうからだ。

中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」
『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』
(ちくま学芸文庫 2007年)P.19,20

これは写真を撮ることについて書かれている訳だが、つまりは自分自身はまず以て世界に敗北しているということを認めることで、初めて「事物」を「事物」そのものとして捉えることが出来る。そうして自分自身の思考と「事物」の思考、「共同作業」によって構成する。何だか読んでいると、これはヌーヴォー・ロマンでロブ=グリエが『新しい小説のために』で提唱していたことと同義反復しているような気がしてならないのは僕だけだろうか。

そういえば、僕は過去に1度、保坂和志のエッセー『小説の自由』『小説の誕生』『小説 世界、奏でる音楽』などを挙げた際に、彼は小説から世界を考えると書いた。彼の小説は悉く何も起きない。今、手元に小説がないので引用することが敵わないのが悔しいのだが、何も起きないただの日常が延々と続くのである。僕は彼の小説だと『この人の閾』『朝露通信』『季節の記憶』が好きである。これらは本当に何も起きない。いや、だからと言って何も起きないということはない。作中人物にとってはそこに在ること自体が事件である。既に何かが起きていることに他ならない。

「既知の世界ならばそれは叙述可能である。」確かにそうなのだが、保坂和志の小説はそれを転倒しているような気がしている。叙述可能な既知の世界を書いているが故に、そこに何かが起きると予感している我々読者を裏切り、「何も起きない」ということが実は大きな事件であるということを徹底しているような気がしてならない。これが保坂和志の小説の通底する魅力なのかもしれないと思ってみたりする。

世界に敗北しているからこそ、何もそこには起き得ないというある種の諦念がそこにはある。しかし、そこから始まる何かがあるという事を小説、畢竟するに言葉である訳だが、それを正しくやってみせているのが保坂和志であって、それゆえに彼は「小説から世界を考えている」のだと僕は個人的に思ってしまったのだという話である。

これは堀江敏幸にも同様なことが言える。彼の小説も徹底的に起きない。でもその静けさの中に、その静けさの底にうごめく何かが堪らなく面白いのである。僕は個人的に『雪沼とその周辺』が好きなんだけれども。兎にも角にも、この両者には「何も起きない」という事件性があるからこそ生まれる何かを持っている。それこそ、中平卓馬の写真のように読んでいると向こうからやってくる得も言われぬ力が僕を襲う。こういう時に僕は「ああ、小説を読んでいるんだな。」と感じることが出来る。

彼ら(保坂和志、堀江敏幸)に共通するのはそこで、「未知の世界が偶然にも発してくる象徴」をしっかりと「受け取ろうと待ち構える」小説を書いているような気がしてならない。恐らくだけれども、これも個人的な見解なんだけれどもね、この「受け取ろうと待ち構える」その姿勢にこそ小説家の技量があるのではないかと思うんだ。言ってしまえば、ここにこそ小説家としての素養がある気がしてならない。……僕個人の感想だからあまり真に受けないで欲しいんだけどね。


僕が最近の小説が読めないのは、無論先の記録でも触れた通り「タイパ読書」みたいなのが流行しているから、小説もどうもそういう傾向に流されて、本質を見失っている気がするということにあると。やっぱりそことも深く関わっていて、その時間性。つまり皆、生き急いで小説を書いているような印象を僕は少なくとも受けてしまう。

もっと、ゆったりすればいいのになってずっと思っている。僕が言えたことでは決してないのだけれども、何というか、ドンと構える度胸がないのかなと僕は思う。小説を書くと決めたら、下手でも上手でもドンと構えていればいい。節度を守って。それで天狗になってしまったら終りだけれども。

そういえば、昨日、柄谷行人と蓮實重彦の対談集を『ダイアローグⅠ』で読んだ。蓮實重彦の『夏目漱石論』に関する対談だった。その中で柄谷行人だったか、蓮實重彦だったか、どちらが言ったかは不明だが、「夏目漱石は余裕がないからこそだらける」というようなニュアンスのことを確か話していた気がする。これも手元にないので正確に思い出せないのが辛いところだが…。つまりは、小説家はそれぐらいの心持で世界と関わるべきなのではないかと思う。だから保坂和志は『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』というエッセー集の中で愛すべきプー太郎たちについて語るのかと合点がいく。

別に僕は小説家になるつもりは微塵もない訳だが、常々こういう感性は欲しいと思っている。だからこそ僕は小説を読む。そんなことを散歩しながら感じていたという話である。


3日間、まあこんなくだらないことを考えながら歩いていた。しかし、こうして何の意味もないことを考え続けるのは愉しい。

そうして帰って玄関を開け、靴を脱いで、リュックを下す。

「あ、クッキーと牛乳を買い忘れた!」

散歩後の僕には「3度目の正直」は通用しないらしい。

よしなに。

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