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檸檬読書日記 羅生門の下、藪の中の真相を探る。 10月30日-11月5日

10月30日(月)

今、何処も彼処も、柿がたわわに実っている。今年は豊作の年なのだろうか。

「かきだ」

自分が柿を見ながら、牡蠣の発音で言ったら

「柿ね」

すかさず訂正されてしまった。むむ。
どうしても牡蠣と言ってしまうんだよなあ。そして毎度訂正される。そろそろ覚えろよ、という話だけど、でも伝わればいいんじゃないかなとか思ってしまう。まあ、だから駄目なんだろうなあ。
柿、柿、柿、牡蠣、柿。
もういっそ、どっちでもない色の方のカーキと言ってしまおうか。(駄目だよ)


鹿島和夫『1年1組 せんせいあのね こどものつぶやきセレクション』を読む。

1年1組の担任をしていた鹿島さんが、子どもたちとやっていた交換日記「あのね帳」から選び出し本にした作品。


こどもはいつかおとなになるでしょう
おとなはむかしこどもだったんでしょう
みんな
そのときのきもちを
たいせつにしてもらいたいなあ


せんせい
まえからおもっていたんだけど
かみさまはどうやってうまれてんですか
にんげんもどうやってうまれたんですか
ふしぎすぎます
わからないからおしえてください
せんせいもわからないでしょう
ほんとうはだれにもわからないから
にんげんがかみさまをつくったのでしょう


子どもたちの純粋で只管に真っ直ぐな言葉に、ポッと心が温かくなったり、ハッとさせられたりと、結構考えさせられた。 

ヨシタケシンスケさんの絵も良く、読んだ後に笑顔になれる本だった。子供時代を忘れてしまった人や、頭がごちゃごちゃになって疲れている人に向いているのではないかなあと思った。




10月31日(火)

黒澤明『羅生門』(映画)を観る。

芥川龍之介の『藪の中』を原作にした作品。
豪雨の中、羅生門の下、奇妙な出来事について、杣売りと旅法師が下人に語る。
1人の男が殺されたが、証人が全て違う話をするという。盗賊も、殺された男の妻も、殺された男も、殺された男を発見した杣売りも。

音楽なのかそういう風に作っているからなのか、はたまたモノクロという性質からなのかは分からないが、終始恐ろしさを感じた。
演じている役者も凄い。何よりも「目」が印象的で、余り動かず、静かで虚ろ、熱が帯びると強烈。それがまた、恐ろしい。
役者の中でも、特に女性陣(といっても2人しかいないのだが)が凄まじい。
殺された男の妻は、基本的には綺麗なのに、所々で崩れて、醜いというのではないけれど、ぐちゃりとなる。それがまた恐ろしい。
殺された男を呼び出す巫女も、人間とは思えない異様さがあり、迫力に圧倒される。

役者や物語自体も凄いが、でもやはり凄いのは映像。
そして黒澤明監督は、モノクロにこそ、力や素晴らしさを最大限に発揮していた気がした。
カラーであった『まあだだよ』も勿論凄かった。けれど、モノクロの『羅生門』を観て、より凄い人なのだと感じた。

風とか雨とか、自然の使い方が素晴らしく関心させられるのだが、その中でもとにかく光と影の使い方が上手く、特に駆け抜けるシーンが凄かった。疾走感の見せ方が抜群なのだ。こちらまで風が押し寄せて来て、一緒に駆け抜けているような感覚に襲われる。
幻想的で、色がなく非現実的なのに、中に引き込まれるような魔力があって、まるでいつの間にか寝てしまい、夢の中に迷い込んでしまったかのようだった。
場面も人も限られ、狭い空間、箱の中の出来事という感じで物語的で凄く遠いのに、反対に凄く近い。(分かりずらいな…とにかく)じわじわと侵食されるようなだった。

本当に素晴らしく、モノクロだからこそ出来る全てのことが詰まっていた。
正直モノクロ映画は避けがちで、あまり観なかったのだが、モノクロでも黒澤明監督の作品は観たいと思った。他のも観てみたいと強く思った。

映像以外にも、役者たちが着ている服や道具や建物も印章的で、流石黒澤明監督、抜かりがないといった感じだった。服は着古した感が本当にリアルで、違和感がないくらいボロボロ。
最初に出てくる羅生門も圧倒的で、最初の段階でどんと見せることで、物語の中に引き込んでくる。
(宮崎駿さんとの対談本で、羅生門は瓦が重すぎたから、あえて半分崩したというエピソードも読んでいたから、羅生門が出た瞬間、これかあ!と感動もした)

芥川龍之介の『藪の中』自体を読んだことがないから、本来はどういう流れと結末なのか分からない。けれど映画『羅生門』は、1粒の光が煌めくようで、とてもいい終わり方だなと感じた。

(本当は個人的解釈も入れたいところだが、長くなるから一旦終了。まだ付き合える、大丈夫という方だけ1番下へお進み下さい)



アンネ・フランク『アンネの童話』を読む。

事故で怪我をして入院することになった「キャンディー」という女の子の話。


(略)「だけどハンス、どうしたら神様の存在がわかるの?(略)見た人はいないわ。ときどき空気に祈っているような気がするの」
「きみの質問にぼくがひとつだけ言えるのは(略)、教えられる人はいないってこと。だれも知らないんだから。しかし、神ってなにかと聞くんなら、ぼくはこう言う。まわりの花や木、虫、人間たちをごらん、神がなにかわかるだろうね。このすばらしいものが命を持って生きて死ぬ、そして生まれる、ぼくたちはこれを自然と呼ぶ--つまり神なのだ。神はすべてをつくった。(略)神とは偉大なる奇跡のための名前で、ほかの名前をつけてもよかったんだ。(略)」

わたしは“わたしをとおして話す”神を信じます。なぜなら神は人間を世のなかに送り出す前に、ひとりひとりに神自身をほんのすこしずつ与えてくださいました。人間にあるほんのすこしの神は善と悪の判断をさせ、神の疑問への答えを与えてくれます。(略)
しかし神はまた、人間に情熱や欲望を植つけました。人間たちの欲望は正義と仲が悪いのです。
それでもいうかは、人々が“神様のほんのすこし”にもっとよく耳をかたむけるようになるかもしれません、欲望よりも良心と言われるものに
「人々はもうけっしてくりかえすなと言います。あまりにも悲惨だったので二度と起こしてはいけないのです。それなのに人間はいつもたがいに争いを始めなくてはならないのね、生きているかぎり。そして平和になればかならず争いの種をさがすんですよ」 


真実だ。そして希望と悲鳴のようだ。




11月1日(水)

糸井重里『ふたつめのボールのようなことば。』を読む。


最初にナマコを食べた人間はえらいとか言うけれど、
ぼくが思うには、大昔、
人間はナマコであろうがウニであろうが、
食べられるものなら食べていたんじゃないか。
あえて、この話をまっすぐに直すなら、
いつごろから、人間はナマコだとかウニだとかを
「きもちわるい」と感じるようになったのか、だ。


いつごろから、人間は虫の食っている野菜を「きれいじゃないから」と避けるようになったのだろうか。




11月2日(木)

んー、最近不調だ。
人混みの所に行く機会が多かったからかなあ。動けないわけじゃないから問題ないけど、画面があまり見れない。
note、普段でも追えていないのに、余計に追えない。
noteからもメールがきた「新作が出ていますよ!」分かっていますよ!




11月3日(金)

蚊!
まだ蚊が飛んでいるのか。
最近夜中にプンプン飛んでいる音で目が覚めて、覚めると気になって寝れなくて、寝不足です。
不調に拍車をかけている。
普段は、あまりにも自分の血が不味いのか刺されないのに、何故かこういう時だけ刺される。うーん。飢えているのか?

最近は刺されても免疫なのかなんなのか、痒みがすぐに気にならなくなるからあまり問題ないけど、音が!プーンプーンがたまらない。
早くいなくなってくれー。


寝不足だと、逆に目が冴えて動きたくなってしまう。
最近、自分の中で捨てたい欲求がむくむくしている。時々くる捨てたいブームがきた。
物をばんばか捨てている。
ばんばん、ばんばか。
そんな中、ある物を発見。

ダイオウグソクムシ


なんでこんな物があるのか不明だが、おそらくガチャガチャで取ったのだろう。元々ダイオウグソクムシは好きだから、それでやったのだろうな。(全く覚えていないけれど)
最初、捨てようかなと思った。けれど、悩んで見ていたら、妙に愛着が湧いてきて…。なかなか可愛いのでは?
そしてなにやら振ったら、カラカラと音がして、腹に開けるところがあって、開けてみたら…。

生まれた!


なんと子供が!か、可愛い…。
白色だし、何処に置いても意外と違和感ないから(いや、多少はあるけど)、こいつだけは残すことに。

割とオシャレでは?


あんなに色々捨てたのにこんなものは残す自分よ…。我ながら不思議だ。

そういえば、前にnoteで本を整理するみたいな企画の記事を載せているの方がいて、自分は結構好きで面白いなと思ったから、この機会に自分もやってみようかなと思い、本を色々引っ張り出してみた。
けれど本出しの途中で、待てよと手を止める。そういえば、自分は考えすぎると、まあいいかなと思いってしまうたちで、結果全部手放すことになりそうだぞ、と思い至る。
それで大概いつも、なんで手放したんだろうと後悔していたな、と。

本をそっと、本棚に戻す。
直感でもう読まないな、と思ったものだけ手放すことにした。
自分には向いていなかった、残念…。
そもそも記事を増やすのは、首絞め行為だった。セーフ?


『暮しの手帖』25号を読む。

「子育て悩み相談室」という記事に、小さい頃から英会話を習わせている家庭が多く、自分も子どもの将来のためにそうした方がいいのだろうか、という質問に対して。
回答者は、子どものためではなく、まずは我が子をじっくり見てください、と言う。親の思いを子どもに重ねるのではなく。


(略)いつも手にしているもの、よくいる場所。そこに、子どもの興味や関心のヒントがあります。それを一緒に見て、楽しみ、会話をしながら深めていくことが、将来の生きる力になるのだと思います。
親は子に、自立した、健康な人間に育ってほしいと願っているはずです。ですから、たくさん笑って、楽しいと感じる経験をたくさんさせてあげてほしいと思います。そうして笑って楽しんで、いっぱい愛されたという実感を持って育った子は、この先ずっと、生きる喜びを味わいながら、しあわせに生きていけるでしょう。


確かに何かを早めにやれば、それは武器になるかもしれない。けれど、戻って来ない時間、その時にしかない時間を子どもに注ぐのは、それよりも大切なかけがえのないことなのだろうなあと思った。
子どももいないのに、読んでなるほどと関心してしまった。
『暮しの手帖』は、本当にどこもかしこも関心させられる。




11月4日(土)

伊藤雄馬『ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと』を読む。

タイやラオスの山岳地帯で暮らす少数民族「ムラブリ」。そんなムラブリの言葉に惚れて、研究したいと思った著者が、ムラブリのことやムラブリで学んだことをまとめたもの。

ムラブリという民族を、自分は今まで聞いたことがなく、この本で初めて知った。そして、文字がない言葉は世界中にたくさんあり、言葉がないからこそ、喋る人がいなくなってしまえば、その言葉はなくなってしまい、なくなりそうな危機にある言葉は、まだたくさんあるのだとか。

なくさないために、そういう言葉があったと残すために、著者は研究していく。
ただ言葉だけではなく、ムラブリ自体の生活や考え方も多く載っていて、それがまた興味深かった。
ムラブリの人は基本的に自由で、暦もないからその日に何をするかを自分で決めて行動する。物をあまり持たず、自分のことは自分でやるという自立した考えを持ち、だからこそ人に頼らず、専門家も存在しないから、誰かが抜きん出ることもない。争いも避け、何か(豚一頭とか)貰った際は、皆で平等に分ける。

人との距離感が遠いようで、とはいえ、繋がってはいる。
なんとも不思議な民族だった。
畑もやらず、仕事もその日にやりたい人がやるという感じで、本当に自由。
でも、これが全てであったら、今の世の中では回っていかないのだろうなとも思った。いいことではあるけれど、全員が全員出来ることではない。
周りの国に専門家や食べ物や物などを作る人がいるからこそ、成り立っている感じはした。
だから今の世の中で、その時の食べ物だけを取って生活するのは難しいのかなとも思った。(知らないだけで、ちゃんと成り立っている民族はたくさんあるのかもしれないけれど)
この本に書かれてはいないけれど、読んで、やはり人は1人では生きては行けない生き物なんだなと改めて思わされた。

とはいえ、ムラブリの考え方は興味深かく、物をあまり持たない(よく考えると、いらないものが多い)ことなど、学ぶことも多い本だった。




芥川龍之介『羅生門・鼻・芋粥』を読む。
「日光小品」を読み終わる。

日光周辺のことを書いた紀行文。

冬に近い秋の日光の景色が書かれていて、正に今読むのにピッタリな作品だった。
一緒に歩いて紅葉や秋が満ちる日光を見ているような、細やかでなんとも綺麗な表現に心奪われると共に、なんとも寂しい気持ちにもなった。
所々に寂寥感がひしめいていて、綺麗で心地よかった秋が終わり、寒くて心細い冬に向かっていくようだった。
文中にも、そこかしこに「寂しい」が散らばっている。


この「形ばかりの世界」を破るのに、あくまでも温かき心をもってするのは当然私たちのつとめである。


けれど、それだけでは終わらないのが芥川龍之介という人。
最後に冷えた体を温めてくれるような、冬が来てもその後は暖かい春が来ると、あの温かさを忘れてはいけないと教えてくれているな、全体的に静かな作品だった。




11月5日(日)

noteから毎朝「新着」出てますよメールがくる。毎日来るようになったのか。なんだか迫られているような、見ろよという圧を勝手に感じてしまって…うーん。


糸井重里『ふたつめのボールのようなことば。』を読む。


「ありがとう」は、親しい者にも言えます。
「ありがとう」は、親しくない者にでも言えます。
「ありがとう」は、それどころか、敵にさえも言えます。

そして、その「ありがとう」は、
親しい者も、親しくない者も、敵も受け取れます。
受け取る「ありがとう」が欠乏すると、
生きる張り合いが減っていくんじゃないでしょうか。
そして、差し出す「ありがとう」がなくなると、
不機嫌が増加していくような気もします。

なんだろう、この魔法のようなことばは。
人間のこころの栄養素みたいですね。


「ありがとう」ひとつで、人は頑張れるし救われる。「ありがとう」の溢れた世界なら、きっと誰もが平穏でいられる気がする。
「ありがとう」に満ちた世界になるといいのに。栄養たっぷり投げて受け取って、少し太るくらいに。
「ありがとう」肥えを目標にしようかな。

「ありがとう」は、誰でも言える。
自分は頭が良くないから、飾り立てた言葉も、上手い言葉も返事も返しも文章も出来ないけど「ありがとう」なら言えるし、それら全てを補ってくれる。と、思っている。(頼りすぎて、若干誤魔化しているとも言える)
いつも悲しいくらい上手いことは言えないけれど、ありがとうだけ伝わってくれたらいいなあ。


嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「与謝野鉄幹」編を読み終わる。

歌人で、与謝野晶子の夫。
正直、与謝野晶子は知っていても、夫の与謝野寛は知らなかった。けれど、追悼は相当な量だったらしい。正岡子規よりも夏目漱石よりも森鴎外よりも多かったのだとか。ほう。
まあひとつは、与謝野晶子あっての多さだっらしいが。

本人自身も追悼文が上手かったらしく、最近彼の追悼文を読んだが、確かに素晴らしかった。与謝野寛(が書いた)追悼文集とか出ないかな。あるのかな。いや、ないか。

与謝野晶子の方が有名になったが、与謝野寛も技量はあったようで、与謝野晶子と結婚していなければ、もっと知られていたのだろうか。それとも与謝野晶子あってのだったのか。
謎だ。







黒澤明『羅生門』続き。

ここからは、自分の勝手な解釈または完全なる妄想なので、あしからず。(そして、観ていない人にはネタバレプラス、意味不明かもしれない)


芥川龍之介の『藪の中』を読んだことがないから、小説とどう違ってくるのか、何が同じなのかは正直分からない。けれど、4人が語った中で真相に1番近いのは、杣売りではないかと思った。

理由は、音。
半分具合の悪い中で観ていたから、聞き逃しただけかもしれないが、杣売りが語った内容の場面にだけ、蝉の音などが聞こえた気がした。
たまたま偶然入らなかっただけかもしれないし、本当にぼんやりして聞いてなかっただけかもしれない。けど、1番現実的に思えた。
杣売り以外の場面は妙に静かで、音が遮断され、何処か幻想めいている。
でもこれがもし、聞き間違えではなく、偶然でもなく意図してなら、本当に凄い。

そしてもう1つの理由は、見栄。
4人の中で最も見栄が少ないのは杣売りで、他の3人は見栄だらけに見えた。
死んだ者すら、見栄を気にしている。
そもそも夫婦2人の語りは、どちらも矛盾が多く、真相に最も遠い気がした。

盗賊の語りもまた、違和感がある。
どこか物語を語るようで、道化師のよう。何よりも、誤って変な水を飲んで腹を壊すというのも、不思議だ。相当焦っていたとしか思えない。

故に、自分は杣売りが1番真相に近いのではないかと考えたけれど、でも結局は、真相などというものはこの物語にとって、どうでもいいのかもしれない。(こんなに語っといてなんだけれど)
1番肝心なのは、誰もが杣売りさえも、嘘を言っている、ということな気がする。本質はそこなのではないかなとも思った。
ただ、どちらにしても、この映画を観て、感じることは人それぞれなのだと思う。誰が真相を語っているかで、人それぞれ考えや答えが違うのもまた、この話の魅力なのではないかなとも感じた。

この話、本当に恐ろしく、やはり人が1番怖いものなのだと思わされる。
第三者として話を聞いていた下人は言う。

「本当に正しい人間なんているのかい?」

この言葉に、衝撃を受けた。
もしかしたら、いないのかもしれない。けれど、それでも正しくあろうとする人間はいるのだと、そう教えてくれている気もした。物語の中には、恐ろしいだけでは終わらせない何かがあった。
そういうところが、本当に凄いなと改めて脱帽した。
この作品が、黒澤明監督の代表作であり、色々な賞を受賞しているのも納得で、内容な面でも映像の面でも、本当に素晴らかった。凄かった。
映画に興味がある人には、1度は観て欲しい、通って損は無い作品だと思った。

んー、相変わらずグダグダでまとまりがない…。とりあえず凄かっただけでも伝わるといいなあ。



長い長い長い。
尚且つ、こんな意味不明な解釈まで見て頂き、お付き合いして頂き、本当にありがとうございました。

皆様が日々健康に過ごせますよう、願っております。
ではでは。

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