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檸檬読書日記 美女を読み、野獣を観て、川端康成はふらふら。 4月1日-4月7日

4月1日(月)

4月1日と言えば「四月一日」と書いて「わたぬき」と読む苗字の人がいる。
そのことをCLAMP『xxxHOLiC』という漫画で知った時は驚いたし、何故「わたぬき」と読むのか、そもそもどうやったら「わたぬき」になるのだろうかと不思議だった。

そしたらどうやら、昔は4月1日になるとそれまで着ていた服から綿を抜いていたらしく、そのことから「四月一日」は「わたぬき」と読ませ、それがまた苗字になったのだとか。

月日苗字と言えば「八月一日」と書いて「ほづみ」と読ませる苗字もある。
これもまた、この日には稲の穂先を積んで神に捧げていたことから「八月一日」は「ほづみ」になったのだとか。

ということをこの前『名探偵コナン』で知った。

(エイプリルフールだけど、嘘ではないよ)





4月2日(火)

ででん


「キンプトン」のフルーツケーキを貰った。

フルーツぎっしりで、ふくらましこで膨らましてる訳じゃないから、ずっしり。米粉なのもあって余計に。
バターだからクッキーのような香ばしい風味もあるし、真ん中のマジパンもぬちっとして良い。全体的に甘すぎず、ドライフルーツで甘味を出しているからか優しい味わい。
アーモンドやピスタチオなんかのナッツ類も、フルーツと凄く合って、硬い食感が凄く良いアクセントになっている。
ドライフルーツも、いちじくアプリコットオレンジレーズンクランベリーと、種類が豊富で、どこを食べても少し味や食感が違ってくるから楽しい。

紅茶との相性も抜群。
もう最高に豪華なおやつだった。
個人的フルーツケーキナンバーワンだなと思った。



ボーモン夫人『美女と野獣』を読み終わる。

有名な「美女と野獣」以外にも、童話のような短編がいくつか収録されていて、そのどれも今ではあまりない道徳的な、まさに勧善懲悪の世界が広がっていた。

確か井伏鱒二なんかがこれを否定していたけれど、今となってはこういう勧善懲悪な作品も大切なのではないかなあと思った。
突き刺さるような言葉も多く、こういう風に皆が気づけて変わっていったら、世界は平和になるんだろうなあと。

童話系の話は、今となってはそんなに楽しめないのかなと思って、あまり手を出さないでいたけれど、子供向きだからこその大人としての気づきが多く、これからもう少し広めていきたい分野だなと思った。

この『美女と野獣』は、話自体もどれも読みやすくていいけれど、挿絵も素敵で、海外のレトロ感が漂う感じが凄く良かった。絵からも童話感が楽しめるのではないかと。

通して読むよりも、少しずつ味わって、朝や夜なんかに1日1話読むのに丁度良さそうな作品。



『アルセーニイ・タルコフスキー詩集 白い、白い日』を読む。


ジャスミンの傍らに石。
その下に宝。
小道に父が立っている。
白い、白い日。

咲いているよハコヤナギ、
ケンティフォリア、その向こうには--
うずを巻く薔薇、
アンゼリカ。

僕はあの頃ほど
幸せだったことはない。

僕はあの頃ほど
幸せだったことはない。

そこへ戻ることはできない、
語ることもできない、
どれほどの楽園の庭が
至福に満ちていたかを。


全体的に消失感を感じさせる作品だった。

全てがなくなり、それを思い起こすように、真っ白になってしまったものを、思い出して必死に色をつけていくような、そんな感じがした。
だからか何処か切なく、読み進めるうちに、自分の中で何かがボロボロと落ちていくような、消えていくような感覚を覚えた。

けれど、あらゆるものが失われていく中、自然だけが生命を持ち、自然だけが生き生きと輝いていた。詩の合間に挟まれた自然の写真も、自然の美しさと生命力をより際立たせ、まるで自然だけが生きているような気がした。

詩に妙な迫力があって、読んでいて作者の朗々と話す声が聞こえてくるようだった。過ぎ去った過去を失ってしまったものを語って聞かせてくれているような。

まるで全てを、肉体さえも失った死者が書いたもののような、そういう感覚を覚える、生と死を強く想わせる作品だった。

自分は知らなかったが、この作者は有名な映画監督、アンドレイ・タルコフスキーの父なのだとか。尚且つ、彼の映画の中では、父であるアルセーニイの詩が使われているらしく、詩が使われているその映画が凄く気になった。

『鏡』
『ストーカー』

いつか観てみたいなあ。





4月3日(水)

北村薫「円紫さんと私」シリーズに『太宰治の辞書』という、太宰治のことを書いた本があることを、今まですっかり忘れてたいた。有難くも前回の記事で教えてもらい思い出した。
しかも前橋の図書館と、萩原朔太郎記念館も出てくるのだとか。凄い偶然。

このシリーズ、忘れていたけと凄く好きな作品だったりする。ゆるめな感じも、円紫さんと私の会話も、題材にしてるものも、全部が凄く好み。だからか、好きすぎて勿体なくて、2作だけ読んで止めていた。けれどせっかくだから、この機会に最後まで読んでみようかな。

調べたら『太宰治の辞書』は最後、6作目だった。読めるのは大分先になりそう。けれどそんなに出ていたとは嬉しい驚き。



寺山修司『さみしいときは青青青青青青青 少年少女のための作品集』を読み始める。

寺山修司の「青」に関する、詩、物語やエッセイを集めたもの。


「さよなら」ということばはどんな形をしているか?
ということを真面目に研究していた言語学者がついにその正体の発見に成功した。それはレントゲンで写し出すと、おぼろげながら輪郭がはっきりして、生物のようにのびたりちぢんだりするものだったのである。
「さよなら」は、こんな形をしていた。これは痩せた島のようでもあり、地図にはのっていない、地中海の小さな島のようでもあった。
(略)
彼はそれを壜詰にした。

「さよならの壜詰」


この感覚、凄く好きだなあ。

寺山修司、有名ながらに触れたことがなく今まで来たけれど、何故読んでいなかったのか不思議だ。凄く好み。
勿体ないから少しずつ読んでいこう。





4月4日(木)

坂口安吾『太宰治情死考』を読む。

半分くらいは太宰治以外のこと、食べ物や相撲・囲碁なんかが書かれている。芸道に結びつける余談として。
だからか殆どがへーという感じで、だけど太宰治の自殺、その相手である「スタコラサッちゃん」についての言及は興味深く思った。


太宰のような男であったら、本当に女に惚れゝば、死なずに、生きるであろう。元々、本当に女に惚れるなどゝいうことは、芸道の人には、できないものである。芸道とは、そういう鬼だけの棲むところだ。だから、太宰が女と一しょに死んだなら、女に惚れていなかったと思えば、マチガイない。


個人的に、凄く腑に落ちるものがあった。

4作品、本で言ったらまだ2冊しか読んでなくて知識も薄い(最早ぺらっぺらだ)けど、どうも太宰治が女の人に惚れるイメージがずっと湧かないでいた。
人に好かれたい受け入れてもらいたい愛されたい、それで幸せになりたいとは願いつつ、自分自身は本当には人を愛していないし、愛されてもそれを上手く受け取れていないように見えた。
だからか坂口安吾の言葉は、自分にはストンと落ちるものがあった。
やはり太宰治は、愛情を知らない人であったのだなあと。まあ本当の愛が分かっているなら、そもそも自殺なんかしないと思うけど。
まあ、完全な個人的意見だけど。

いやぁ本当に、太宰治は知れば知るほど複雑な人である。
知れば知るほど、幸せになってほしかったなあと思ってしまう。ちゃんと愛されてるぞと…。



前橋の萩原朔太郎記念館に行った方がいて、より行きたい欲が増している。行きたい。
行き方は調べたから、完璧なんだけど…。やはり時間もお金もかかるけど。
とりあえずいつ行ってもいいように予習だけしておこう。萩原朔太郎の本、何処やったかなあ。
後は周りに何があるか調べておこう。
最初に調べた時ちゃっかり古本屋は調べてないことは分かっているから、後はカフェとか本屋とか。





4月5日(金)

炊いた米の蓋を開けてびっくり、唐辛子が入っていた。
どうやら、虫予防に米の中に入れていたもの(唐辛子)が、洗う時にも炊く時にも気づけずに入ってしまったらしい。何故気づけなかったのかと驚きつつも、逆に凄いなと感動さえ覚えている。

でも、大丈夫だろうか。
結構我が家の唐辛子は辛いのだけど…。辛い米になってないかなあ。
あっでも、今日は麻婆豆腐だから、丁度いいかも。セーフ。(セーフ?)



多和田葉子『言葉と歩く日記』を読む。


母語で得られる情報だけに頼るのは危険だ。外国語を学ぶ理由の一つはそこにあると思う。もし第二次世界大戦中に多くの日本人がアメリカの新聞と日本の新聞を読み比べていたら、戦争はもっと早く終わっていたのではないか。それはアメリカの新聞に書かれていることが正しいという意味ではない。書かれていることがあまりに違うというだけで、自分の頭で考えるしかない、何でも疑ってかかれ、という意味が生まれてくる。そのことが大切なのだと思う。


今も疑ってほしいなあ。



ジャン・コクトー版『美女と野獣』(映画)を観る。

あぁまた素晴らしい作品に出会ってしまった。
一言で言うなら、美しかった。
物質的な、宝石などの煌めく美しさではなく、感覚的な、生み出された美しさがあった。

壁に生えた動く手、目だけが動く銅像、自然に開く扉、幽霊のように揺らめく白いカーテン。

それらの幻想的な光景の数々が、妖しい美しさを醸し出していて、CGがない時代にここまでのものを作り出せるのは本当に凄い。
モノクロだからか、余計な情報がないというのも、いいのかもしれない。本当の美しさだけが浮き出るというか。

ベル演じる役者の方も「美しい」の名に違わず美しく、彼女が着る煌びやかなドレスもまた豪華で、動く度にキラキラと煌めき、ベール(というのかな)の揺らめきもうっとりとさせられた。でもそれは多分、彼女の動作が美しいからなのかもしれないとも思った。

そして美しさだけでなく、「目」もまた面白い。
ある場面で、ベルが目をキョロキョロと探るように動かすシーンがあるのだが、この「目」何処かで見たなと思った。
そこで思い出したのが、黒澤明『羅生門』に出てくる、殺された男の妻役の人(京マチ子さん)。その人と、同じ「目」をしていた。「目」というか、同じ「目の動き」をしていた。と、自分は感じた。
「目の動き」だけでみせていて、語らずとも伝わってくるものがあった。
この場面を見て、フランスも日本も、人を惹きつけるような凄い演技、そこから生まれる美しさというのは、国とか関係ないんだなと思った。まあ当たり前なんだけど。

美しさ・映像だけでなく、内容もなかなか良くて、アニメとは違う魅力がある。
そもそも設定も結構違う。ベルにどうしようもない姉2人と弟1人がいたり、求婚してくる男がいるけど、美男子でありベルも少し気がある。その他にも結構違うところがあるけど、何より違うのが、ベル。ベルが割と野獣に対して酷かったりする。
後、最後も結構違う。

そして大人向けだからか、終始切ない。特に野獣がベルを父親の元に帰らせるために約束を交わす場面が…。2人の気持ちを思うと、切ない。
とはいえ切ないだけでなく、コミカルな場面もあるから、暗くなりすぎないところもあって良い。

ただ、昔ながらなのか、変なところで場面がぷつりぷつりと切れて不自然に変わったり、どうしてそうなったんだという疑問など、違和感は結構満載だったりもする。それでも惹き込まれて、最後まで見入ってしまう魅力があるのだけど。
でも、最初の出演者等の紹介で、黒板に名前を書いては消すなど、演出が古めかしいのは、今となってはなんだか良いなと思った。

野獣は最後に言う。

「愛は人を醜くさせるが、醜い人を美しくもさせる」

まさにその通りの作品だった。


こうなったら、ジャン・コクトー『美女と野獣:ある映画の日記』を読んでみたくなった。






4月6日(土)

菜の花とムスカリ


黄色と紫の組み合わせが1番好きかもしれない。



佐藤雅彦『毎月新聞』を読み終わる。

結構ためになることも多くて、読めて出会えて良かったと思える本だった。
そこに目をつけるのかとか、深堀する分野が斬新で、色々と考えさせられるものもあった。
毎回つくカエルのミニ漫画もなかなかにシュールで面白い。

新たな知識や視点、気づきを教えてくれた。
1つ1つが短いから、毎日少しずつ読むのにピッタリな作品だと思う。

後、著者が「だんご三兄弟」や「ピタゴラスイッチ」を手がけた人だったというのは驚きであり、なんだか懐かしい気持ちになった。



あんみつが食べたい。
鶴屋吉信のさくらあんみつが…。

食べたすぎて作れないかなあとか考えてる。
確か昔、スタバのさくらフラッペ(?)なんかが出た時作れそうと思って、さくらの塩漬けを買って、それがまだあったような…。
それを市販のバニラアイスに入れて混ぜ混ぜするか、寒天に入れて作るか…。んー。
でも白蜜がないなあ。黒蜜だと主張が強すぎてさくらを消してしまいそうだし…それなら、アガベシロップを使えば…んーー。

とかなんとか考えすぎて、食べてないけど少し満足し始めてきてはいる。と、思い込もうとしている。





4月7日(日)

南瓜の種植え植え。
去年たくさんできたやつの種だけど、出るかな。上手く育って、たくさん実らせてくれー。
南瓜はもう1つ、栗南瓜なるものも種を買って植えてみた。そちらさんもどうな上手く育ってください。

後は自家製唐辛子の種もバラバラ。去年はあんまりだったから、今年は上手く育つと良いなあ。
そして人参の種もパラパラ。カラフル人参と、パープル人参と、ミニ人参。人参だらけ。

少し前に植えた自家製種の人参は、ぴょこぴょこ芽が出てきていた。嬉しい。そのままスクスク育っておくれ。



小手鞠るい『川滝少年のスケッチブック』を読む。児童書。

著者の父が実際に書き残した絵日記をそのままに、読みやすいよう創作部分を少し加えて1冊にした作品。
体験した戦争のこと、そしてその前後の暮らしなどが描かれている。


ぼくたちの生活や日常は、いつ、おそろしい戦いに巻きこまれてしまうのか、だれにもわからない。
しかも(略)それは「知らされない」まま「知りようもない」まま、そうなっていくのだ。
(略)
戦争とは、忍び寄ってくるものなのかもしれない。足音もなく。
足音が聞こえるくらいまで近づいてきたときはもう、止めることも、あと戻りすることも、できなくなっているのかもしれない。
戦争って、こわい。
本当の敵は、目に見えないところにひそんでいる。


けれど戦争の恐ろしさは、それたけではない。


人間とは、なんにでも慣れる生き物なのだと知った。
戦争が恐ろしいものではなくて、戦争に慣れることのできる人間こそ恐ろしい存在なのかもしれない。


実際に体験し、その中を生き抜いてきた人の言葉だからこそ、感情を強く揺さぶられ、伝わってくるものがあった。どれほど戦争が恐ろしいか、過酷で苦しく、人を狂わせ、そしてどれほど戦争が意味の無いものなのかが。


この戦争は、なんだったんだろう。
この長い長い戦争は。
僕らは、なんのために、戦ってきたんだろう。
ひたすら、むなしい。
だが、むなしいだけでもない。
馬鹿馬鹿しい。
いや、それだけではない。
滑稽だ。


改めて、知らなくてはいけないと思った。戦争の恐ろしさを、戦争の愚かさを、戦争で得るものはなにもないのだと。そして、戦争でいつも苦しませられるのは、国民であると。だからこそ声を上げなくてはいけないと思った。こんなことを繰り返さないために。

著者も、最後にこう書いている。


もしも、日本がふたたび戦争を始めようとしたなら、みなさんは「ぼくは、わたしは、戦争へは行きたくありません。武器を手にして、戦争でだれかを殺したり、殺されたりしたくありません」と、声を上げてください。
大人たちが起こそうとしている戦争を、あなたの力で止めてください。
(略)
日本は本当に、平和国家ですか。
友だちや家族や先生と、戦争と平和について、話し合ってください。
そして、自分の意見を主張してください。
戦争は絶対にいやです、と。
声をあげることがたいせつです。


日本がいつまでも日本でいてほしい。
そのために大事なのは、自覚なんじゃないかなあと思う。
何故か新聞やテレビなどでは「終戦記念日」と言ったり書くけれど、本当は「敗戦記念日」であり、日本は負けたのだ。だから日本は今でもアメリカの言いなりで、だから何があるか分からない。そして何かあれば、上は保身のために易々と差し出すだろう。全てを。
だからこそ目を背けないでほしいと思う。昔のことだけでなく、今にも繋がることだから、知って考えてほしいし、声を上げて行動してほしいなと。そう、願わずにいられない。

この本は、当時を知るのにとてもいい作品だと思う。何よりも絵があるから分かりやすく、漫画のようにも読めるから入ってきやすい。最初の1歩としては、とても良いのではないかと。
子どもだけでなく、大人にも手に取ってほしい、そして考えるきっかけになってくれたらなあと思った。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「川端康成」編を読み終わる。

とうとう来ました川端さん。『雪国』で有名だけど、読んだことはなくて、周りばかりを読んでいる川端さん。

正直、自殺で亡くなっていたのは衝撃だった。
川端康成は睡眠薬を常用していたようで、その作用で自殺してしまったのではないかというのが、妙に説得力があるなと思った。
そう考えると、少し前に読んだ川端の短編随筆『眠り薬』の話が、違う意味をもって見えてくる。眠り薬を飲んで、意識なくふらふらしていたことが…。
亡くなった時も、そうだったのだろうか。死ぬつもりはなかったのに…現実なのか夢なのか分からなくなって、ふわふわと…ふらふらと…。

追悼は両極端だ。
薬の効果で死んでしまった自殺ではないというものと、あらゆる理由(失恋とか)から自殺したという説で分かれていた。
ただ、真実は分からない。


(略)自らを過剰に演出して死んだ三島の死に対して、何の説明もない無気味で静謐な死は、川端の心の深淵から発せられた最後の暗示のように思われる。





ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様の周りが愛情で溢れ満たされますよう、願っております。
ではでは。

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