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「社長なのに、英語ができないの?」と見下す人々。英語は人を見下すツールではありません。

弱者は強者を妬みというモノサシで測る。
そして、安心する。
頼む、語学をそんなモノサシにしないでくれ。

こんにちは、語学の裏設定のゆうです。今日は、語学を人を測るモノサシに使わなでください、という話をしていきます。

ただ、道徳的な内容ではありません。
むしろ、心理学的な内容です。


この記事を書こうと思ったキッカケは、

先週行ったミートアップ (いわゆる国際交流サークル)での会話で、英語が堪能な人が

「日本の会社の社長さんって、英語すらできなくて、もう将来無いよね。ウチの会社もそうだから転職するわ。」


と漏らしていたのを聞いたからです。
今、巷では「英語くらい出来ないと」風潮が強まっていますが


将来が無いのは果たして、社長の方なのでしょうか?


どうも私には、その英語が堪能な方のほうが将来が無さそうに見えてしまうわけです。

弱者が強者を妬む感情を、英語を隠れ蓑にして表現しているのに過ぎないようにしか見えないのです。

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1.社長は別に英語を知らなくても良い

ビジネスの世界において、今や海外の会社と取引をすることは当たり前になりました。

だからといって、
社長自らが英語・あるいは諸外国語を知っている必要があるのでしょうか?

もちろん、外国語を扱えないよりかは扱えたほうが良いことに越したことはありませんが、必須では無いと思うのです。

「社長なのだから英語くらい知っておいたほうが良い」と主張する人は、

「英語は相手を理解するために必要で、社のトップが英語を知らないと取引先と深い関係を作ることができない」

と申し立てることでしょう。

しかし私は思うのです。


言葉の理解によって、相手を理解するのではなく、
相手の思考の理解によって、真に相手を理解できたと言えるのではないか。
そしてその思考は相手の文化土壌から来ています。

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言語は、文化土壌を投影させた虚像に過ぎませんから、真に相手を理解せんと望む者であるならば、
教養として相手の文化を知り尽くしていることのほうが遥かに重要になってくるわけです。

上辺の英語の理解はその次です。


だから社長に優先的に求められる素質は、語学力ではなく、相手の文化の理解であると思うわけです。

相手の国の文化、及びそれを拠り所にして形成された取引先の企業文化、取り扱っている商品の市場文化を、社長は深く理解し、語学が堪能な社員に一切を任せたら基本的にビジネスはうまく回るはずです。

このような視点に立って考えると、
社長の本務は語学の習得ではなく
自社の哲学・希望を、相手の文化のモノサシに単位変換して、
取引を円滑に進めるように自社社員に指示を出すことであると言えます。

言い換えたら、社長には自社のモノサシと、他者のモノサシを熟知することが第一に求められるわけです。

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そのような事情ですから、「社長だから英語くらいできないと」と言う主張はお門違いだと思うのです。社長は社長で自分の本務をこなしているわけですから。


ちなみに、社長自らが語学を志そうという場合、
文化を無視して上辺の語学力の研磨だけに傾倒しようものなら、一笑に付すことになります。

だから、社長の語学学習には、一般社員の語学学習とは重みが比べ物にならないくらいあるはずです。


それでもなお、

「いや、社長なのだから英語くらい話せるようになってください。全社員の語学学習のやる気に響きます!」

という主張を立てる人がいたとすると、

「社長からモチベーションをもらわないと、わたし頑張れないんですっ!」

という子供じみた主張をしていることになりませんか。

動機づけを外部に求める。

そのような社員が、
いつまでたっても一般社員であり続けるのも、もはや当然だと言わなくてはなりません。



2.語学力が高い人に見られる、僻み

勉強に勉強を重ね、高度な外国語運用能力を身に着けた人に、

自分が得意な語学をモノサシにして人を測る

という傾向が強く見られます。

冒頭で登場した

「日本の会社の社長さんって、英語すらできなくて、もう将来無いよね。ウチの会社もそうだから転職するわ」

という主張は、この格好の例です。

そうしてしまう行動原理は至ってシンプルで、

格上の相手に対して、
自己を正当化し、
幸福感を確保したいから。

そもそも、
社長の年収と、語学が堪能な社員の年収の間には、とてつもなく大きな開きがあります。

貨幣社会の現代において、年収の高低で人の優劣を測ることは、息を吸うように普通になってしまいました。

いくら社員の語学が堪能であっても、社長ほど稼げませんから、この埋められない格差に対する劣等感をどうにかして消したいと一般社員は考えるようになります。

そこで、
語学が得意な社員は、
社長より(唯一)抜きん出ている「語学」という尺度を持ち出して、

「なんだ、俺のほうが優れているぜ、へへへ。」

と優越感に浸り、感じている格差をなくそうとするわけです。

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とても残念です。
格差の感じ方度合いは減るかもしれませんが、そこに存在してる格差は1ミリも消えていないのに...

(他にも、このような感情安定を図った、感情的自慰行為に「やりがい」があるのですが、ここでは割愛します。)


日本のサラリーマンが「企業戦士」などと揶揄されているようですから、軍隊に置き換えて考えてみても、不自然さは明らかです。

なぜ、会社の司令官の能力を、一兵卒の能力というモノサシによって測るのか?

司令官に求められるのは作戦能力であって、正確な射撃能力でないことは明らかです。

おまけですが、

「司令官の射撃が下手くそなので、私は射撃の練習に身が入りません!」

という輩は、即除隊で良いと思います。

それぞれの本分をよく理解し、精進することで、良い組織が作られる。
これは会社でも軍隊でも同じだと思います。
それが組織という形態をとるものならば。


まとめ

自分の長所をモノサシにして格上の人を見下している人には、成長は訪れないと思います。

語学が得意な人は、この罠に陥っていないかによくよく注意し、初学者の方々は語学でカッコ悪くならないように、今日の話を心のどこかに留めておいてください。

それでは、楽しい語学ライフを!


1言語1人格。語学だけで終わらない語学の学習を始めとして、留学・海外生活について投稿しています。フォローしていただくと、語学の勉強が楽しくなります。