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裸足たち(私の舞)

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エッセイ集。基本、思考たち。たまに本能と感覚が舞っている。
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2020年4月の記事一覧

人に対する
不安な気持ちすべて
つきつめるといつも
おかーさんにぶち当たる

ただ
なんでもないわたしを
おかーさんにみとめられたい
って思いが
異常に強い

わかってる
だからたまに猛烈に
打ち負かせたいときがある



そして不幸で幸福で
悲しいほどに
私はおかーさんがすき

私はいつも嘘をつかない
代わりに楽に流される
これでいいやの時がある
こだわってない時
こだわる努力をしてない時
それを見透かされる
私に
あなたに
その空洞が貫かれて
ひたすらに悔しい
そんな自分に
他の頑張っている誰かに
またそれを見て後悔する自分が
一番悔しい

頑張ろう

柔軟性の欠如は
創造性の衰退




(勝手に定めた完璧に収まり眠り、
発展的工夫に怠惰を覚える私へ)

(常に完璧などないのだと
頭だけで止まらせた真実へ
自戒を、込めて。)

「好き」の質感が広辞苑と違う

「好き」の質感が広辞苑と違う

わたしのす
きはおはようと
おなじなの
シツリョウおもく
うけとめないで

質感が違う、と表現してしまうと、「直訳的に触り心地の問題」みたいになって、辞書の紙みたくツルツルしてないのかね?などと思われちゃいそうだが、そうではなく、大幅な一般論と違う、と言う感じなのである。

私の「すき」は軽量だ。
軽量だけど、その中に基本、嘘は一つもない。

つまり、なんとも思ってないのにとりあえず「かわいい~」

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センスとか、ブランドとか、女らしいとか、系統とか、そういうんじゃなくて、その時の私に一番自然な服をするーんと着たい。生まれたての赤ちゃんをくるむ布とか、ジャムをいれる瓶とか、紅茶を注ぐマグカップみたいな感じで。

「量」をとるか「質」をとるか

「量」をとるか「質」をとるか

という問題。

私のnoteの話である。

noteを始めようとしたきっかけは、年の離れた妹が、私の中学時代に流行ったケータイ小説のような小説サイトのアプリを入れており、それに(半ば強引に)勧誘されたからである。勧められるままに入れてみたが、やはりああいうものには年相応、というものがあり、予想されるユーザーの平均年齢層からも、私には合わなかった。

かといって、今更ブログ開設は少し面倒であり、小説

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はるのジャケット(飽和地点)

確定的だったのは、母の若い日の写真。それと、先生の一言であった。
ことは確かだけれど、予兆はすでに、私の意識のうちに、投げかけられ続けていた。

大きなリボンがついてるような女の子らしい服を好む妹と、年中ほぼ、シャツとジーパンの無頓着な私。
顔は似ていると言われるが、性格も、好んで着る服も違う。それは妹が成長していくにつれ、如実な差として、あらわれてゆく。

最近妹ちゃんはとみに可愛くなったわねぇ

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