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ブックレビュー ロバート・マッキー著『ストーリー』(16)前半 第4部 脚本の執筆 問題と解決策

更新の間隔が空いてしまい、申し訳ありません。
『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』のレビュー第十七回を投稿します。
(各回をまとめたマガジンはこちらです。)

※通常は1章分ごとにレビューしていますが、第16章にあたる『第4部 脚本の執筆 16 問題と解決策』はボリュームが大きいため、投稿を前、後半に分けます。
この投稿は「前半分」です。

※ こちらのレビューは、非常に内容が濃い本書を私なりにまとめた「概要」です。
興味をお持ちになった方は、ご購入の上、本レビューを副読本的にお読みになることをお勧めします。

第4部 脚本の執筆
16 問題と解決策 前半

本章では、観客の興味をいかに保つか、ほかの媒体の作品をいかに脚色するか、論理の穴にいかに対処するかなど、よくある八つの問題について説明する。
どれも技術で解決できるものばかりだ。
(P419 より引用)

【興味】

マーケティングの力で観客の足を映画館へ向けることはできても、いったん上映がはじまったら、最後まで興味を持って観つづけるだけの動機を与えなくてはならない。
ずっと観客を引きつけて離さず、クライマックスでそれに報いるわけだ。
人間の本質の両側面――知性と感情――に訴える作品でなければ、これはほぼ不可能である。
(P419より引用)

「知性と感情に訴える作品でなければ、観客を引きつけ続けることはできない」と著者は言います。

「知性に訴える」とは、「好奇心」を刺激すること。
つまりストーリー内で疑問を提起し、その後の展開、結末を知りたいという欲求に訴えかけることが重要。

「感情に訴える」とは、「賛意」を刺激する事。
人は本能的に、正義、強さ、生存といった人生のプラスの価値要素に引かれ、マイナスを避けようとする。
そのためストーリーが始まると観客は、そこに描かれているものを観察して、善と悪、正と誤、価値あるものと価値のないものに分けていき、「善の中心」を見つけ出して、そこに感情移入をする、というわけです。

とは言え、ストーリーの主人公は常に「正義の味方」とは限りません。
例えば『ゴッド・ファーザー』の観客は、反社会的な存在であるマフィアに感情移入します。

この作品の中心にいるのはコルレオーネー・ファミリー。
その姿は、周りを取り囲む他のファミリーや、腐敗した警察や判事と共に描かれます。
観客は、周囲との比較によって、「コルレオーネ・ファミリーにだけは『忠誠』というプラスの特質がある」と知り、結果として彼らに感情移入する、と著者は述べています。

ミステリー、サスペンス、劇的アイロニー

好奇心や賛意は観客をストーリーに結びつけるが、それには三つの方法がある。
ミステリー、サスペンス、劇的アイロニーだ。
これらはジャンルというよりも、ストーリーと観客の関係を表すものであり、どうやって興味を保たせるかによって決まる。
(P423より引用)

著者は、「ミステリー、サスペンス、劇的アイロニー」を「観客と登場人物、それぞれに与えられる情報の量」によって区別しています。

まず「ミステリー」については、以下のように述べています。

ミステリーでは、観客の与えられる情報が登場人物より少ない。
(P423より引用)

ミステリーでは、観客の興味を好奇心のみで引きつける。
(P423 より引用)

ミステリーの作り手は、ストーリーの背景や前提となる「過去の出来事」を観客に伏せておき、時には一部分だけを見せてじらしながら、好奇心を刺激し続けます。
これは殺人ミステリーにおいて典型的な手法であり、「謎解き型」と「倒叙型」に分けられると著者は言います。

謎解き型ミステリーの代表作家はアガサ・クリスティで、バックストーリーのなかでひそかに殺人が起こる。
「だれがやったのか(フーダニット)」が第一の謎であり、容疑者は複数いる。
(中略)
倒叙型ミステリーは「刑事コロンボ」のスタイルだ。
観客は殺人シーンを目撃して、犯人を知っている。
ストーリーは「どうやって捕まえるか」が焦点となり、脚本家は複数の容疑者の代わりに複数の手がかりを用意する。
(P424より引用)

これらふたつの型は、組み合わせることも風刺に使うこともできる。
『チャイナタウン』は謎解き型ではじまるが、第二幕のクライマックスで倒叙型に転じる。
『ユージュアル・サスペクツ』は謎解き型ミステリーをパロディ化したものだ。
「だれがそれをやったのか」からはじまり、「だれもそれをやっていない」に変わる……「それ」がなんであれ。
(P424より引用)

続いてサスペンスについて、著者は以下のように述べています。

サスペンスでは、観客と登場人物が同じだけの情報を与えられている。
(P425より引用)

サスペンスは観客の好奇心と賛意の両方を掻き立てる。
(P425より)引用

映画の90パーセントはこの形をとることで観客の興味を引きつけている、と著者は言います。
ミステリーと違う点は、観客が「(作り手によって伏せられていた)真実」ではなく、「結末」の方に好奇心を向けている点。

殺人ミステリーでは、どんな結末かがわかっている。
だれがどうやって殺したのであれ、探偵が犯人を捕らえて上昇型の結末となるのが約束だ。
しかしサスペンスでは、結末が上昇型にも下降型にもなり、二面的な結末もありうる。
(P425より引用)

サスペンスでは、主人公と観客が肩を並べ、情報を共有しながら話のなかを進んでいく。
主人公が新事実を発見すれば、観客も発見する。
だが、だれも「結末がどうなるのか」を知らない。
(P425)

三つ目の「劇的アイロニー」については、著者は以下のように述べています。

劇的アイロニーでは、観客の与えられる情報が登場人物より多い。
(P425より引用)

劇的アイロニーは、事実や結末に対する好奇心ではなく、感情的な賛意だけで観客の興味を引きつける。
これには、あえて結末を先に明かす形のストーリーが多い。
観客は何が起こるかを事前に知るという神の優位性を与えられ、ほかとは異なる感情体験をする。
(P425より引用)

劇的アイロニーの具体例として、著者は映画『サンセット大通り』を挙げています。

この作品では、最初のシークエンスで「主人公ジョー・ギリスは死ぬ」という結末が提示されます。
豪邸のプールに浮かんだジョーの死体の映像に、「自分はなぜこうして死ぬことになったか、いきさつを説明する」というジョーの声が重なり、以降はいわゆる”全編回想”の形式でストーリーが描かれていきます。

劇的アイロニーの作品であっても、観客の好奇心がすべて失われるわけではない。
何が起こるかを知った観客はこう考える。
「この登場人物たちは、どんないきさつで、なぜ、あんなことをしたのだろう」と。
観客は登場人物の人生のなかに動機や原因を深く探ろうとする。
良質な映画を二度観ると、最初のときよりも楽しめる、少なくともちがった角度から楽しめるのはこのためだ。
(P426より引用)


【驚きの問題】

観客はこう祈りながら映画館へ足を運ぶ。
「どうぞいい映画でありますように。新たな体験ができて、これまで知らなかった物の見方が身につきますように。おもしろいと思ったことのないもので笑わせてください。これまで心を動かされたことのないものに感動させてください。世界を新しい目で見せてください。アーメン」と。
つまるところ、観客は予想が裏切られる驚きを求めている。
(P429~430より引用)

ストーリーにおける「驚き」には二種類ある、と著者は言い、「安っぽい驚き」と「真の驚き」と呼んでいます。

真の驚きは、予想と結果のギャップが突然明かされることで生まれる。
これが「真」だと言えるのは、作中世界の奥で隠されていた真実が明るみに出て、深みのある体験がもたらされるからだ。
安っぽい驚きは、観客の弱い立場につけこんだものである。暗い映画館で観客は脚本家の手に感情を委ねている。
予想のつかないものをいきなり見せたり、ずっとつづくと思えたものをいきなり中断したりして観客を驚かすのは簡単だ。
(P430より引用)

例えば、「唐突に、主人公が血まみれで死んでいるシーンを見せた後、それが別の人物の妄想であると明かす」といった類のものが「安っぽい驚き」であり、この種の驚きは、ホラー、ファンタジー、スリラーにおいては楽しみのひとつになるが、衝撃的なだけで、お粗末な仕掛けでしかない、と著者は言います。


【偶然の問題】

ストーリーは意味を作り出す。
そのため、偶然はストーリーの敵に見えるかもしれない。
偶然とは、この宇宙でばかげた衝突がたまたま同時に起こったということにすぎず、そこにはなんの意味もないからだ。
それでも、偶然は人生の一部である。
しかも、しばしば大きな力で人生を揺るがし、起こった時と同じく、理不尽にも消えてしまう。
となると、偶然を排除しても解決にはならない。
意味もなく登場人物の人生に起こった偶然がやがて意味を持ち、人生の必然になっていくさまを劇的なストーリーに仕立てるのが得策だ。
(P431より引用)

第一に、早い段階で偶然を引き起こし、時間をかけてそれに意味を与えていく。
(P431より引用)

ストーリーにおける「偶然」の扱い方の好例として、著者は映画『ジョーズ』を挙げています。

『ジョーズ』の契機事件は、サメがたまたま遊泳者を襲って食べたことだった。
ところが、いったん登場したサメはストーリーから立ち去らない。
そのままストーリーにとどまって、なんの罪もない人々をつぎつぎに襲い、しだいにそこに意味が生まれる。
観客はサメが意図的に人に脅威を与えて、しかもそれを楽しんでいるのではないかと感じる。
それはまさしく悪の定義だ――他者に害をなし、そのことに喜びを見いだすこと。
人はみなうっかり他者を傷つけるが、すぐにそれを公開する。
だが、わざとだれかを傷つけて楽しんでいる者がいたら、それは悪だ。
このサメは自然界の暗黒面を強力に象徴するものとして、人間をつぎつぎ呑みこんで笑い飛ばしていく。
(P431~432より引用)

逆に著者は、以下のような「悪い例」も挙げています。
「主人公がある女性を捜している際、偶然出会った男が彼女の居場所を教えてくれて、その男はその後二度とストーリーに登場しない」

これを「主人公は男と一緒に女性に会いに行き、それをきっかけに三角関係になる」といった展開にするならば、主人公と男の「偶然の出会い」に、意味を与えたことになるわけです。

第二に、クライマックスの転換に偶然を利用してはいけない。
「デウス・エクス・マキナ」を登場させるのは、脚本家の最大の罪である。
(P432より引用)

デウス・エクス・マキナは古代ギリシャ・ローマ劇に由来するラテン語のことばで、「機械仕掛けの神」という意味だ。
(中略)
ストーリー・クライマックスがむずかしいのは、二千五百年前も同じだった。
だが古代の劇作家は逃げ道があった。
大理石の座席にすわる観客を転換点で夢中にさせ、途中で創造力が枯渇して真のクライマックスを書けなくなったら、神を舞台に呼び出すというお決まりの手立てを使って、アポロンやアテナにすべてを解決させればよかったのだ。
だれが生き残り、だれが死に、だれがだれと結婚し、だれが地獄に落ちるのか。
神は繰り返し登場して、すべての問題を片づけた。
(P433より引用)

書き手は、「偶然」を単なる都合の良い道具として使ってはいけない、ということですね。


【コメディの問題】

ほかのジャンルの脚本家は人間性を高く評価し、作品を通じてこう訴える――どんなに悲惨な状況にあっても、人間の精神は気高い。
一方、コメディの脚本家は、どんなに恵まれた状況にあっても人間は道を踏みはずすものだ、と指摘する。
(P434より引用)

ほかのジャンルの脚本家は、人間の内面――心に秘めた情熱や罪や狂気や夢――に興味を持っている。だがコメディの脚本家はちがう。
注目するのは社会生活――社会で見られる愚かさ、傲慢さ、残忍さ――である。
偽善と愚行に満ちていると感じる組織や体制を採りあげて、激しく非難する。
(P435より引用)

著者は以下のように、「コメディ映画が非難する対象の例」を挙げています。

『恋人たちの予感』 非難の対象:型にはまった恋愛パターン

『博士の異常な愛情』 非難の対象:冷戦

『ポリスアカデミー』 非難の対象:学校

『プロデューサーズ』 非難の対象:演劇界


コメディの設計

観客は結末を知りたいという思いから、ストーリーの展開を追いつづける。
だがコメディでは、いったんその流れを止め、先へ先へと急ぐ観客の心を押しとどめて、ストーリーの目的とは関係のないシーンを挿入することが許される。
大笑いさせるためだけのシーンだ。
(P437より引用)

書き手にとって、いわゆる”小ネタ”で尺を使えるというのは、コメディを書く際の大きな楽しみだと思います。

コメディはドラマよりも偶然を使いやすく、場合によっては「機械仕掛けの神」も許される。
ただし、それにはふたつの条件がある。
まず、主人公がじゅうぶん苦しんだと観客が感じていること。
つぎに、主人公がけっして絶望せず、希望を失っていないことだ。
このふたつの条件が満たされるとき、観客はこう考える。
「頼むから望みをかなえてやってくれ」
(P437より引用)

この実例として著者は、『チャップリンの黄金狂時代』を挙げています。

クライマックスで凍死しかけていた主人公チャーリーは、猛吹雪で小屋ごと飛ばされアラスカの金鉱に落ち、大金持ちになります。
「都合の良い偶然」と言える展開ですが、ここに至るまでにチャーリーは「空腹のあまり靴を食べ、一攫千金を狙う男たちに危うく食べられそうになり、グリズリーの餌になりかけ、ダンスホールの女たちに冷たくあしらわれる」という具合に、悲惨な思いをし続けています。
それらを経て、はるばるアラスカまでやって来たチャーリーに対して、観客は「少しはいい目に合わせてやらないと」という気持ちになるわけです。

コメディとドラマの決定的なちがいはここにある。
どちらもシーンが転換するときには驚きと洞察があるが、コメディではギャップが開くと、驚きが笑いを呼ぶ。
(P437~438より引用)

気のきいた台詞をひねり出しても、パイを顔に投げつけるシーンを採り入れても、コメディは作れない。
ギャグは構成上の必要からおのずと生まれてくるものだ。
そうではなく、転換点を作ことに集中しよう。ひとつひとつのアクションの前に、「このアクションの逆はなんだろう」と自問すべきだ。
そして、さらに一歩進んで考える。
「これを突飛な形にするとしたら?」と。
ギャップを開いてコミカルな驚きを与え、おもしろいストーリーを書いてもらいたい。
(P438より引用)

仮に、気のきいた台詞や体を使ったギャグをとり除いたとしても、ギャップに富んだストーリー展開だけで人を笑わせることができたならば、それが本物のコメディだと著者は言います。

☆「第4部脚本の執筆 16問題と解決策 後半」に続く

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※このブックレビュー全体の目次は以下の通りです。
第1部 脚本家とストーリーの技術
(1)ストーリーの問題

第2部 ストーリーの諸要素
(2)構成の概略
(3)構成と設定
(4)構成とジャンル
(5)構成と登場人物
(6)構成と意味

第3部 ストーリー設計の原則
(7)前半 ストーリーの本質
(7)後半 ストーリーの本質
(8)契機事件
(9)幕の設計
(10)シーンの設計
(11)シーンの分析
(12)編成
(13)重大局面、クライマックス、解決

第4部 脚本の執筆
(14)敵対する力の原則
(15)明瞭化
(16)前半 問題と解決策
(16)後半 問題と解決策
(17)登場人物
(18)ことばの選択
(19)脚本家の創作術

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