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ブックレビュー ロバート・マッキー著『ストーリー』(10)第3部 ストーリー設計の原則 シーンの設計

投稿の間隔が長く空いてしまい、申し訳ありません。
『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』のレビュー第十一回を投稿します。
(各回をまとめたマガジンはこちらです。)

※ こちらのレビューは、非常に内容が濃い本書を私なりにまとめた「概要」です。
興味をお持ちになった方は、ご購入の上、本レビューを副読本的にお読みになることをお勧めします。

第3部 ストーリー設計の原則
10 シーンの設計

この章では、シーンの設計の構成要素である転換点、伏線と落ち、感情の強度、選択に注目する。(P281より引用)


【転換点】

シーンはストーリーのミニチュア版だ。
一定のまとまりを持つ時間と空間で葛藤が生まれ、それによって起こされたアクションが、登場人物の人生の価値要素をプラスかマイナスへ変化させる。
理論的にはシーンの長さと舞台にはほとんど制限がない。
極小のシーンもあっていい。正しい文脈のなかであれば、トランプをめくる手の1ショットしかないシーンでも大きな変化を表現しうる。
逆に、戦場の10カ所以上で繰り広げられる10分間のアクションでも、たいした意味がないかもしれない。
場所や長さにかかわらず、シーンは欲求、アクション、葛藤、変化がひとまとめになったものだ。(P281より引用)

予想と結果のあいだにギャップが生じると、観客は驚きに心を揺さぶられる。
登場人物も観客も予想しなかった形で世界が反応したからだ。
驚きの瞬間がすぐさま好奇心を引き起こし、観客は「なぜ?」と思いをめぐらす。(P283より引用)

・登場人物がある目的を持ち、良い結果を予想しながら行動を取ると、予想外の結果が返ってくる。
・ストーリーを見ている観客が「次はこうなるだろう」という予想をしていると、その予想を裏切る結果になる。

この2種類の「予想と結果のギャップ」は、ストーリ―全体を動かす原動力であり、”ストーリーのミニチュア版”である「シーン」においても重要な転換点となる、ということです。

転換点の効果には、「驚き」、「好奇心の高まり」、「洞察」、「新たな方向」の四つがある。(P283より引用)

例えば映画『チャイナタウン』では、第二幕のクライマックスの「あの子は私の妹でもあり、娘でもあるのよ」というイヴリンのセリフが、大きな「転換点」となっています。
思いがけないイヴリンのセリフに観客の「驚き」が生じ、「なぜイヴリンはこんなことを言うのだろう?」と「好奇心の高まり」が生まれ、観客が過去のシーンを振り返って「洞察」を行い、イヴリンの父・クロスによる近親相姦、殺害の真の動機といった事実に気づいて、波乱の第三幕への「新たな方向」が指し示されるというわけです。

ストーリーテリングとは、ある約束を受け手と交わすことだ。
しっかり耳を傾けてくれるなら、驚きを与え、想像もつかないレベルと方向で人生の痛みや喜びをお見せする、という約束である。
何より大事なのは、それをさりげなく、ごく自然にやってのけることで、観客がみずから発見したかのように仕向けなくてはならない。
鮮やかな方向転換には、観客の頭に急に知識がなだれこんできて、それをみずから悟ったかのように感じさせる効果がある。
みずからというのは、ある意味で正しい。
洞察は観客が注意を傾けたことで得られる報酬であり、巧みに設計されたストーリーはシーンにつぐシーンでこの楽しみを提供してくれる。
(P286 より引用)

驚きの事実を”観客がみずから発見したかのように”感じさせながら提示していくことが重要であり、そのためのコツが「鮮やかな方向転換」であると筆者は述べています。
逆に、”観客がみずから発見したかのような感覚”を与えられないのは、以下のような表現をした場合だ、とも述べています。

力のないストーリーでは、内面から得られる洞察の代わりにただの情報を挿入する。
作り手の意図を登場人物にそのまま代弁させたり、さらに悪いことに、画面外のナレーションとして語ったりする脚本がどれほど多いことか。
そんな脚本からよい作品が生まれるはずがない。
そういう作品では、登場人物が自分自身について異様なほどくわしい知識を持っているが、そんなことは現実世界ではまずありえない。
さらに重要なのは、どれほど明快に洗練された美文も、観客の人生経験と脚本家が巧みに構成した世界がめぐり会ったときに心に満たされる洞察の深遠さには、とうてい及ばないということだ。(P287より引用)


【伏線と落ち】

ストーリーをすすめていくために、脚本家はシーンごとに、みずから創作した架空の現実の表面にひびを入れてギャップを作り、観客にストーリーをさかのぼらせて洞察を与えるが、その際、「伏線」と「落ち」の組み合わせが必要になる。
伏線とは知識の深層へ埋めこむことであり、落ちとはその知識を観客に与えてギャップを消すということだ。
予想と結果のギャップが生じたために、観客が答えを求めてストーリーをさかのぼるとき、脚本家が作中にあらかじめそのヒントを仕込んでいないと、観客は答えを得られない。(P287より引用)

「予想と結果のギャップ」に出くわした観客は「洞察」を行い、「答え」を得る。
この過程を観客が辿れるようにするには、「伏線」という形で、ストーリー内にヒントを埋め込んでおかなくてはなりません。

伏線の扱い方には細心の注意が必要だ。
初見ではひとつの意味しかないように思わせてあとで一気に振り返ったとき、より重要な第二の意味が感じられるようにしなくてはならない。
それどころか、ひとつの伏線に第三や第四の意味を隠しておくことも可能だ。(P289より引用)

伏線は、観客が頭のなかで振り返ったときに思い出せるようにし、しっかりと植えつけておかなくてはならない。
伏線があまりにもわかりづらいと、観客は見落とす。
唐突すぎると、転換点がすぐそこに待ち構えていると感づかれる。
明白なことをもったいぶって描いたり、異常なことをあまりにさりげなく描いたりすると、転換点はうまく機能しない。(P289)

映画『チャイナタウン』で言えば、殺人事件の容疑者であるクロスは、探偵のギデスから「被害者であるモウレーと最後に会った際、どんな会話をしたのか」と問われ、「娘のことだ」と答えます。
当初、観客は「娘」が指す人物をイヴリンだと認識しますが、クロスによる近親相姦という衝撃の事実を知った後は、「娘」が指す人物が他にもいることに気づきます。
こういった瞬間に観客は、”みずから発見したかのような感覚”を味わうことができるというわけです。

巧みな「伏線と落ち」を作ることは容易ではありませんが、筆者はそのコツを以下のように述べています。

人生とはちがって、ストーリーはいつでもさかのぼって修正することができる。
一見不条理なことを伏線にして、それに筋道を立てることもできる。
理由づけは二次的なもので、あとから考えてもいい。
何にも増して優先すべきは想像力だ――どんな途方もないアイデアでもひねり出し、筋が通っても通らなくても、さまざまなイメージを具体化しよう。
十のうち九は使い物になるまい。だが、たったひとつの荒唐無稽なアイディアに胸がざわつくかもしれない。
突拍子もない考えのなかにすばらしいものが隠れていることを告げる胸騒ぎだ。
あなたは直感的なひらめきでうまく関連を見いだし、ストーリーをさかのぼって筋の通ったものにする。
論理はたやすい。スクリーンへの道にいざないうのは想像力だ。
(P292より引用)


【感情の推移】

脚本家は、登場人物の目に涙を光らせたり、俳優が歓喜にあふれて朗読するような華美な台詞を書いたり、官能的な抱擁を描いたり、怒りに満ちた音楽を流したりといった手立てで観客の感情を動かすのではない。
そうではなく、感情を引き起こすのに欠かせない体験を正確にとらえて、それを観客に示すのがわれわれの仕事だ。
ストーリーの転換点は、観客に深い理解を促すだけでなく、感情を揺さぶる力も生み出す。(P292より引用)

以前、是枝裕和監督と脚本家の坂元裕二さんの対談を聞きに行ったことがあります。
坂元さんの作品で、「ある登場人物の遺品のパジャマのポケットにスーパーのレシートが入っており、ヒロインが、亡くなった人物の孫である男性を前にそのレシートの中身を読み上げる」というシーンがあり、是枝監督はこのシーンを絶賛していました。
「レシートに書かれた文字をひたすら読み上げる」というのは、「華美な台詞」とも「官能的な抱擁」とも程遠い表現ですが、是枝監督はこのシーンに大きく感情を揺さぶられたそうです。

坂元さんはこのシーンに関して、
「いい言葉を言って人を説得し、気持ちを動かそうとするようなシーンは山のようにある。振り返れば自分もその種のシーンをさんざん書いてきたのだが、今の自分の中には『そういうのはもういいよ』という思いがある」
とおっしゃっていました。

あるコメディ映画が、主人公の富の価値要素がマイナスの極貧状態からはじまるとしよう。
シーンやシークエンスや幕を経て、主人公の人生は貧困から金持ちへとプラスに推移する。
この主人公が望むものへ向かって進むのを見守るとき、持たざる者から持つ者への変化は、プラスの感情体験として観客の気分を高揚させる。
ところが、その高揚感が横ばいになると、プラスの感情はすぐ消え失せる。
感情というものは、比較的短期の精神体験であり、頂点に達して燃えあがり、すぐ燃えつきる。
だから観客はこう考える。「すばらしい。金持ちになった。それからどうなる?」
つぎに、ストーリーはプラスからマイナスへの推移を形作る新たな方向へと転換しなくてはならない。(P293より引用)

あるストーリーに、悲劇的なシーンがつづけさまに三回あるとしよう。
効果のほどはどうだろう。
最初のシーンで観客は涙を流す。
二度目では鼻をすする。
三度目では笑い出す……それも大声で。
三番目のシーンが悲しくないからではなく(ひょっとしたら、三回目のなかでいちばん悲劇的かもしれない)、前のふたつのシーンで観客は悲しみの感情を出しきってしまったからであり、なおも泣かせようとする作者を、滑稽とまでは言わないにせよ、鈍感だと思うからだ。(P294より引用)

ストーリーは、プラスとマイナスの感情を交互に作り出すことが重要、ということです。
「プラスの経験ばかり(或いはマイナスの経験ばかり)を繰り返すと、その効果が減じる」ということの実例として、筆者は次のようなことも述べています。

ひとつ目のアイスクリームはものすごくおいしい。
ふたつ目はまずまず。
三つ目となればうんざりだ。(P294より引用)


また筆者は、「感情」と混同されがちな「心性」についても述べています。

価値要素の推移が感情を生み出すと、心性が作用しはじめる。
このふたつはよく混同されるが、心性は感情ではない。
感情は短期的な経験で、急速にピークに達して燃えつきる。
心性は長期的に心に浸透した背景で、何日も、何週間も、ときには何年にもわたって生活を彩る。
実のところ、特定の心性が個人の特徴となることがある。
快楽と苦痛という、人生の中核にある感情には、それぞれ多彩なバリエーションがある。
では、われわれはプラス/マイナスのどんな感情を体験するのだろうか。
答えはそれを取り巻く心性のなかで見つかる。
鉛筆画に顔料を足したり、旋律にオーケストラを加えたりするように、心性は感情を際立たせる。(P295より引用)

映画では、人間にとっての心性にあたるものは、ムードとして知られる。
ムードは映画の流れのなかで生まれる。
つまり、光と色彩の質、アクションと編集のテンポ、配役、台詞のスタイル、制作の設計、音楽などだ。
それらすべてが合わさって、特定のムードが作られる。
一般に、ムードは伏線と同じく前兆を示すもので、観客の期待を準備したり形作ったりする。
引き起こされる感情のプラス/マイナスはシーンの力が決定するが、ムードが徐々にこの感情を明確にする。(P296より引用)

ストーリーの展開が同じであっても、時間帯が昼間なのか真夜中なのか、主役を演じるのかジム・キャリーなのかマイケル・マドセンなのか、色調を明るくするか抑えるか等々によって「ムード」は変わります。
「ムード」は映画の重要な要素のひとつ。
ですが、「ムードは感情の代わりにはならない」と筆者は明言しています。

ムードに浸りたいとき、われわれは音楽会や美術館へ行く。
有意義な感情体験をしたいときには、ストーリーに頼る。
脚本家が説明だらけで何も変化しないシーンを書き、日光が降り注ぐ庭を舞台にしてきらきらしたムードを漂わせようとしても、なんの意味もない。
その脚本家は、自分のお粗末な作品の責任を監督や俳優に押しつけただけだ。
説明ばかりで劇的なところがないシーンは、どんな明かりに照らしても退屈だ。
映画はただの装飾的な映像ではない。(P298より引用)



【選択の本質】

転換点では、登場人物がプレッシャーのかかった状況において、欲求をかなえるためにどんなアクションを選択するかに焦点があてられる。
人間の本質は「よい」や「正しい」と思ったとき、かならず「よい」ものや「正しい」ものを選ぶことを要求する。
逆はありえない。だから、明らかな善と明らかな悪、あるいは正と誤が存在する場合、登場人物がどちらかを選ぶ状況に陥ったとしても、その人物の立場を理解している観客は、どんな選択をするのか前もって知っている。

善か悪か、正か誤かの選択は、選択ではない。(P298より引用)

真の選択とは、自己矛盾のジレンマにほかならない。
ジレンマはふたつの状況で発生する。
第一は、「両立しない善」をめぐる選択だ。
主人公にとってはどちらも魅力的で両方手に入れたいが、諸事情から一方だけを選ばざるをえない。
第二は、「ましなほうの悪」をめぐる選択だ。
主人公にとってはどちらも好ましくなく、どちらも拒みたいが、諸事情から一方を選ばざるをえない。
真のジレンマに陥ったときにどんな選択をするかを描けば、その人物の人間性と住む世界を力強く表現できる。(P299より引用)

「ドラマには葛藤が必要」ということは、ほぼすべての作劇に関する本で語られ、シナリオスクールで教えられていることだと思います。
ですが、私が知る限り「なぜ葛藤がなくてはいけないのか?」というところまで書かれた書物は、決して多くないでしょう。

「善か悪か、正か誤か」の選択を前にすれば、登場人物は「善と正」を選ぶだろうと、観客は容易に予想できてしまいます。
けれど、その選択にジレンマがあると、観客は「果たしてどちらを選ぶのか?」に惹きつけられ、、結果的にどちらを選んだによってその人物の人間性、生き様を知ることになるわけです。

ホメロスの時代から、作家はジレンマの原理を理解し、二者間の関係を語るストーリーが持続しがたいこと、登場人物Aと登場人物Bの対立や葛藤を語るだけでは満足なものにならないことを知っていた。
二者間の対立や葛藤はジレンマではなく、プラスとマイナスのあいだを揺れ動いているだけだ。
たとえば、「愛されてる/愛されてない、愛されてる/愛されていない」と繰り返すのは、好調と不調のあいだを行きつもどりつして、解決できないストーリーの問題をみごとに表している。
退屈であるばかりか、これでは決着がつかない。(P299~300より引用)

真の選択を的確に描き出すには、三面性のある状況を作る必要がある。現実の人生と同じく、意味のある決断は三角形で表せる。
Cを加えたとたん、繰り返しを回避する豊富な材料が生まれる。
まず、AとBのあいだには、たとえば「プラス/マイナス/中立」、「愛情/憎悪/無関心」などといった三種類の関係が成り立つが、この三種類をAとCのあいだ、BとCのあいだにも加えることができ、これで九種類になる。
あるいは、AとBを組ませてCに対立させたり、AとCを組ませてBに、BとCを組ませてAに対立させることができる。
さらに、全員が愛し合っていたり、憎しみあっていたり、互いに無関心であったりという関係もありうる。(P301~302より引用)

また、三角形は終結をもたらしてくれる。
AがBを選ぶか選ばないかだけで揺らいでいる二者間の物語なら、結末はなかなか決まらない。
だが、AとBとCにはさまれる三角関係なら、Aがどちらか一方を選ぶことで、はっきりした結末を迎えることができる。(P302より引用)

要素を一つ増やす(人物を一人増やす)ことで、描ける世界は一気に広がります。
私自身も、「二人の人物の関係を描こうとして行き詰っていたストーリーが、第三の人物を加えることで動き出した」という経験がありますし、四人目も加えれば、変化していく関係性のバリエーションはさらに増えます。
ただし四人にすることでバリエーションが増え、複雑になる分だけ、書き手には、より高いスキルが求められる、とも言えるでしょう。


どの葛藤レベルで対立するどんな欲求であれ、現実のものであれ、架空のものであれ、考え出すことは可能だ。
しかし、これにも共通の原則がある。
選択はただの疑念ではなくジレンマを生まなくてはならない。
そして、善悪や正誤のどちらを選ぶのではなく、同等の重みと価値を持つプラスまたはマイナスの欲求の一方を選ぶ形にする必要がある。
(P303より引用)

☆「第3部ストーリー設計の原則 11 シーンの分析」に続く

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脚本、小説のオンラインコンサルを行っていますので、よろしければ。

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※このブックレビュー全体の目次は以下の通りです。
第1部 脚本家とストーリーの技術
(1)ストーリーの問題

第2部 ストーリーの諸要素
(2)構成の概略
(3)構成と設定
(4)構成とジャンル
(5)構成と登場人物
(6)構成と意味

第3部 ストーリー設計の原則
(7)前半 ストーリーの本質
(7)後半 ストーリーの本質
(8)契機事件
(9)幕の設計
(10)シーンの設計
(11)シーンの分析
(12)編成
(13)重大局面、クライマックス、解決

第4部 脚本の執筆
(14)敵対する力の原則
(15)明瞭化
(16)前半 問題と解決策
(16)後半 問題と解決策
(17)登場人物
(18)ことばの選択
(19)脚本家の創作術

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