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檸檬読書日記 雲は音のない音楽で、坂口安吾は残酷に、映画日記は苦難。 4月15日-4月21日

4月15日(月)


ネモフィラが咲いていた。綺麗。

間違えて「アネモネ咲いてる」と言ったら「ネモフィラね」とツッコまれた。
去年も同じ間違いをしているのに…何故覚えられないのだろう。というか毎年同じ間違いをしているような…。いつになったら覚えるんだ自分。



多和田葉子『言葉と歩く日記』を読み終わる。


いつも同じ悪夢にうなされる人は、その夢を映画に見立て、もし自分がシナリオライターならどんな結末を選ぶかを考え、脚本を書くといいらしい。その夢の中で、「今、自分は夢を見ているんだ」と意識する練習をする。そして、また問題の悪夢を見たら(略)自分の書いた脚本の結末を思い出す。そうすれば、いつもの悪夢が悪夢にならず脚本通りに終わる、(略)


なるほど。
自分今度脚本を考えてみようかな。

最後の最後まで良かった。
ドイツ語に接しているからこそ見える日本語の不思議や疑問なんかがとても興味深かく、言葉の奥深さを感じた。

複数の言語に接し、言葉について考えつづける作者の小説は、どういうものなのだろうかととても気になった。
前々から気になっていた作家ではあるものの読んだことがなかったから、この機会に何か読んでみようかな。



米原万里『打ちのめされるようなすごい本』を読む。

リシャット・ムラギルディン『ロシア建築案内』

という本が出てきて、とても気になった。
ただの観光案内本ではなく、歴史や宗教、文学も踏まえたりと、なかなかに読み応えがありそう。気になるー。

この本を読む度思う。読めば読むほど思う。noteのあの人が好きそう。





4月16日(火)

ナスの芽がやっと出てきた…!嬉しい。なかなか出てこなかったから余計に感動。このまま出なかったらどうしようかと思ったよ。良かったぁ。

トマトもぴょこぴょこ出て順調に育ってるし、カボチャも無事に芽が出たし、後は唐辛子だなあ。出るといいなあ。

紫蘇も一応ポットに撒いたけど、全然出ないけど、多分畑に自然と生えてきそう。と、願う。



ヴァンダ・プシブィルスカ『少女ダダの日記 ポーランド一少女の戦争体験』を読み始める。

今度は日付を一緒に追う形ではないけれど、6月に始める『アンネの日記』には間があるから、まずはこれを少しずつ読んでいくことにした。
もう1つの『アンネの日記』と言われているらしい。第二次大戦期に書かれた、ポーランドの少女の日記。


(略)この本は、恐怖と憎悪をよびさますことを目的とはしていない(略)恐怖と憎悪にみちた戦時下の事実、そこに生きた一少女の悲しい生涯をいまわれわれがこうして回想するのも、二度とふたたびその種のことをわれわれがくりかえさぬため、人間どうしの友情を、国民間の親善を大きく育ててゆくためにほかならない。それこそ、日記の筆者、少女ヴァンダの祈りだったのである。平和と人間どうしの友愛こそ、いまなおたえずかき乱されつづけているこの世界において、なによりもだいじなことだと、信じない者はないだろう。

序文・ポーランド作家協会会長のことば


(略)第二次大戦の数知れぬ犠牲者のひとりとして死んでいったこの少女、平和と明るいあすの生活を最後のときまで望み夢みながら、はかなく世を去ったこの少女の悲しい死が、せめてもの捨て石として、生き残ったわれわれのため、反省と教訓のかてとなることを、ひたすらに望むばかりだ。

訳者のことば





4月17日(水)

旅行




4月18日(木)

旅行




4月19日(金)

寝不足が続いて頭がぼんやりする。
けれど時間があるから、この機会にと教えてもらった『Last Days 坂本龍一 最後の日々』を観る。

余命宣告をされ、闘病生活に苦しむ日々。それでも音楽と歩み続けた坂本龍一さんの、亡くなる直前までを追った作品。

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を読んで見たいと思っていた日記も出てきた。
日記なだけに、想像通りの赤裸々な内容、感情が込められていて、これだけでも観れて良かったと思った。
日記の中はやはり音楽のことが殆どで、中でも個人的に良いなと思った言葉は


雲は音のない音楽である。

(もしかしたら多少の誤差はあるかもしれない)


何気ない言葉だけど、自分には凄く心に残った。
音のないものにも、音を聴く。それは音のないものにも、自ら音を生み出すことができるということで、見たことによって自らに響いた感情・感覚の音を聴いて音楽に変えれるということで、本当に音楽・音と共に生きた人なのだなと、やはり凄い人だなあと改めて思った。

音楽を聴くにもエネルギーが必要らしく、体力が弱っていた時、坂本さんは音楽を聴くことができなかったらしい。それでも、音には触れ続けたいと、雨の音を聴き続けたという。
作られたものではなく、自然の中で生まれる音、そこから聞こえる音楽を自分のものにしていたからこそ、坂本さんの音楽は自然で溶け込むようなものだったのかなと思った。(そんなに知らないのに何を知ったようなこと言ってるんだという感じだけど)

最後の最後まで音楽・音と共に生き、音と溶け込むように亡くなっていった。その姿に、何度も感情を揺さぶられた。上手く言葉にできないけれど、観れて知れて良かったと思った。




気分転換に外へふらふらっと出たら、花かんざしが安売りしていて、思わず買ってしまった。これで140円、安い。普段花を買うわけじゃないから基準が分からないけど、これはお買い得なような気がする。

この花好きなんだよなあ。
花弁がカサカサしてて、少し透明な感じが素敵。



最近、コメントに悩む。
積みが酷すぎて、大体1週間くらいの時差ができてきている。
1週間以上も経っているのに、今更コメントしていいものなのかなあと。ぐるぐる色々考えすぎて、文章を考えても上手くまとまらずに先に目がやられて、結局送れない…を繰り返している。

んー、理想は3日だけど、せめて5日…いや4日くらいまで追いつきたいなあ。





4月20日(土)

歯が凄く痛くて、これはまずいと仕方なく歯医者へ直行したら、やはり予約一杯でできないと言われてしまった。
待ってくれればできるかもしれないとも言われたけれど、何分待つかも不明で…
だからあきらめて次の日に予約を入れてもらうことにした。
そしたらびっくり。

「大丈夫ですか?我慢できますか?」

と言われた。何歳に見えていたのだろう。笑いそうになりながらも、あることを思い出した。
ドラマ版・名探偵ポアロシリーズ「物言えぬ証人」の最後、相棒となったボブ(犬)との別れのシーン。

「でもポアロさんの方は大丈夫ですの、ボブなしで。
今回の事件でとても参考になったのでしょう」

新たに飼い主となった老女2人に、そう言われた後、ポアロは神妙な顔で言うのだ。

「やってみます」

自分も「大丈夫ですか?」と言われ、ポアロと同じように「やってみます」と答えたくなった。
でもそんなこと言っても誰も分からないだろうから、結局「はい」とだけ言った。
というくだらない話。

そして無事、明日の予約を入れる。



坂口安吾『夜長姫と耳男』を読む。


「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。(略)」


とても残酷だ。
残酷だけど、美しい。

仏師である耳男と、美しくも残酷なお姫様・夜長姫の話。
耳男は、夜長姫のために護身仏をと頼まれるが、心を乱す夜長姫の無邪気な笑顔を振り払うため、魔神の像を創ることに。
呪いのように幾多の蛇の血を込めるが、夜長姫の恐ろしさの前ではそれも意味を無くし、耳男は夜長姫に惹かれていくばかりだった。
そんなある日、流行り病が蔓延し、人々が次々に倒れていく。

「耳男よ。ごらん!あすこに、ほら!キリキリ舞いをしはじめた人がいてよ。ほら、キリキリ舞っていてよ。お日さまがまぶしいように、お日さまに酔ったよう」

そんな中、夜長姫だけは無邪気で、残酷さと美しさを増していき、耳男は次第に恐ろしさを感じていく。だがその反面、どんどんの夜長姫に囚われ、逃れられなくなっていく。お日さまに酔ったように。
だから耳男は、苦しみながらもあることを決意するのだった。

坂口安吾は、残酷で美しい人が好きだったのだろうか。『桜の森の満開の下』の女性もそうだったけれど、2人共無邪気で美しく、そして残酷だ。
男側も、惹かれるけれど、惹かれてはいけない、あちら側に行ってはいけないと苦悩する。そして逃れようと…結局己もあちら側に進んでいる。惹かれ、1歩踏み出してしまった時点で、後戻りは出来ないということなのだろうか。逃れることなど、結局は不可能なことだった。みたいなね。

凄く残酷で、恐ろしいのだけど、坂口安吾が創る物語は、それに美しさが加わり、その美しさに目がくらみ感覚を狂わされ、自分もまた男達のように、惹かれてしまう。

坂口安吾は大分昔に『堕落論』を読んだきりで、それがまた自分には難しくて避けていたけれど、そんな自分をビンタしたい。
こんな凄い作品を書いていたとは…。
坂口安吾の作品、これから少しずつ読んでいきたいな。





4月21日(日)

予約を入れた歯医者へ。
結局虫歯ではなかった。良かったあ。一安心。


虫歯じゃないから、安心しておやつを食す。

「丸福珈琲」の珈琲プリン。

前も日記で載せたような気もしないでもないけど、これ最高に美味。見つけると必ず買ってしまう。
何より珈琲感が凄くて、匂いも味も濃ゆい。嗅いでも食べても珈琲が押し寄せてくる。
プリンというよりかはムースだけど、なめらかでクリーミー。カラメルは少し苦味があるけど、珈琲との相性抜群。
甘さ控えめで大人向けな1品。至福です。

ちなみにここのは普通のプリンも美味。これもプリンというよりプリン味のムースだけど。そして自分は断然珈琲プリンが好きだけどね。



ヴァンダ・プシブィルスカ『少女ダダの日記 ポーランド一少女の戦争体験』を読む。


(略)幸福はだれにとっても同じものなのではない。お金があれば幸福だという者もあるだろうし、また、自分が美しいということで幸福に感じている者もあるだろう。しかし、わたしはこういったものはすべて幸福ではないと考える。(略)ほんとうの幸福とはなにかもっと大きなもの、美しいもの、いずれにせよ、もっとありがたいものだ。(略)
わたしはいったい幸福かしら?これにもどうもうまく答えることができない。もっと幸福になりたいとはもちろん思う。しかし、祖国を失っていて、どのポーランド人に幸福があろう?もっとも、幸福な者もいるのだろう。ああ、そういう連中も、じつのところ、たくさんいる!しかし、その人たちはほんとうに幸福だろうか!いや、幸福であるはずがない!(略)
なぜなら、そんな幸福はいとわしい幸福で、じつは、不幸にほかならないからだ。まったくのはなし、いまここ、わたしたちのところでは、不幸なめにあっている人たちだけが幸福なのだ。なぜなら、幸福とはけがれのない心だからだ。けれど、そういう美しい心はなんとまあ少ないことだろう。ほうとうに!!


「不幸なめにあっている人たちだけが幸福なのだ。なぜなら、幸福とはけがれのない心だからだ。」

これがまだ12歳だった少女が残した言葉。
幼くとも、真の幸福を知っている。
戦争とは、手を汚すことだ。どんなに正義名目美辞麗句を並べようとも、手を汚すことにはかわりない。手を汚せば、美しさは失われる。失われれば、幸福もまた、失われる。



ジャン・コクトー『美女と野獣 ある映画の日記』を読む。

映画『美女と野獣』の撮影期間に書かれた日記。
あの美しい映像の裏側は、こんなにも困難続きだったのかと見えるのが何より興味深かった。

本当に、驚くほど困難だらけで、よく完成できたなあと思った。
まず、初日から天候不良が続き、なかなか撮れない。その上役者の1人が足を怪我するという事故も発生。そして度重なる停電。
これだけでも相当な障害なのに、その上監督であるジャン・コクトーが重度の体調不良に苛まれる。
凄まじい。幾度も病院に行き来するも一行に治らず、痛みにも襲われ続け、それでも抗うように映画を撮り続ける。
読めば読むほど、よく撮れたなあというか、よく完成できたなあと感嘆させられる。


(略)ぼくは自分を鏡に映す。ひどいものだ。だがぼくはいささかも動じない。容貌はもはや重要ではない。その代わりを、作品とその美がつとめるべきなのだ。ぼくの苦しみと醜悪さで映画を害を与えてしまうことこそ重大な犯罪というもの。本当の鏡は、試写のスクリーンであり、ぼくの夢が持っている相貌を見ることだ。それ以外はどうでもよい。


それほどまでの熱意。障害や困難があろうとも完成させるという強烈なまでの強い想い。それを凄く感じた。

この日記、ジャン・コクトーのこだわりや美意識を踏まえた上で、もう一度観てみたいなあと思った。きっといつか。

本の中には、日記の他に、簡潔にまとめられた映画の内容と、原作であるボーモン夫人の『美女と野獣』も収録されている。だから原作との類似点相違点などもチェックできて、とても有難い1冊。
写真が結構載っているもの振り返れて良い。

小説を書いているだけあって、文章も日記というより小説のようで、痛みに蝕まれ続けているからか、どこか幻想的な美しさもある。出来事まで色々あるものだから、余計に小説のよう。
だから映画を観ていなくても、これだけでも楽しめるのではないかなあと思った。

そういえばこの中に、先週読んだジル・ド・レーのことが少し出ていて驚いた。妙な所で繋がった。
どうやら、ジル・ド・レーを元にされた作品、シャルル・ペロー『青髭』に出てくる「鍵」が、心を試すものとして取り入れられているのだとか。ほう。

いやあ、この横顔、何度見ても美しい。好き。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読み終わる。
「小林秀雄」編を読み終わる。

評論家。
死ぬ寸前まで熱意を持って書き続けていたからか、追悼もまた熱の冷めない熱烈なものだったよう。
だが、絶賛や哀悼ばかりではない。強烈な批判家、芸術において厳しい鑑定家なだけあって、否定的なものも多かったのだとか。


小林秀雄には(略)熱烈な支持者がいるいっぽう極端な反対者がいた。いやむしろ、小林崇拝者のなかに小林批判者が潜在し(略)「小林は小林が殺す」のである。小林に関しては、小林否定の立場からのリレー評価のほうがむしろレベルが高い。否定論のみで小林秀雄論ができあがり、そのほうが、小林秀雄をより深いレベルで理解するというパラドックスが成立する。


批判さえも旨味にしてしまうのか、凄いな。

小林秀雄の文に対して著者はこう書いている。


小林の文体には贅肉をそぎおとした簡明さがあり、論のたてかたには検事が犯人を追いこんでいく殺意がある。錐でついたような細密な論証、その結果の断定的な結論は、続いていくとスパッと気持ちがよく、居合の達人のような斬れ味があり、そのくせ意表をつくレトリックで読む者をケムにまく。


ほう。その斬れ味を体験してみたくなってしまった。思うことがあったり難しそうだと避けていたけど、今度挑戦してみようかな。

それにしても、とうとう読み終わってしまった。
いやぁ、長かった。
でも、著者があとがきに「追悼はナマの感情が出る。」と書いているように、小説や随筆等、普段では見られない1面が見れたりと、凄く満足できる1冊だった。
書く側の心境や感情だけでなく、書かれた側の亡くなった後だからこそ言えるエピソードも、これまた凄く興味深かった。

追悼文に興味があっても、なかなか探せるものではなく…大概特別な追悼号とか、文集に載っているから、なかなか読めない。
だからこうやって1冊にまとめてくれると、本当に有難い。良いところだけをかじって楽しめる。
そして、死にまつわる文豪たちの作品を知れるのも魅力的だった。

本当に、文豪好きにはたまらぬ1冊だった。


さてさて、次はどうしようかな。






今週はもう1つ、旅行の記事を投稿予定。
今3分の1まで出来ているから、おそらく今週中には投稿出来ると思うのだけど…(不安)
どうにか投稿した、い…


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様の幸福が美しいものであり続けますよう、願っております。
ではでは。


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