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ブックレビュー ロバート・マッキー著『ストーリー』(18)第4部 脚本の執筆 ことばの選択

『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』のレビュー第二十回を投稿します。
(各回をまとめたマガジンはこちらです。)

※ こちらのレビューは、非常に内容が濃い本書を私なりにまとめた「概要」です。
興味をお持ちになった方は、ご購入の上、本レビューを副読本的にお読みになることをお勧めします。

第4部 脚本の執筆
18 ことばの選択

【ダイアローグ】

ダイアローグは会話ではない。
(P468より引用)

カフェで交わされる話を盗み聞きすればすぐ、あんなでたらめな会話は映画で使えないと気づくはずだ。
現実の会話には、ぎこちない間、お粗末なことばや言いまわし、脈絡のない発言や意味のない繰り返しがいっぱいで、要点や結論に達したりすることはめったにない。
しかし、会話の目的は要点や結論に達することではないのだから、それはそれでかまわない。
話をすることで「コミュニケーションの道を閉ざさないでおく」のだと心理学者は言う。
会話は人間関係を発展させ、変化させるための手段だ。
(P468~469より引用)

「例えば道でばったり会った友人と、天気やスポーツやショッピングの話をするのは、友人同士であることを確認し合うためであって、会話の中身が重要なわけではない」と著者は言い、これに対して映画内の会話(ダイアローグ)には、以下のことが求められると述べています。

第一に、映画のダイアローグには圧縮と節約が求められる。なるべく少ないことばで言い表さなくてはならない。
第二に、ダイアローグには方向性が求められる。個々の台詞のやりとりは、一方からもう一方へと、反復のない言動の変化によって、シーンのビートを転換させなくてはならない。
第三に、ダイアローグには目的が求められる。ひとつひとつの台詞のやりとりがシーン設計のもとになり、それがシーンを築いて転換点を作り出す。
ダイアローグにはそのような緻密さが要求されるばかりか、ふつうの会話のように砕けた自然な語彙を使い、短縮形やスラング、さらには必要なら汚いことばまでも取り混ぜなくてはならない。
(P469より引用)

映画は小説ではないことを忘れてはいけない。
台詞は口から出た瞬間に消える。
俳優が発したことばをすぐに理解できなければ、苛立った人々が「いまなんて言った?」といっせいにささやきだす。
(中略)
映画のダイアローグには、短くて単純な構成の文が求められる。
(P469~470より引用)

例えば、以下のような台詞が「悪い例」であると著者は言います。

「チャールズ・ウィルソン・エヴァンズは、マンハッタン五番街に建つ666ビルにオフィスを構えるデータ・コーポレーション社の最高財務責任者であり、ハーヴァード・ビジネス・スクールを成績上位で卒業したのち、現在のポストには六年前に昇進したけれど、会社の年金基金を横領して、その損失を隠蔽しようとした不正行為によって当局から告発され、きょう逮捕されたとのことだ」
(P470より引用)

これに著者が手を加え、映画のダイアローグとして適切なものにしたのが、以下の台詞です。

「チャーリ・エヴァンスを知ってるだろ、データ・コープ社のCFOの。なんと、捕まったんだってさ! 会社の金蔵に手を突っ込んだらしい。ハーヴァード卒なんだから、その気になりゃ、うまいこと金を持ち逃げできるだろうに」
(P470より引用)


自分が書いた台詞が映画のダイアローグとしてふさわしいものになっているかどうかを確認する方法として、著者は「声に出して読むか、さらによいのは録音すること」と述べています。

ダイアローグだけが注目されるもの、ページから飛び出して、「これって名文句でしょ!」と叫んでいるようなものを書いてはいけない。
際立って上品で文学的なダイアローグを書き上げたと思ったら――捨てるべきだ。
(P470より引用)


短い台詞

長い台詞は映画という形式にはそぐわない。
ひとつの台詞がページの端から端へ及ぶ場合、カメラは一分にわたってそれを話す俳優の顔を映しつづけることになる。
時計の文字盤をまわる秒針を追いつづければ、一分がどれほど長いか実感できるだろう。
(P470~471より引用)

たとえ長台詞の途中で聞き手の顔にショットを切り替えたとしても、問題は解決しないと著者は言います。

肉体から声が離れれば、その俳優はゆっくりと明確にしゃべらなくてはならない。
というのも、実のところ、観客は唇の動きでことばを聞きわけているからだ。
観客は話の内容の五十パーセントを視覚から理解し、話者の顔が見えなくなると、聞くのをやめる。
(P471より引用)

したがって、長い台詞を書くことには、ことさら慎重を期するべきだ。
それでも、だれもが黙したなかでひとりが語る絶好の瞬間だと判断したのなら、長い台詞を書けばよい。
ただし、独白のようなことは実生活では起こりえないと肝に銘じておくこと。
人生はアクションとリアクションが成すダイアローグだ。
(P471より引用)

「人生はつねにアクション/リアクションのやりとりである」ということを踏まえるならば、映画における長台詞も、アクション/リアクションに分割して、話者の言動を明確にすべきだ、と著者は言います。
例えば映画『アマデウス』の脚本では、サリエリが神父に告解するシーンの長台詞は、以下のように書かれています。

サリエリ 私の望みは歌うことだけだった。神の栄光を。神が与えたもうたのだ、その切望を。なのに、わたしの声を奪い去った。なぜだ。教えてくれ。

神父は顔をそむける。苦しげで困惑気味だ。そこでサリエリは、自らの問いに対して、弁舌巧みに返答する。

サリエリ わたしの賛美を望まぬなら、なぜ神は与えたのだ。この……肉欲さながらの欲望を。それなのに、なぜ才能はくださらない。
(P472より引用)

サリエリがしているように、登場人物は自分自身に対して、みずからの思念や感情に対して、リアクションを起こすことができる。
これもまたシーンを動かすもののひとつだ。
「アクション/リアクション」の組み合わせを登場人物の内側や、登場人物同士や、人物と現実世界のあいだで引き起こして、それをページに記せば、読み手の頭には映画を観ている感覚が呼び覚まされ、あなたの脚本が顔のアップばかりの映画にならないと理解できる。
(P473より引用)


サスペンス型の文

映画のなかの秀逸なダイアローグは、 棹尾文(核となるアイデアを最後で明かす文)の形をとる傾向がある。
「わたしのしたことが気に入らないというなら、なんだったのよ、あのときのあなたの……」
このあとにつづくのは「目つきは?」、または「銃は?」、または「キスは?」だろうか。
掉尾文は、いわばサスペンス型の文だ。
文の意味を最後に明かすことで、俳優と観客のどちらもセリフの終わりまで耳を傾けることになる。
(P473~474より引用)

上に挙げた『アマデウス』のサリエリの台詞も、多くが「サスペンス型の 棹尾文」になっていることが分かります。


台詞を排した脚本

映画のダイアローグを書くにあたっての最高の助言は、「書かないこと」だ。
映像で表現できる場合には、台詞を一行も書く必要はない。
どのシーンを書くにあたっても、まずはダイアローグに頼らずに、映像だけでどう処理するかを考えるべきだ。
収穫逓減の法則に従うのだ。
つまり、書けば書くほどダイアローグの効果は薄れて行く。
(P474より引用)

「台詞を排したシーン」の良い例として著者は、映画『沈黙』の登場人物アナがレストランでウェイターに誘惑され、その誘いに乗る、というシーンを取りあげています。

ウェイターがテーブルに歩み寄り、偶然を装って床にナプキンを落とす。
拾いあげようとしてゆっくりと身をかがめ、膝を折るときに、ウェイターはアナのにおいを頭から、太もも、足の先まで嗅ぐ。
アナはそれに反応し、深く息を吸いこんで、歓喜に満ちた吐息を漏らす。
そして、ホテルの一室。完璧と言っていいだろう。
エロティックで視覚に訴え、必要最小限のことばしか交わされない。
これこそが映画の脚本だ。
(P475より引用)


【ト書き】

読み手の頭のなかに映画を投影する

脚本家の悲哀は、詩人になれないことだ。
隠喩や直喩、類韻や頭韻、リズムや押韻、代喩や換喩、誇張法や緩徐法、壮大な修辞といった技巧を使えないからだ。
その代わりに、文学のあれこれを文学ではない形で作品に取りこまなくてはいけない。
文学作品はそれ自体で完結するが、脚本はカメラを待っている。
脚本が文学でないとして、脚本家がめざすものはなんだろうか。
脚本のページをめくるたびに映像が頭のなかを流れていく、そんな叙述、そんなト書きをめざすことだ。
(P475より引用)

言語による表現の九十パーセントは、映像に置き換えることができない。
「彼はそこに長時間すわっている」――これは撮影できない。
だから脚本家は、スクリーンに見えるものは何かと自問して、つねに想像力を鍛えあげていく。
そして、映像化できることだけを書く。
たとえば、「十本目の煙草を揉み消す」、「いらいらと腕時計を見やる」、「あくびを嚙み殺して眠気と闘う」とすれば、長時間待っていることを間接的に表現できる。
(P475~476より引用)

私の個人的な経験を振り返ると、脚本を学び始めて最初に難しいと感じたのは、ト書きの書き方でした。
文学的な表現に頼らず簡潔でありながら、読み手の頭の中に情景が浮かぶように書く。
つまりは、”文章を使って映像を描く”ということをしなければならないわけです。
そのためのポイントとして、著者は以下のようなことを挙げています。

いま、この瞬間の鮮明な表現

スクリーンに映し出されるものは、「絶え間なくつづく生気あふれる活動の絶対現在時制による表現」だと言える。
脚本のト書きが現在時制で書かれるのは、映画は小説とはちがって、いま現在というナイフの刃に載った不安定なものだからだ。
(P476より引用)

たとえば、「まるで~のような」は、スクリーン上に存在しないことばの綾だ。
映画では、登場人物が「~のように」ドアからはいってくることはできない。
彼はドアからはいってくる――以上。
(P477より引用)

カメラと編集に対する注釈も排除しよう。
俳優がしぐさやふるまいについての描写を無視するのと同じように、「ピント送り」、「パン」、「ツー・ショット」などなど、紙のページから演出しようとあれこれ書いたところで、監督に鼻で笑われるだけだ。
「トラック」と書いたら、読む者の頭のなかに映像が流れ込んでくるだろうか。そうはならないだろう。
(P478~479より引用)



【イメージ系統】

詩人としての脚本家

少し前に、脚本家の悲哀は詩人になれないことだと書いたが、実はこれは正しくない。
映画は詩心を持つ者にとってすばらしい媒体だ。
そのためには、ストーリーの詩的表現の本質と、それが映画のなかで作用する仕組みを理解する必要がある。
(P482より引用)

詩的というのは、高い表現力を具えていることだ。
ストーリーの内容が美しかろうとグロテスクだろうと、宗教的だろうと世俗的だろうと、静謐だろうと暴力的だろうと、牧歌的だろうと都会的だろうと、壮大だろうと日常的だろうと、必要なのは充実した表現だ。
よいストーリーが巧みに語られ、巧みに監督されて演じられると、おそらくよい映画になるだろう。
それらすべてに詩的表現の豊かさと深みが加われば、第一級の映画になる。
(P482~483より引用)


脚本家は、ト書きに修辞的な文章を使うことはできません。
ですが、「イメージ系統」を用いることで詩的な表現ができると著者は言います。

イメージ系統とは、主題を表現したいときに使う手法のひとつで、映画に埋めこまれるイメージをカテゴリー化したものである。
作品のはじめから終わりまで、これらのイメージに微妙な変化をつけてさまざまな形で繰り返し、視覚と聴覚に訴える。
それによって潜在意識に働きかけ、美的感情に深みや複雑さを与えるのが狙いだ。
(P484より引用)

ここで言う「カテゴリー」とは、物理的な世界から集めた題材のまとまりのことで、さまざまな取り合わせを包含できる広さを持つ。
たとえば、自然の分野なら「動物」、「四季」、「光と闇」などが、文化の分野なら「建造物」、「機械」、「芸術」などがある。
カテゴリーは、ひとつかふたつの孤立したシンボルではほとんど効果が得られないので、繰り返さなくてはならない。
だが、さまざまな形のイメージを積み重ねていくと、それは観客の無意識の奥底まで届き、集積されたイメージの力は圧倒的なものになる。
(P484より引用)

イメージ系統は、「外部イメージ」あるいは「内部イメージ」のどちらかによって作られると著者は言い、それぞれについて、以下のように解説しています。

外部イメージは、映画の外でも象徴的な意味をすでに持ち、その意味をそのまま映画に持ちこんだものだ。
たとえば、国旗――国家への忠誠心と愛の象徴――を使用すれば、そのまま国家への忠誠心と愛を示すことになる。
『ロッキー4 炎の友情』(85)では、ロッキーがロシア人ボクサーを打ち負かしたのち、巨大な星条旗を身にまとう。
神への愛と信仰の象徴である十字架を使用すれば、すなわち神への愛と信仰を表すことになる。
(P484より引用)

内部イメージは、映画の外で象徴的な意味を持つ場合と持たない場合があるが、全く新しい適切な意味をその映画だけに与える。
(P484~485より引用)

『悪魔のような女』のオープニングタイトルは、グレーと黒の抽象画が背景となっているように見える。
だが、それが終わると、トラックのタイヤが突然画面の下から上へ飛沫を跳ねあげ、観客はこれまで泥混じりの水たまりを見おろしていたことに気づく。
カメラは雨模様の景色を映していく。
この最初の瞬間から、「水」というイメージ系統は、途切れることなく潜在的に繰り返される。
つねに霧雨が降り、靄が立ちこめている。
窓の結露が小さなしずくとなって窓枠へ流れる。
夕食には魚を食べる。登場人物たちはワインや紅茶を飲み、クリスティーナは心臓の水薬を口にする。
(P487より引用)

この映画の外では、水はプラスのイメージを持つ万国共通の象徴である。
聖別、浄め、女性――まさに生命そのものの元型だ。
しかし、クルーゾーは水の価値要素が死や恐怖や邪悪の色合いを帯びるように転換させ、蛇口から水がしたたり落ちる音で観客を座席から跳びあがらんばかりに驚かせた。
(P487~488より引用)


【タイトル】

タイトルをつけるのは、まさしく命名することだ。
効果的なタイトルは、ストーリーのなかに実際にある強固なもの――登場人物、設定、テーマ、ジャンル――を示している。
傑出したタイトルは、これらの要素のうち、二つ以上を同時に言い表していることが多い。
(P492より引用)

「タイトルが、二つ以上の要素を同時に表している作品」として、著者は以下のような例を挙げています。

『クレイマー、クレイマー』
同じ苗字を持つふたりの登場人物の対立を表している。[原題はKRAMER VS. KRAMER]。
このタイトルから、テーマが離婚、そしてジャンルが家庭ドラマだと分かる。
(P492より引用)


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『ベスト・フレンズ・ウエディング』
登場人物と設定、そして恋愛コメディのジャンルであることを明らかにしている。
(P492より引用)


☆「第4部脚本の執筆 19 脚本家の創作術」に続く

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脚本、小説のオンラインコンサルを行っていますので、よろしければ。

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※このブックレビュー全体の目次は以下の通りです。
第1部 脚本家とストーリーの技術
(1)ストーリーの問題

第2部 ストーリーの諸要素
(2)構成の概略
(3)構成と設定
(4)構成とジャンル
(5)構成と登場人物
(6)構成と意味

第3部 ストーリー設計の原則
(7)前半 ストーリーの本質
(7)後半 ストーリーの本質
(8)契機事件
(9)幕の設計
(10)シーンの設計
(11)シーンの分析
(12)編成
(13)重大局面、クライマックス、解決

第4部 脚本の執筆
(14)敵対する力の原則
(15)明瞭化
(16)前半 問題と解決策
(16)後半 問題と解決策
(17)登場人物
(18)ことばの選択
(19)脚本家の創作術

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