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【実話】日本最古の英和辞典『諳厄利亜語林大成』が誕生するキッカケはテロ事件だった話

『諳厄利亜語林大成』はアンゲリアごりんたいせいと読み、1814年、日本に初めて登場した、日本最古の英和辞典です。


こんにちは、ゆうです。今日はこの英和辞典が誕生するまでの血がにじむような過程を記事にしてみました。「血がにじむような」と書きましたが、これは単なる比喩表現ではなく、辞書の完成の裏側には流血沙汰が本当にありました。


とてもシンプルにその事件を要約すれば下のようになります。

「英語ができない日本人相手ならテロ事件起こしてもいいでしょ」ということで、イギリス船が長崎沿岸で人質立てこもり事件を起こした。日本側はオランダ語で交渉を頑張ったが、英語じゃなかったので必死の訴えも鼻で笑われ、最終的に英国船に逃げられるわの始末で、対応に当たった奉行所の人は生き恥を晒すのに耐えきれず切腹した。


歴史的にはフェートン号事件として知られている屈辱的一大事です。

フェートン号事件が起きたのが1808年(文化5年)で、『諳厄利亜語林大成』が完成されたのが1814年(文化11年)ですから、日本初の英和辞典の完成はこの事件から6年後という計算になります。オリンピックでメダルを逃したら4年間悔し涙を流しながらトレーニングに励む選手の姿はよくドキュメンタリになっていますが、その悔しさの何倍も凌駕する重さを感じながら、当時の語学の天才たちは辞書を編纂していたに違いありません。

この記事を書いているのが2021年で、最古の英和辞典が誕生してから200年が経ったことになりますが、当時の人は200年後の本屋に掃いて捨てるほどの量の辞書が並んでいることを想像できたでしょうか?スマホを片手に辞書アプリを30秒ですっぽりダウンロードできる未来を想像したでしょうか?


もし、血の悔し涙を流しながら辞書を編纂していた当時の人が、未来の日本に行って我々が何気なく使っている辞書やら辞書アプリを、自分の命と引き換えにフェートン号事件の頃の日本に持っていけるとしたら、命の1つや2つ喜んで差し出していたことでしょう。


そのくらい、私達が普段使っている辞書とか英語学習書というものには重みがあると言えます。


さて、前置きはこのくらいにしておき、『諳厄利亜語林大成』が完成するまでを見ていきましょう。



1.昔の日本はオランダ語を通して英語を学んでいた

江戸時代、幕府の鎖国政策で貿易が許されていたのはオランダただ1国でオランダ船が入港できるのは長崎港だけでした。他の国の船はキリスト教が国内に入ってくるのを防ぐのを理由に禁じられていたので、当時日本で多少なりとも学ばれていた西洋語と言えばオランダ語だけでした。そして、そのオランダ船が唯一寄港できるのが長崎だったので、長崎が外国語学習の一大拠点でした。

そんな長崎で、通訳兼貿易官として勤めていた人のことをオランダ通詞(つうじ)と呼ぶのですが、諳厄利亜語林大成を作ったのは彼らだったのです。英語のプロではなく、英語とはかなりかけ離れたオランダ語の専門家が、無理やり英語学習に転身を命じられて作った書物が日本最初の英和辞典だったのです。

日本語を介して英語を学ぶのですら大変なのに、オランダ語という非漢字圏の外国語を介し、オランダ語ー英語対訳の本を使って、文法構造が未知の英語を解明していたのです。

想像に絶する苦難だと思いますが、想像力を豊かにして現代風に置き換えてみると、

スペイン語は何もわからないけど英語がTOEIC850点くらいの英語上級者が、スペイン語で書かれているアラビア語の文法書でアラビア語を学ぶような感じでしょうか。

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物流も今と比べたら圧倒的に少ない1800年代の日本に、オランダ語ー英語の書物が何冊有ったのか?有ったとしても専門書など、日常語からかけ離れた文体の本だったのだろう。出版技術が無いから謎の言語を筆で手書きで写して仲間内で回して勉強していたのだろう。と想像すると、先人たちの努力に頭が下がるばかりです...


2.初代辞書のきっかけになったフェートン号事件をもう少し詳しく

1808年8月15日午前7時ごろ、長崎港に異国船一隻が近づいてくるのが見えました。当時入港しようとする船には「旗合わせ」というお約束事項が課されており、船側のオランダ国旗と、長崎が保有するオランダ国旗を比べ合うことで、その船は確かにオランダ船であるという証明を経て初めて入稿を許されていました。例えたら、船上で行う割符のような慣習です。


沖合でオランダ国旗を掲げている異国船は実はオランダ船のふりをしているイギリス船だったのです。長崎奉行所の日本人2名、長崎商館のオランダ人2名を含めた4名はそんなことは露知らず旗合わせの為に洋上に出向いてしまいます。


結果何が起きたかというと、異国船の船員が自然なオランダ語で話しかけて日本側を油断させるやいなや、突然剣を抜き、オランダ人を拉致してしまったのです。


奉行所の日本人2名は岸に戻ってきてオランダ人拉致のことを上司に伝えると、激怒した上司は2名に対してこう言います。

「異国船に乗り込んでオランダ人2名を奪還してくるまでは帰ってくるな!」


厳しい言葉ですが、これは現代風に言えば人質を取って飛行機に立てこもったテロ事件なので、そのくらいの厳しさは当然だったのかもしれません。陸の方では藩兵を招集して万が一の為に備えたりと緊張の走った一日となりました。翌朝、昨日の失態を取り戻そうとその2名は単身で異国船に向かって小舟で漕ぎ出しました。

英国戦の周りの小舟でぐるぐる回りながら、つたないオランダ語で「オランダ人を返してください」と泣きながら嘆願しましたが、船の上のイギリス人はただそれを見て冷笑しているだけでした。


失態を取り返そうと決死の覚悟で単身で乗り込んで、持てる全てのオランダ語力で表現した結果、鼻先で笑われただけだったので、その時の屈辱は大変なものだったのだろうと推察します。


正午を過ぎて、オランダ人の1人が手紙を持たされて船から開放されました。手紙は以下の通り脅迫状でした。

・釈放したオランダ人に水と食料をもたせて本日中に帰艦させること
・要求に応じない場合もう1人のオランダ人を殺害する
・そして長崎港の船という船を焼き払う

人質は取られるわ、物資は要求されるわ、脅迫をされるわで、名誉を第一とするサムライたちの面子は丸つぶれです。


とりあえず物資の半分をその日に渡し人質のオランダ人は2人とも同日返してもらえました。


そして、残りの半分を翌日渡すということにして、英国艦に斬り込む夜襲の準備をしていたところ、危険を察知した英国艦にまんまと逃げられてしまいました。


武士の責任のとり方は切腹です。
・英語ができなかった。
・そのためにナメられた。
・好き放題やらせてしまった。

奉行所の上司は翌日切腹しました。

このことがきっかけで、長崎の通詞たちに英語を取得することが命じられることになったというわけです。


3.日本初の英和辞典『諳厄利亜語林大成』

英語の習得には文法書や辞書の存在が欠かせません。フェートン号事件を受けて、まだ英語の学習書を持たぬ日本は、英語の学習書を作ることを急務としました。

その結果、フェートン号事件の3年後である1811年に、『諳厄利亜興学小筌(アンゲリアこうがくしょうせん)』という、ミニ単語集・ミニ例文集・ミニ文法集が1つになった教科書が誕生しました。アンゲリアというのはイギリスのことをラテン語表記したANGLIAから来ています。

中学校の英語の教科書の巻末資料にミニ辞書が付いていた記憶がある人は多いと思いますが、ミニ辞書だけでは中学英語の学習すらおぼつかないですよね。それと同じような要領で、『諳厄利亜興学小筌(アンゲリアこうがくしょうせん)』を目にした当時の日本人は、ちゃんとした辞書がほしいと思いました。

その3年後、やっと日本初の英和辞典となる『諳厄利亜語林大成(アンゲリアごりんたいせい)』がオランダ語の通詞の手によって完成されました。収録語数は6000単語です。日本語と英語が1対1になっている構成で、オランダ語なまりの発音がカタカナで各単語の横に書かれています。3年かけて作った渾身の英和辞典も現代の難関大学受験の単語帳1冊分にも満たない厚さだということを考えると、単語帳のありがたみというか、重みを感じますよね。

ちなみに、諳厄利亜語林大成(アンゲリアごりんたいせい)はオンラインで公開されているので、英語を学んでいる人は是非一度先人たちの血のにじむような努力の結晶を御覧ください。

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おわりに

普段何気なく使っている辞書の第一号は血のにじむような努力の結晶だったというお話でした。当たり前のように教材が量産されているこの時代があるのは、第一号を作った先人たちのお陰です。今日みたいに英語を学ぶ環境が整っているのは凄くありがたいことなんだと思わされますよね。私達は常に昔の人が成し遂げられなかった思いの延長線上で生かされている。そういう感謝の心が語学の学習に大事だと私は思います。


本記事が皆さんの糧になったことを祈って、


それでは次の記事でお会いしましょう!


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辞書繋がりで3つ関連記事を置いておきますね。

1.辞書が好きだったから全部読んでみたという話。

2.辞書を「引く」のではなく「読む」ための入門

削除済み。いつか復活予定。

3.辞書を読破するための3原則

削除済み。いつか復活予定。


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