見出し画像

檸檬読書日記 6が始まり、初めは言葉から、終わりは幸田露伴で。 1月1日-1月7日

1月1日(月)

謹賀新年。
2024年が始まったー。今年も細々と頑張ります。



多和田葉子『言葉と歩く日記』を読み始める。

日本語とドイツ語を操る著者が、各地を旅しながら言葉と歩く日々を綴った日記。
1月1日から始まっていたから、折角だから日付に合わせて読んでいくことに。


(略)大晦日が近づくと、ドイツでは「Guten Rutsch!」と挨拶し合うが、これは直訳すれば「良いすべりを!」。うまく次の年にすべり込んでくださいね、という意味(略)


へー。
来年、大晦日が近づいてきたら使ってみようかな。(とか言って、1ヶ月後にはもう忘れてそう)


何をするのにもわたしは言語を羅針盤にして進む方向を決める。言語の中には、わたし個人の脳味噌の中よりもたくさんの知識が保存されている。しかも言語は一つではない。二つの言語が別々の主張をして口論になることもあるが、独り言をぶつぶつ言っているよりも自分の頭の中で二つの言語に対話をしてもらった方が、より広くより密度の高い答えが生まれてくるのではないかと思う。


なんだかこの本を読んでいたら、ある方のnoteのアイコンが浮かんできた。なんか好きそう。



海野弘『366日 絵のなかの部屋をめぐる旅』を読み始める。

「風景画」から始まり去年は「物語絵画」と続き、第3弾の今回は「部屋」にまつわる絵画。


風景画が窓の外側を描いた絵とすれば、室内画は窓の内側を描いた絵である。(略)
部屋というのは、住空間を分けたものだ。住居の起源は洞窟のような1つの穴、一室空間であるか、生活様式が分化してくると、空間も部屋に分けられる。(略)私的な空間に仕切りがつくられる。
私が自分だけの部屋を持つと、自分の内面を投影したインテリアがつくられ、私物が飾られる。部屋が内面を持つようになると、室内画が描かれる。
室内画とは〈居心地〉を描くものではないだろうか。〈居心地〉とは、〈私〉の感覚であり、気分である。


分かったような分からないような感じだけれど、とりあえず今年も毎日1日1枚見ていくのが楽しみだ。



除夜の鐘苦情で中止とは…悲しい時代だなあ。
そもそも住む前から分かってたことだろうに…。話し合いにも応じず言いたことを言うだけ。相当満たされていないんだろうなあ。うーむ。



場所が意味深だ。

自分の無力さを感じる。それでも出来ることをしていかなくては。




1月2日(火)

江國香織『雪だるまの雪子ちゃん』を読む。児童書。

野生動物である雪だるまの雪子ちゃんの、冬の間で起きた出来事と、出会いの日々がえがかれた物語。

ほっこり。緩くて、何が起きる訳でもないけれど、それが穏やかに整えられるようで良かった。
無邪気で前向きな雪子ちゃんがまた魅力的で愛らしく、読み進めて行くうちに虜になっていた。

目当てだった山本容子さんの絵も独特だけれど素敵で、何よりもカバー下の仕掛け(というのかな)が、何も憎らしい。
自分は単行本を持っているけれど、文庫でも出ているらしいが、文庫はどうなのだろう。もしかしたらこの仕掛け、単行本だけかもしれない。

雪に塗れ、冬にピッタリな作品ながらも、読んでいくと次第に温かくなる、ほんのりとした温もりを感じるような素敵な作品だった。



『MONKEY』vol.6を読む。
穂村弘「羊たちの音楽」短歌。


ヘンゼルとグレーテルによる連弾の「魔女はとってもよく燃えるんだ」

リコーダーにはトリカブト塗られてる関節キスを奪われぬよう


音楽のように軽やかな、子供のような残酷な無邪気さが漂う感じが、堪らぬ。




1月3日(水)

毎日蜜柑を5~6個食べているけれど、一向に減らない。とはいえ順調に減らしていってはいたけれど、持ってけ持ってけと言うから、また1箱追加で増えました。おぅ。
でも有難いよなあ、食べるものがあるというのは。感謝です。
それに結構甘くて美味しいから良きだな。蜜柑好きだしな。



綾辻行人『十角館の殺人』を読む。

大学ミステリ研のメンバーが、数年前に事件があったとされる孤島・十角館へ訪れ1週間泊まることに。
学生達は観光気分で訪れたものの、第1の殺人が起き、連続殺人へと発展し…。

流石有名なミステリー作品なだけあって、上手いなあという感じだった。これは確かに騙される。
登場人物のほとんどが有名な海外ミステリー作家の名前を冠している、というのもミソで、本当に上手いなあという感じ。(何回言うんだ)

物語の中では複数の事件が絡み合っていて、基本的に十角館での殺人と、昔の十角館で起きた事件の真相を探るという視点が交互に進んでいく。それがまた混乱に拍車をかけ、複雑にしていく。

終わりは、そうやって終わるのかあというある意味意外性があったが、ドキドキとするミステリー好きなら1度は読んで損は無い作品だろうなと感じた。



柿の木から落ちてからの祖父の衰えが凄い。急激だ。頭も打ってるからなあ。
会話が半分噛み合わない。同じ話がグルグルして、何聞いても結局トイレの話になる。オムツを流す流さないの話だからか、何故か毎回トイレというか流す・流さないの話に落ち着く。

何聞いても、上手く流れないんだとか、使っていると威力がなくなるから流れなくなるんだ、とか。石川の話をしても、トイレが大変だよなぁ流せないから、女の人は特に流さなくちゃいけないからなぁとかとか。
食べ物食べてる時も、こんだけの量食べてるんだからそりゃ流れないよなあ、とか。
もう意味が分からぬ。でもあまりにもそこに行き着くから、寧ろ面白くなってちょっと笑ってしまったよ。

でも、やったことは忘れてたいても、怒られたことだけは覚えているから問題だよなあ。覚えていないから、認めず自分は何も悪くないのにと思っているから大変。困ったものだ。
全部が衰えても、負の感情だけは育つってこういうことなんだろうなあ。
まあでも、怒るのもなあ。




1月4日(木)

少し前に結婚したいとこがいつの間に離婚目前の別居をしているという事実に驚愕。その上、今どうしているのかといえば、一人暮らしをしていて家賃を祖母が払っているらしい。
それを知った父親が、しみじみと自分に「お前ってまともだったんだな」と言ってきたけれど、比べられることではないと思うけどなあ。後、別にまともではない。ちゃんと自覚してますよ。

そもそもまともな人間っているのかなあと、時々思う。まともだったら、そもそも生まれてこないんじゃないかなあなんて、思ったり。




この蕎麦茶良い。
尾張屋というところの蕎麦茶なのだが、結構香ばしくて渋みは多少あれど、さらりとしている。
蕎麦茶結構好きなんだけれど、意外と国産のがなくて、探していたら行き着いた。これは良いぞ。

後、ここの蕎麦も勿論良いのだが、にしん姿煮が最高。しっかりとした甘みがあれど、上品な味わいで、蕎麦と出汁と合わさると、堪らぬ。




1月5日(金)

溜まっていた録画を消費しなくてはと、一気に鑑賞。
アニメ『薬屋のひとりご』を途中まで観たが、何だこれは。一気にハマった。

主人公の猫猫(マオマオ)が、後宮で毒味役となって、後宮でのあれやこれやの事件を調査解決していく話。(ざっくり)

後宮もので有名だから、気になってはいたものの、原作の絵が…と読まずにいたけれど、取り敢えず観てみようかなと録画していた。そして今日観みてみたら、すってんころり。
尚且つ毎回いい所で終わるものだから、次々見てしまう。止まらない止められない恐ろしい。
有名なのも分かる気がする。
毒や薬のことや後宮のことなど、よく調べあげていて、地盤が固く、設定がしっかりしてるから、引き込まれる。
キャラクターたちも良い。恋愛恋愛してなくて、猫猫が素っ気ないのが凄く好み。

まだ10話までしか観れていないけれど、1月も第2クールで引き続きやるみたいだから、これからも楽しみだ。

完全にハマってしまったから、原作の小説集めて読みたいなあ。



もう1つ、こちらはドラマ『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』前編後編を観る。

素晴らしいものを観てしまった。
手話通訳士の荒井尚人が、ある事件が起きたことで、昔の事件とその真実を探っていく、というものなのだが、人間ドラマが濃く、物語としてもミステリーとしても家族ものとしても、あらゆる方面からも興味深い作品だった。

何より、主役を演じる草彅剛さんの演技が素晴らしい。やはり凄い人だったのだなと実感。
穏やかに見えるのに、内に秘めた感情、怒りなんかの表現を感じさせるのが本当に凄い。

そしてメインである手話も、日頃からやっているのではないかと思えるほど違和感がない。ドラマ内でも「あなたの手話とても綺麗ね」と言われてしたが、本当にその通り綺麗。無駄がない感じが、最早芸術的だ。
元々、ファンとかではないものの、SMAPの中では草彅さんが1番良いなと思っていたが、一気に虜になってしまった。他の作品も観てみたいなあ。

いやぁ、本当に観れて良かった。
久しぶりに目と喉が痛くなった。あれはずるい。
特に最後の場面が、頭から離れない。今でも思い出すだけで、押し寄せてくる。

観る前から小説は持っていたから、今度読もう。

今日で随分観れけれど、まだ『東京リベンジャーズ』と『葬送のフリーレン』が観れていない。いやぁ、消費しきるには先が長いなあ。



川上弘美『大好きな本 川上弘美書評集』を読む。


こどもの頃は……、という言葉をときどき聞く。
(略)
こどもの頃は、無邪気だった。
こどもの頃は、純粋だった。
ともかく、こどもの頃は「うつくしい」時代だったらしいのである。
それは、ほんとうなんだろうか?
(略)たいがいの人はそんな「うつくしい」こどもではなかったはずた。
こどもは、いつもなんだかてのひらがべたべたしている。
(略)
こどもは、物欲が深い。
こどもは、身がってである。
こういうこどもが、ほとんどではなかったか。(略)
こどもは、あんまり「うつくしく」はないのである。ほんとうのところは。


何故か幻想のような希望のような妄想を抱きがちだけれど、確かに「うつくしい」ものではない。けれど


こどもは「うつくしく」ない。では、こどもには取り柄がないのか。
そんなことなない。たいがいのこどもは、うつくしくはないけれど、かわりにとても「魅力的」なのである。


確かに確かに。思わず頷いてしまった。自分の中にあった疑問というか首を傾げていたことが、言語化された気がした。すっきり。
美しくはないけれど魅力的、うむうむ。だから子どもが出てくる本って読みたくなる。




1月6日(土)

自転車乗っていたら、前に80代後半くらいのおじいちゃんがいて、同じように自転車を漕いでいるのだけれど、びっくりするくらい遅くてびっくり。
電動でなく普通の自転車だから、余計に凄まじく遅い。
ゆっくりよろよろ。
けれど後ろから車が来ていて追い越せない。おじいちゃんは、よろよろと危ない運転。怖いから早く追い越したい。でもタイミングが悪い。
と思っていたら、漸く後ろからクルマ来なくなって、よしっと追い越そうと右にズレる。そしたらなんとおじいちゃんも一緒に右にズレてきた。勢いよく追い越そうとしたから、急に塞がれて危うく突進するかと思った。危ない。その上車も来るから、自分は慌てて戻ったけど、おじいちゃんはマイペースによろよろそのまま曲がっていった。
危ないなあ。結構ご老人たちは周りを見ないから、本当に危険だよなあ。

そういえばそのおじいちゃん、結構な高齢ながら革ジャンなんか着ていてなんともお洒落で、最初、遅いのに革ジャンかい!と突っ込みたくなった。いやもう総じて面白い。



アーサー・ビナード『日本語ぽこりぽこり』を読む。

アメリカ人の著者が、日本に来て日本語を学んだことで、見えてきた日本や日本語だけではなく自分の国について思う、あれやこれやが収められたエッセイ集。


第三十三代米国大統領のハリー・トールマンは、政策的には評価できるところがほとんどないけれど、それでも痛快な名言を数多く残している。例えば「この世で新しいのは、お前らが知らない歴史だけだ」
要するに今、世界各地で行われていることはみんな過去の二番煎じにすぎないが、過去を見抜いていない連中が、新しい動きだと思い込む、というわけだ。


確かに痛快。


映像技術で人々を欺くことが、だれよりも得意だったヒトラーは、『わが闘争』の中でこう書いている。
「大衆は小さな嘘よりも、大それた嘘にひっかかりやすいものだ」


確かに。
驚くほどにまさかというのにころっといっちゃうよなあ。まあどちらかというと、ひっかかるとか騙されるよりも、大それた嘘は大概人の心理を上手く扱ってるから、信じたいというかそれが真相の方が良いと思わせてひっかかってしまっているような。なんて、思ったり。

この人の考え、なんか良いなあ。客観的な感じが好きだな。
少しずつ読んでこ。



高原英里・編『川端康成異相短篇集』を読む。
「冬の曲」を読み終わる。

短篇集の中で、1番何が何やら分からなかった。分からないから要約も出来ないけれど、取り敢えず相変わらず綺麗だった。

ただ冒頭に、内田百閒と仲良しだった宮城道雄の話が出てきたのは沸いた。タイトルの「冬の曲」も宮城道雄の曲から来ているよう。素敵かな。
それにしても、川端康成は宮城道雄のこと知っていたのかあ。でも確かに好きそう。



これから孤高に生きていこう。頼らない媚びない期待しない。よしっ。
まあ元々あまりしない、というかできない質だったけれど、より一層。それで弾かれたら、まあ仕方ないよなあ。




1月7日(日)

色々見て、やはり備蓄が大事なんだなあと改めて思った。備えあれば憂いなし、備蓄備蓄備蓄!
ある方だけれど、もっと備えておこう。なくては困るけど、あって困ることはなし。
米と水をもう少々、後塩と蜂蜜かな。後、酢と油と…上げるときりないな。



蜜柑と金柑を採って首が痛い。上むきすぎたー。でも金柑をたくさん採れた。ホクホク。金柑蜂蜜煮だ。ホクホク。



岡根谷実里『世界の食卓から社会が見える』を読む。

良かった。とても良かった。かなりの良書。
どの国の話も興味深くて、食べ物の面でも面白いのだが、そこから見える社会史歴史、政治等を知れるのが良かった。
食や世界史が好きな人には刺さるんじゃないかなあ。そうでなくても勿論。

食べ物や食卓から見つめるからこそ見えるものがたくさんあって、それは普段習う歴史からでは見えてこない。
正直、全部興味深くて、どの国のどの情報も面白いものばかりで、全部載せたいくらいだった。でも流石に無理だから、読んでほしいなあ。

ただ、少し上げるとすれば、例えば、インドは宗教によって食べれるものが違うとか。
肉魚など生き物を食べないとは良く聞くが、野菜でも食べてはいけないものがあるのだとか。例えば匂いが強いものは気持ちが高ぶるから食べないとか、多くの種があるものは無数の生命が生じるから食べないとか、ブロッコリーは小さな虫が隠れているかもしれないから食べれないとか、根菜類は微生物等の生命が多くついてるから駄目、とかとか。
それなら何が食べれるのだろうというくらい、厳しい。
ただ今は変化しつつあって、結構緩くはなっているのだとか。

他にも、メキシコのアボカド話でお金に目が眩んだ感じは他の国もあるだろうなと思ったし、キューバのオーガニック政策は本当に素晴らしく画期的だなあと思ったし、フィンランドの教育もとても素敵でやはりフィンランド良いなと思ったし、中国の農薬塗れ過ぎて安心して食べれるものが…など日本の行く末感があったし、パレスチナのオリーブの木の話はじんわりさせられたり…。とかとか、もうたくさんあり過ぎる。本当に読んでほしい。
後、アメリカは本当に怖いなと思った。日本も相当に侵食されているけれど、他の国も…。
まあ、中国も恐ろしいけど。

メインだけではなく、コラムもまた面白く、例へば国によって喜ばれるお土産(お菓子)が違うとか。
特に、日本ならではである餡子ものは、ほとんど喜ばれないらしい。それは、海外では豆というものは塩っぱいものだという概念があるから、甘いのは違和感なのだとか。
日本人感覚で言うなら、ご飯やミートパイ、サラダなどにレーズンとかの甘いものが入るのが違和感と同じ感覚なんだと思う。面白い。
後、インドネシアでは「歌舞伎揚」が喜ばれるのだとか。ほぅ。

いやぁ、本当読んでほしいなあ。(何回言うんだ)



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「幸田露伴」編を読み終わる。

『五重塔』の人ですね。そいうえば読んだことないなあ。
なんとも淋しい人だったよう。小宮豊隆という人も「先生は弟子がいなかったから淋しいのではなく、淋しいから弟子がなかったのではないか」と書いている。うーむ。
ただ「生きていることさえ忘れられかけていた露伴は、死ぬことによって、一気によみがえった」ようで、追悼では称えられている。
けれどやはりと言うべきなのか、どれよりも娘である幸田文の文章が興味深い。


小宮豊隆は「弟子がいなかったことが露伴の淋しさ」と評したけれども、なに、文という凄腕の隠し玉がいたのである。


確かに確かに。

前から幸田文の『父・こんなこと』という本が気になっていたけれど、読みたくなったなあ。他の幸田露伴が登場するエッセイも。




ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様が幸せを感じられますよう、願っております。
ではでは。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?