僕の親と子 勉強すること

今週は何かと忙しく過ごした。
というか、忙しく過ごしてしまった。

三連休は実家に帰り、母方の祖父母に会ったり、
漫画家の山田玲司先生の個展に行ったりした。
この三連休も色々あったが、とにかく疲れた。

大して珍しくもない、俗人的で個人的で矮小な悩みだが、
そうと分かっていても、動くほど絡まり、重く自らを縛る。
親子や、家族の関係というのは、そういうモノなのだろう。

感情的に酷く疲れた上に、犬も食わない下らない話だ。
それでも僕自身が、僕自身の親達と相対したという事実と、
その行動の過程と結果は、知識では得られない経験だった。

より正確に言うなら、知識として学び、想像はできても、
事実、自らに生じなければ、意味を成さない事だったのだ。

人間関係においては、往々にしてそういう事がある。
特に、自らの人生で、交換不可能な人間に対しては。

要するに親や祖父母、兄弟、あるいは親戚も含む関係。
彼や彼女らとは、血縁という回避不能の繋がりによって、
どうしようもなく交換不可能な人間として繋がりを持つ。

その繫がりは、良くも悪しくも、切れない強い繫がりで、
どうしようもなく個人的だからこそ、知識では抗えない。

知識は、複雑に絡んだそれを解きほぐす力を持っている。
それに深く織り込まれた、時代や、思想や、歴史を学び、
相手の人生そのものやその感情を、想像する事はできる。

しかし、それを明らかにすることは、解決には繋がらない。
むしろ往々にして相手の人生を、人格を否定する事になる。
(そういう意味では、親は子の行いを決して理解しない。)

普通ならこの対立で、関係は終焉へと向かうことになるが、
皮肉にも血縁だけが、この対立する両者を強く繋ぎ留める。
(両親同士は血縁を持たないということは別の頭痛の種だ)

人間の自立とは、親の規範の否定であり、逸脱である。
それが世代間の格差であり、時代の潮流となる。
子供は大人へと成長し、子を育てる親となる。
この過程が父殺し、神殺しのテーマだろう。

昔働いていたバーのマスターは、悩む僕にこう言った。

「親を踏み台にしていいのは子供だけの特権なのよ。
 それで子供が成長する方が親は喜ぶのよ。親孝行よ。」

(彼というか彼女?は京都でも伝説的な同性愛者だった。)

僕は当時、マスターの言うことが全く理解できなかった。
親は、僕を育てた絶対者で、僕は行動を制限し否定された。
今でも内実はそんなに変わっていない。三連休でわかった。
でも認知の仕方が変わった。それは大きな収穫だった。

その認知の変化は、祖父母との関係や時代の価値観を含め、
ただの人として、相対し、言葉を交わしたことで得た収穫だ。

結局、親もただの人だった。(当たり前だ)
そして、僕の場合は、親は大人ではなかった。
悲しくもあるが、事実として子供であったのだ。

もちろん、社会でよく働き、子を育てたという意味で、
僕の両親は誰がどう見ても年を食ったいい大人だろう。

しかし、本質的には良い子供(であろうとする)人だった。

僕は昔から、彼や彼女の機嫌を損ねないようにしていたし、
今でも家に帰れば機嫌を取らなければならなくなる。
三連休で判ったことは、距離感の重要性だった。

彼や彼女は、親や世代の規範に、今でも半ば縛られている。
僕はそこで、愛と憎しみを、祝福と呪いを受けて育った。
こんな事は、今どき珍しい話でもないと自覚している。

だから少し触れるくらいのつもりが、長々と書いてしまった。もしかしたら、整理して書き残したかったのかもしれない。
本当はキャンプに行った日記を書くつもりだったんだけど。

この際、実感として良くわかったことを最後に纏めておく。

僕はどうも、愛よりも憎しみに、祝福より呪いに敏感らしい。
それはきっと、そういうものを敏感に察知して育ったからだ。

だから、良いことよりも悪いことばかり強く印象に残る。
恐れながら、きっとカフカもそんな人だったのだろうと思う。
昔の僕は悲しく思ったかもしれないが、今はそうでもない。

それは、こんな民主主義と自由主義が腐ったような時代で、
学問や文学や、自然や芸術に対して開かれて育ったからだ。

ほんとうの勉強というのは、すればするほど苦しくなる。
それは自ら規範や価値観が次々に破壊と再生を繰り返し、
社会や人間に絶望し、自らの無力と孤独に虚しくなる。

それでも僕が勉強するのは、その規範の破壊に快感を、
再生に希望を、歴史上の人物に友や師を見つける為だ。
その源泉は、間違いなく僕の性格と不可分な関係にある。

そう思うことができたなら、精神的にはそこそこ豊かだ。
今はまだまだ勉強不足で、たまに絶望する日もあるが、
実生活に良いことを見つけられる目も育ってきたし、 
まぁ間近に迫った復職以外、不安なことは特にない。

正直なところ、まだ働きたくない。勉強していたい。
深く、立ち止まって考え切ることを今の社会は是としない。

キャンプの日記は後日書こうと思う。
あと、ガンダムの感想とかも書きたいし、
ジブリの新作も考察してみたいと思ったりする。

でも、少なくとも次は何を書こうと締めに書くのは、
これからはできれば控えたほうが良いかもしれない。

僕は自分の文章が飛ぶ方向をまだ制御できないらしい。










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?