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#409 「知っていること」自体にたいして価値はない、かも。

先日、久しぶりにサッカーをやりました。フルコートで。試合。己の体力の衰えの自覚とともに、思ったことを、メモ。


1、フットサルだと思ったら…

学生時代までサッカーをやっていました。キャプつば(キャプテン翼)世代です。
社会人になってからもちょいちょい仲間で集まってフットサルをやっていました。
が、ここ数年は全く。ボールに触ることもなく…

で、久しぶりに声かけてもらったのでノコノコ出かけて行ったら、なんと、フルコート!え?フットサルじゃないの??

いざグラウンドへ。相手ゴールが遠すぎて笑える…
案の定へなへな、です。
走れないし、蹴れないし…

イメージはあるのです。あ、いまあそこにいるべき、という。でも、体がついていかない。イメージとのギャップが、まぁ、すごい…

やっとの思いでパスを受けると、次はあそこにこういう球を出すべし、というイメージもあります。ドンピシャ、のここしかない!というイメージ。
でも、足がついていかない。そもそもきちんと踏ん張れもしない…
結果、出る球はへなへな…
いともたやすく相手選手に取られます…

挙句、15分も走り回っていたら、足がガクガク…

交代させて〜〜


2、「分かっている」と「できる」のとんでもない差…

実は、毎週末には10km走っていたりするので、ちょっと自信がありました。
動けるんじゃないか、という。

でも、同じペースで走り続けるのと、ストップ&ゴーを繰り返すサッカーの動きとではあまりに違います。

そして、ボールを蹴る

むかーしはやっていましたし、できていました。

でも、当然ですが、昔は昔、今は今練習していないものをいきなりはできないものです。

いくら「イメージ」という頭の中でできていたとしても、体がついてこなければ、「できる」にはなりません。

いくら「分かっているんだ!」と叫んだところで、「できる」にはなりません。

何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、これは、スポーツだから実感できたことで、そうでなければ、意外と気づかずにいることかもしれない、と帰り道、考えました。


3、まとめ

久しぶりにサッカーやったらへなへなでした、という話でした。

仕事も含めスポーツ以外(体を使わないこと)で、この「へなへな」感を痛烈に実感することって少ない気がします。

今は、情報が溢れています。普通の人(定義はちょっと難しいですが…)でも、「知っていること」といったら、20年前、30年前の普通の人の数倍はあるのではないでしょうか?
もっと言えば、検索さえすればすぐに「知っている」状態にできることまで含めれば、数百、数千倍、かもしれません。

では、「できること」が数倍、あるいは数千倍になったか、と言われるとどうでしょう?

さらに言えば、その「知っている」は「(検索して)読んだだけ」で得たものです。それにもかかわらず、「知っている」としてしまうと、それ以上の情報を「あぁ、知っている、アレでしょ」で終わらしてしまうことになっていないか、ということです。

なんか、堂々巡りみたいな話で恐縮ですが、このことが、自分も含めて、「(やる前から)できない理由を理路整然と並べる」背景にある気がするのです。

練習などによって「できる」までに必要な努力は昔と今とではさほど変わらないでしょう。
一方で、「知っている」状態までに至るのに必要な努力は、昔に比べ飛躍的に少なくて済むようになっています。
この違いが、もともとあった両者の差を、さらに大きなものにしている、にもかかわらず、「知っている」で満足してしまう

もしそうだとしたら、「知っている症候群」にはよほど気をつけないといけない、と筋肉痛とともに実感している、今日この頃です。


最後までお読みいただきありがとうございます。

個人的な経験による妄想ですが、どこか参考になることがあれば嬉しいです。


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