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檸檬読書日記 内田百閒を差し置いて、黒澤明に夢中です。 9月18日-9月24日

9月18日(月)


またもや登場シャインパフェ。
今回は、シャインマスカットにヨーグルトにバニラアイスに牛乳寒天(蜜柑入り)。
爽やかで美味しい。


黒澤明『まあだだよ』を読み始める。

どうしよう。久しぶりに湧いている。

この作品、先々週内田百閒のことを少し書いた際、内田百閒なら『まあだだよ』という黒澤明監督の映画が良いと教えて頂いた。
けれど残念ながら、我が家にはDVDを見る機械も映画を見られる契約もしていないから、見られない。ただ調べてみたら、シナリオが収録された本が出ていて、簡単に買えなそうなのでとりあえず図書館から取り寄せて読んでみることにした。

この本、3部構成になっていて、1部は「エピソード」、2部は「シナリオ」、3部は「メイキングアルバム」になっている。
内容が知りたかったから、最初はシナリオの2部だけを読もうと思っていた。だけどせっかくだからと、軽い気持ちで1部を読んでみたら…。
どうしよう、かなり面白い。
軽い気持ちで読み始めた自分を引っぱたいてやりたい。まだ数ページなのに、面白くて、作品自体はまだよく分からないのに、かなり虜になっている。

正直な話、黒澤明監督の名前は知ってはいるものの、作品を見たことがなかった。けれど、何故ここまで有名なのか「世界のクロサワ」と言われているのか、分かった気がする。

もうどうしよう。書き写したいところが多すぎる。まだ数ページなのにこれでは、この作品だけで相当な量になってしまう…。困った。
これは「読書記録」を復活させるしかないかな。もうやらないつもりだったけれど、これはもう仕方ない。あまりにも良すぎた。

ということで「読書記録」へ。




9月19日(火)

「あばっ!」

最近、驚いた際に「わっ!」ではなく、何故か「あばっ!」と言ってしまう。
「何、あばって!」と聞かれるけれど、自分でもよく分からない。変だから直したいけれど、咄嗟に出る言葉だからなかなかどうして難しい。

本当に、どうして「あばっ!」なんだ。どっから来たんだろうか。強いて言うなら、オードリーの春日さんしか思いつかないけど。
「あばー!」
もしやここから来ている?
でも何故?不思議だ。


んー、やはり良いなあ『まあだだよ』。
この本で、黒澤明の虜になってしまった。
とはいえ、映画は見れないから、本ばかり探している。

全集も出てるのかあ。全7巻。気になるなあ。でも高い…。そして知識もなさすぎる。
とりあえず、宮崎駿との対談集が出ているみたいだから、次はそれを読んでみようかな。こんなの絶対面白い。




9月20日(水)

ずっと「井上ひさし」が頭の中にいる。
だからか、本棚を見ていた時、ふとある本に目が止まった。

『ガリバーの旅行記』

この本、安野光雅が絵を担当している絵本で、安野さんにハマっていた頃(今も勿論好きだが)、集めた本のうちの1冊だった。
当時は安野さんしか気に止めていなかったけれど、今見てみたら文を担当しているのが井上ひさしだった。驚き。初めて気がついた。

内容はお馴染みのガリバーが小人の国に迷い込んで、なんやかんやあって小人たちを助けたりもしたけれど、結局いられると困るとなって別れるというもの。

けれど当時はあまり気にも止めていなかったが、この本、最後が素晴らしい。遊び心がなんとも憎らしいのだ。流石安野さんといった感じ。
内容とは違うところでじんわりとさせられてしまった。
井上ひさしの作品もそうだけれど、安野光雅の作品もまた集めたくなってしまったなあ。




憩いの日陰がなくなってしまった。

何故あんなにも木を切ってしまうのだろうか。
木から生まれる日陰が、どれほど有難いか。建物などでは生み出せないあの涼しさが、どれほど助かるか。

そういえばこの前、越して家に住んでみたら横の木のせいで日陰になってしまって困る。邪魔だから切ってほしいと役所に訴えているらしいと、祖父が聞いたらしく、何じゃそりゃと思ってしまった。
木はずっとそこにあり、人側が後だった。そもそも住む前から知っていただろうに、何故今更なのだろう。

暑いのは嫌い、電気代がかかるのは困る。暑さで雨が降らなくて、食物は育たない。動物もばてて牛乳も卵も出来ない。
これ以上暑くなったら、困る。
そうやって嘆くのに、何故そこ止まりなのだろう。専門家も、数値だけ見て、これからも暑くなるだろう。だから水分をしっかりとりましょう。と暑さを防ぐ方法を言うだけで、それならどうやったら食い止められるかを何故考えないのだろう。

ああ、あの木達は自分の憩いの場所だったのに。
丁度、目的地の中間地点にあって、お茶飲み休憩出来て良かったのに…。ほっと一息が無くなってしまった。悲しい。

自然を蔑ろにしすぎですよ。
木もそうだけれど、雨がどれだけ有難いか。
畑をやっているとより思うけれど、本当に雨は有難い。でも今年の夏は全然降らなくて、降らなすぎていっそ台風が来てほしいとか思ってしまうほどだった。後、ゲリラ豪雨。
降った時は、どれほど嬉しかったか。ありがとうと言って、思わず拝んでしまったよ。

でも降っているところは、大変なほど降っているんだよなあ。バランス良く降ってくれたらいいのに…。
なかなか上手くはいかないものだなあ。でも、何故そうなったかを考えなくてはいけないよなあ。




9月21日(木)



向日葵の種をそろそろやらなくてはと思って採ったら、思った以上に小さくて驚いた。
どうやら、脇から出たものを切って、1本で育てなくてはいけなかったらしい。でないと、種が大きくならないのだとか。悔しい。

でもせっかくだから、フライパンで炒って、歯で割ってみたら、米粒みたいに小さい実が出てきた。味は結構しっかりあって美味しかった。地道に食べてこ。

来年は脇芽をきちんと取って、絶対成功させよ。来年は大粒な向日葵の種を食べるぞ!おー!


中村好文・神幸紀『パン屋の手紙 往復書簡でたどる設計依頼から建物完成まで』を読む。

建築家の中村好文さんに、北海道でパン屋をしている神幸紀さんが、設計を依頼する。
タイトル通り、神さんが依頼の手紙を送ってから、完成までのやりとりが収録された本。

お互いに尊重し、違う職種ながら理解しようとして、そうして素晴らしいものを作ろうと二人三脚で完成させていった、というのが読んでいて伺えて、とても良かった。
ああでもないこうでもないと、試行錯誤していく過程も見れるのも、そういうのってあまり知れることがないから見所だなと思った。

手紙が根本にあるからか、どこか温かみのある興味深い作品だった。


この本を読んだら、ずっと後回しにしていた『あるノルウェーの大工の日記』が読みたくなってしまった。ちょうど読んでいる、柿本正午『プルーストを読む生活』にもちょこちょこと出てきていて、余計に気になる。

とりあえず図書館で借りて、良かったら買って読もうかな。(と、前も言っていた気がするけど、今度こそ)


芥川龍之介『羅生門・鼻・芋粥』を読む。
「煙草と悪魔」を読み終わる。

フランシス・ザヴィエルのお供に化けて、悪魔が日本に降り立った。悪魔は日本に煙草畑を作り…という話。

悪魔が出ているだけあってか、海外文学風だ。
そして、だからか芥川龍之介独特の陰鬱さというか、寂寞さがあまり感じられなかった。なんとも珍しい作品。
寧ろどこかコミカルさを感じて、個人的には結構好きだなと思った。


悪魔は、ころんでも、ただは起きない。誘惑に勝ったと思う時にも、人間は存外、負けていることがありはしないだろうか。


ただ、締めるところはきちんと締めていて、こういうところが芥川龍之介の魅力だなと改めて思った。




9月22日(金)

ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』を読み終わる。

んー、どうしようかな。
この本も、書きたいことが結構あるんだよなあ。長くなりそう。
せっかく復活させたから、これも記録の方にまとめようかな。

ということで「読書記録」へ。




9月23日(土)

この前、母親が図書館から借りてきた雑誌『暮しの手帖』を、なんとなしに開いて見てみた。そしたら、最初のページにこんなことが書いてあった。


『暮しの手帖』は、戦後間もない1948年、「もう二度と戦争を起こさないために、一人ひとりが暮らしを大切にする世の中したい」そんな理念のもとに創刊しました。


目にした瞬間、なんて素晴らしい理念を持った雑誌なのだろうかと、関心してしまった。

『暮しの手帖』は、昔のことが書かれた、割と年齢が上の人向けの雑誌、というイメージがあった。前はあまり昔のことに興味がなかったから、見向きもしなかった。
だけど今は、どちらかといえば昔の生活に戻りたい(と言っても、実際はやったことがないのだけれど)と思っている。だからまさにピッタリな雑誌。

そしてこういうものはずっと残っていてほしいから、これから買っていこうと決意。自分だけでなく母親も読むだろうから、丁度いい。

ということで、今日から『暮しの手帖』25を読み始める。




9月24日(日)

んー、なんとも怪しい雰囲気。
母親が卒婚を考えている。
とはいえ、今直ぐ何かあるという訳ではなさそうだが、将来的に別々になりそうだ。

個人的には、どちらも好きで、この世でもっとも家族が大切に思っている身としては、そのまま一緒にいてほしいとは思っているけれど…。でも母親の人生だからなあ。好きに生きてほしい気持ちもある。
それに卒婚したい気持ちもわかってしまう。
父親もいい人ではあるのだけれど、如何せん成長しない。
他力本願で自己中心的、そして思考が停止している。成長しないために生まれてきたのだと、それを威張って自慢げに言うものだから、救いようもない。

それに母親が粗食を好むのに対して、父親は肉添加物ジャンク大好き人間で、食の好みも違う。世の中の捉え方や考え方も違う。
前はそれでもなんとかやっていたけれど、あの世の中の大騒動で、余計に浮き彫りになってしまった感じだ。だから仕方ないのかもしれない。

愛がなくなったわけじゃない。大喧嘩したわけでもない。
でもやはり、限界はあるのかもしれない。
言われているうちが花とよく言うが、その通りなのかもしれない。結局、愛情があって心配だから言うのだろう。面倒くさく鬱陶しいかもしれないけれど、なくなってしまったら、その時にきっと気づくんだろうな。

昔は1度結婚したら添い遂げてほしいなあと思っていたけれど、子供が大きくなったのなら、良いのかもしれない。
それに、この世に変わらないものはないからなあ。


嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「田山花袋」編を読み終わる。


田山花袋の臨終に立ち会った島崎藤村が、花袋の耳元に口をよせて「死んでいくときの気分はどういうものかね」と訊いたという話は、なかば伝説化して世間に流布された。


そうなのか。知らなかった。凄いな島崎藤村。その神経が。客観的な人だったのかなあ。
対して田山花袋は


「だれも知らない暗いとこへ行くのだから、なかなか単純な気持のものじゃない」と答えたという。


答えるんだ。田山花袋もなかなか凄い。冷静だ。

と思ったら、真相は違ったらしい。どこでねじ曲がったのだろうか。面白いなあ。

田山花袋といえば『蒲団』。いつか読みたいと思いつつ、読めていない。
『温泉めぐり』も気になるし、田山花袋は死の観念にとりつかれていたらしく、死をテーマにした小説も多いのだとか。気になる。
いつか読みたいなあ。(いつになることやら)


種まき祭り。
畑に色々な種を蒔いた。春菊に大根(4種類)にルッコラに人参にスイスチャード(3種類)にビーツ。
本当は後半分蒔きたかったけれど、雑草取り収穫土の整えもやって、流石にヘトヘト。バタンキューです。続きは今度だな。


『まあだだよ』、読めば読むほど映画が見たくて仕方ない。見たすぎてジタバタする。
パソコンも新しくなったことだし、DVDデバイスでも買ってしまおうかな。
うーむ、悩む。



ぼんやり外を眺めていたら、何だか空が絵みたいに思えて、思わず撮ってしまった。
幾重にも絵の具を重ねて作った、絵みたい。
たまに空をぼんやり見るのもいいものだなあ。




流石に2冊も省いているから、いつもよりも短くなった。それでも長いけれど…何故。

一応『シェルタリング・スカイ』は今週中に、『まあだだよ』は来週に、「読書記録」にまとめて投稿する(したい)予定。なので、気が向きましたら見に来てください。

ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様に幸福が訪れますよう、願っております。
ではでは。

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