マガジンのカバー画像

連載小説・海のなか

53
とある夏の日、少女は海の底にて美しい少年と出会う。愛と執着の境目を描く群像劇。
運営しているクリエイター

#文学

小説・海のなか(44)

小説・海のなか(44)

次の日も、その次の日も夕凪は俺を待っていた。俺はその姿を見るたび、何か責められているように感じた。そしてようやく気がついた。夕凪がいなかったあの日、自分が傷ついていたということに。そして傷を持て余し、憤っていたということに。 
 俺は夕凪を赦したかった。もともと怒るのは得意ではない。そういえば今までまともに怒ったことがない。自身の怒りにすら遅れて気がつくのだから、当然うまい怒り方もわからなければ、

もっとみる
小説・「海のなか」(38)

小説・「海のなか」(38)



***


 夕凪は零れる涙を止めることができないのか、微かに体を震わせていた。けれどそのうち諦めて、流れてゆく涙をも食うように無言で食べ始めた。俺はといえば、どうすればいいのかもわからず、気がつけばつられるように食べ終えていた。味はしなかった。というよりも、覚えていない。そんなものよりも夕凪の涙の方がずっと衝撃だった。あんなに感情のない涙を、初めて目の当たりにした。なぜなら彼女は理解し

もっとみる
小説・「海のなか」(37)

小説・「海のなか」(37)

「ありがとう…」
こぼすように呟くと、夕凪は暗がりの中じっとこちらを見つめていた。
 「なんか変?」
 戸惑って俺は半笑いになってしまう。すると、夕凪ははっとして
「いや、本当に来てくれると思ってなくて」
 と言った。どうやらお互いに相手がいるか不安に思っていたらしい。そう考えたら、どことなく嬉しくなってしまった。
 「夕凪でもそんなこと考えるんだな」 
 「え?」
 「だって周りなんか気にしない

もっとみる
小説・海のなか(36)

小説・海のなか(36)

※今回は海のなか(35)と(36)は連続更新になります。近日中に(37)も更新予定。

***

 無理に走り出したせいで、走り方はまだどこかぎこちなかった。さっきまでのあまりにも自分らしくない強引なやりとりに、いまだ浮き足立っている。きっと俺の演技はバレてしまっているだろう。
 羞恥に顔を熱くしながら、俺は全速力で帰路についた。今日の夕凪を思い起こすと熱っているはずの体がスッと冷めていくような恐

もっとみる
小説・海のなか(35)

小説・海のなか(35)

***

 見つかってしまった、と思った。
 今だけは誰にも会いたくなかったのに。けれど、よく考えてみれば会わないはずがないのだ。陵の家はこの神社を抜けてすぐだった。そんなことすら頭から抜けてしまうほど考えに没頭してしまっていたらしい。気まずさに顔を上げることができず、足元に視線を彷徨わせていると、彼の手に握られているそれが自然と目に入ってきた。その両手には焦茶の通学鞄とビニール袋がある。きっと彼

もっとみる
小説・海のなか(34)

小説・海のなか(34)

***

もう何度目かの物思いから回復すると、あたりは薄暮だった。つい先程までははっきりと見てとれた物の輪郭が一気に崩れ薄闇へ溶けようとしている。一瞬、自分の視力ががくんと落ちたかのような錯覚に襲われた。刻一刻と世界は曖昧さの度合いを強めていく。ふと、このまま盲目になってしまえたら、と思った。知らないということがどれほど幸福なことなのか、見えていないということがどれほど幸福なことなのか、わたしには

もっとみる
小説・海のなか(11)

小説・海のなか(11)

***

 外に踏み出すと、すでに薄暮が降りていた。あれが最後の夕日だったらしい。と、殊更に赤く染まっていた夕凪の頬が頭を過ぎる。違和感を覚えて掌を上に向けてみると、僅かに濡れる。霧のような雨が音もなく降っていた。思わず顔をしかめた。雨に濡れるのは好きではない。眼鏡をかけている身としては尚更だ。
 舌打ちでもしたい気分で走り出した。何かの報いを受けたような気がした。夕凪の家からそう遠くない距離に我

もっとみる