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ドイツ・ミュンヘン 見落としていた1972年 

「思うにね、ミュンヘンと言う町は、全く過小評価されているよ」

 知り合いのイタリア人男性がそのように宣う。ミュンヘンを愛し、頻繁に訪れていると言う。

 これは彼なりの高評価なのであろう。通常はかなり評価の手厳しい男性だ。それならば、とミュンヘン訪問への期待が持てた。


 夏休みを四日間戴いて、ミュンヘンを訪問することにしたのだ。

 何故ミュンヘンなのか。


どこに行くにも通過したマリエン広場


塔は、とにかく高ければ高いほど良いのであろう

 
 ドイツは比較的物価も安く、ミュンヘンをハブにして、かの高名なノイシュバンシュタイン城とメルヘン街道へ足を延ばすことも可能であると高を括っていたのである。

 「何を寝ぼけたことを、ベルリンはともかく、ミュンヘンの物価はストックホルムよりも高いよ。特にホテル代が高い」

 くだんのイタリア人は言う。
 喜ばせてくれたあとに落胆させて下さった。

郊外に位置する四つ星ホテルであったに拘わらず、冷蔵庫、湯沸かしポットもお茶もコーヒーも付いていなかった。バスルームのアメニティも無し

 
 北欧圏において、スウェーデン貨幣のクローナが一番弱くなってしまったことに関してはそろそろ諦めがつき始めたが、中欧ドイツの物価よりも低くなってしまっていたとは。


 さて、私はドイツと言う国にどのような印象を抱いていたのか。どちらかというと軍事色の強い国というイメージであろう。

 しかし、

 ドイツでは、フランスのユーロ・ディズニーの入り口付近のように、銃を抱えた軍隊/警備の人達に背後から付いて来られることもなく、イタリアのように、軍服に身を包んだ天気予報おじさんがテレビニュースに出現する、ということも無かった。

 それでも、

 さすがは秩序の国と言われるだけある。

 ミュンヘンでは、交通機関においては、義務であるためか、ほぼ全員がマスクを着けていた。色彩豊かな嘴型(FFP2型)のものが多い。ドイツ航空機の搭乗ゲイトにおいても、「マスクを持参していない乗客は今すぐ購入するように」、と何度も促されていた。

 ほとんど誰もマスクを着けていないストックホルムから南下すると、非常に異様な光景でもある。

 
 それだけ秩序を重んじている国であるためか、治安も良く、ミュンヘンという街は非常に平和である印象を与えていた。

 



 




 ミュンヘン観光の最終日のことである。

 予報に依ると、気温は22度ほどに下がり、降雨の可能性もあるというが、もし時間に余裕が出来れば、見学しようと考えていたところがある。

 ミュンヘン・オリンピックの会場となったところである。

 1972年に開催されたオリンピックだ。9月に開催されたものなので、あと数日間で、今からちょうど50年前のことになる。すなわち半世紀前である。


オリンピックタワー(左)とBMW社ビル(右)

 

オリンピック公園


 1972年と言えば、

 昔、年号別ニュースダイジェストというような本を、ストックホルムの日本人図書館から譲り受けたことがある。おそらく70年代にストックホルムに移民してきた日本人が寄贈したものであろう。

 私が戴いたものは1972年の一面記事を纏めたものであった。そしてその年は、まさに激動の昭和が凝縮されていた一年であった印象を受ける。

横井庄一さん帰還、連合赤軍あさま山荘事件、札幌オリンピック開催、ニクソン大統領訪中、川端康成氏が死去、沖縄の返還、ウォーターゲート事件、田中角栄内閣発足、日中国交の正常化、パンダの初来日 等々

Aflo

 

 

 
 
 ここ最近の北欧の天気予報の外れ方は甚だしかったが、ここも例に漏れず、私は、雨どころか炎天下のオリンピック公園を歩いていた。

 私の旅は往々にして行き当たりバッタリであるが、今回のオリンピック公園に関しても事前知識は皆無であった。

 オリンピック公園から道路を挟んだ反対側の団地群が、妙に懐かしく感じられ、思わず道路を渡ってみた。


初めて訪れた土地なので懐かしく感じられる理由はないのだが


おそらく50年間から変わらない光景、車種以外

 
 
 陸橋を渡り、道路の反対側に渡る。団地に辿り着く前の広場に奇妙な建物が、あたかも迷路のように佇んでいた。

 学生バンガロー(学生寮)であるということである。そして、団地のように見えるこの一帯は、当時のオリンピック時の選手村(Olympisches Dorf)であったそうである。


 
 
 この右手の丘を曲がったところに、何かのモニュメントが建てられている。

 モニュメントには数枚の写真が展示されており、供花をしている人が数人いた。なんとなく気が引けたので近くには行かず、写真も撮っていない。

 そのモニュメントの意義が判明したのは、ストックホルムに戻って、検索をしてからであった。

 「ミュンヘン オリンピック」 

 この言葉で検索をすれば、これでもか、と言うほど、1972年の9月にこの場所で繰り広げられた出来事に関する情報が見つかる。


 
 この学生バンガローも当時は、約3500戸を擁するオリンピック選手村の一部であったのであろう。

 この壁画の数々は、いつ、誰に依って描かれたのであろう。


左手の壁画は万里の長城


「死とは、飢餓の結末ではなく、倦怠の出口である」(試訳)。いつごろ書かれたものであろうか。フラワーパワーの頃かとも訝ったが、インクが比較的新しくも感じられる



 この時の出来事を扱った映画を動画で見つけた。1976年に制作されたものである。この建物がその映画には何度か出て来ていた。

 事件当時、警察と犯人がつたい歩いていたこの建物のアパートと、このエリア一帯は、現在では大人気の物件となっているという。時間の推移は人の記憶を朧げにする。


 空は真っ青であり、外は相変わらず暑い。

 近所の子供達が、中庭の水場で遊んでいた。その近くでは大人たちが涼んでいる。その場所の写真は撮らなかった。

 
 その場所は撮らなくて正解だったのかもしれない。後悔するような写真はなるべく撮らないようにしているが、この時は、ゆっくりとしている余裕が無かっただけであった。


 当時、最初の事件が起きた場所は、ちょうどその水場の辺りであった。この事実もこちらに戻ってから知ったことであった。

 


 外の色彩は明快であり、この日のミュンヘンは平和であった。

 しかし、高層アパートの背後に広がる青空は、澄み渡っているが故に、向けどころのないやるせなさを演出していた。

 

 
 この公園も一連の出来事を目撃していたはずである。

  神聖であるはずのオリンピック会場にて起きたこの事件は、世界中を震撼させ、報復は報復を呼んだ。この報復劇の渦中には、日本人も居た。

 またオリンピックを中止しなかったことに関する賛否両論も、激しく飛び交わされた。

 この一連の事件は、私の持っていた1972年のニュース・ダイジェストには確実に記載されていたはずであるが、読んだ記憶が全く無い。学生時代の世界史の授業にてこの事件が取り上げられた記憶も無い。近代世界史には興味があったので真剣に受けていたに拘わらず、である。不可解なこともある。

 この史実を事前に知っていたのであれば、「時間に余裕が出来たら」、などというスタンスではなく、こちらを真っ先に訪れて来ていたはずである。


 平和かつ秩序だった町にて、後戻りの出来ない歴史の一ページを刻んだ出来事、その半世紀後に一介の旅行者がそのさわりだけを綴らせて頂いた。

 現在の心情を音楽に代弁して頂くとしたら、こちらであろう。
「Roger Waters - Vera / Bring The Boys Back Home」



今回もご訪問を頂き有難う御座いました。 

しばし私と一緒に、モノクロとセピアの50年前の世界に想いを馳せて頂けたのであれば幸いです。

次回は、99個の風船に乗って色彩豊かなアルプスの山麓に、一緒に飛んで行きましょう。その後には、ふたたびミュンヘンの街へ戻ります。色彩豊かな街のほうです。パリのカフェ編も忘れてはおりません。