読書備忘録_7

【読書備忘録】素晴らしきソリボから吉陵鎮ものがたりまで

素晴らしきソリボ
*河出書房新社(2015)
*パトリック・シャモワゾー(著)
*関口涼子(訳)
*パトリック・オノレ(訳)
 誰がソリボを殺したか? マルティニークのフォール・ド・フランス。カーニバルの夜、言葉の達人たるソリボ・マニフィーク(素晴らしきソリボ=美しき敗者)が「言葉に喉を掻き裂かれて」急死を遂げる。謎めいた語り部の死。巡査部長を筆頭とする警察官は事件の匂いを嗅ぎとり、現場に居合わせた十四人の聴衆を取り調べる。ここまで概要を追うとミステリーかサスペンスを連想するが、本作品の特色は十四人の聴衆の供述から浮かびあがるソリボの存在、クレオール語の口承性、ソリボの口上を通して描きだされるマルティニークの歴史といった大規模な主題に認められる。しかしこの主題を小説に落とし込むにはパロールからエクリチュールに変換するという難題をクリアしなければならず、物語の記述者であるシャモワゾー自身の葛藤に繋がる。音声としての言語とは、文字としての言語とは、そうした言語自体に関する思索を物語化したものが本作品とも言えるのではないだろうか。非常に翻訳の難しい作品(厳密には不可能)だと思うが、限界まで原語の味わいを引きだした訳者さんたちの功績は大きい。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309206707/


グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故
*白水社(2017)
*伊格言(著)
*倉本知明(訳)
 原発問題、政府のあり方、外交、さまざまな社会問題を読者に問いかける痛烈にして挑戦的なディストピア小説。台湾における原子力発電所の歴史は言わずもがな、本邦の福島原発事故といった現在進行中の諸問題も本作品の主題に含まれており、実在する人物・団体の名前もろとも未曾有の大事件に巻き込ませる展開が生々しい。構成も特徴的だ。物語は台湾郊外の第四原発が突然原因不明のメルトダウンを起こした西暦二〇一五年、第四原発のエンジニアでありながら事件当時の記憶を失っている林群浩が担当カウンセラー李莉晴とともに真相に迫る西暦二〇一七年を往来する。主人公の記憶が失われていたり、親しい人物たちが姿を消していたり、緻密に用意された障害に阻まれることで同時代の別視点を眺めている気分になる。接近する原発事故。接近する時期総統選挙。二〇一五年の林群浩と二〇一七年の林群浩が追いかける政治の闇。原発や政府に対する批評的な面があり、非常に思想性が強い。まるで虚構の枠から抜け出る怪物を垣間見た気がする。それでいて純粋にサスペンスとしても楽しめる贅沢な一品。
http://www.hakusuisha.co.jp/book/b285562.html


傾いた世界 自選ドタバタ傑作集 2
*新潮文庫(2002)
*筒井康隆(著)
 爆笑必至のドタバタ小説七編を収録した短編集。込みあげる笑いをとめられなくて何度も読書を中断した。関節を鳴らして話すマザング星人との対話、傾き始めたマリン・シティで繰り広げられる壮絶な意地の張り合い、布団に乗ってあちらこちらのたくり込む現職の通産大臣とその秘書官の珍妙なやりとり、台風吹き荒れる中違法のおんぼろ飛行機で帰還を目ざす命がけの旅、地球人とは根本的に異なる常識を持っているマグ・マグ人と交わす地獄のようなコミュニケーション、凶悪犯から家族を救うため我が身も凶悪犯となるところから始まる脅迫の応酬、飛行する夢を追い求めて飽くなき研究と実践を繰り返す男の人生。腹を抱えて笑わずにいられない破天荒な展開。同時に「果たして笑っていてよいものだろうか」という疑念に駆られる風刺性にも富んでおり、まさに筒井康隆氏ならではの秀逸なコメディSFが実現している。個性的な命名も味わいを深める要因になっている。
http://www.shinchosha.co.jp/book/117144/


あの夕陽・牧師館 日野啓三短篇小説集
*講談社文芸文庫(2002)
*日野啓三(著)
 日野啓三が初めて手がけた小説『向う側』や、芥川賞受賞作『あの夕陽』といった初期作品を収録した短編集。『あの夕陽』は妻との離婚体験を告白する私小説と思いきや、単なる暴露にとどまらない複雑な人間模様の描き込みも映像的な筆致も虚構性を有しており、物語としての面白味に満ちている。頭に包帯を巻いたあらゆる音を聞きわけられる少女との不思議な交流を描いた『星の流れが聞こえるとき』に限らず、どの短編小説にも消失・消滅が扱われている点が興味深い。池澤夏樹氏が解説で触れていたように日野啓三作品に登場する人々は日常という牢獄に囚われ、懸命に脱却を目ざしている。その脱却の仕方は千差万別だが、まるで主人公に見送られるように〈どこか〉に去るのだ。地に足を付けているからこそ生きる幻想性がそこにはある。こうした日常・世間という概念を追究し、非日常というよりは新たな日常への変化を表現する作者の柔軟な発想力・創造力には感嘆するばかり。お恥ずかしながら日野啓三の小説を拝読したのは本書が初めてだった。これを機会にほかの作品も読みたい。問題は品切ればかりである点。http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061983090


ノーホエア・マン
*白水社(2004)
*アレクサンダル・ヘモン(著)
*岩本正恵(訳)
 ユーゴスラビア紛争から逃れて各国を遍歴するヨーゼフ・プローネクの物語と言えば簡単だが、不連続的な構成や変化する視点に加え、信頼できない語り手の要素も盛り込まれた練りに練られた構造なので、難民の苦悩とかアルバイトで糊口を凌ぐ生きざまとか、そうした一貫した主題に安易に落とし込めるものではなく、一言で語るのは並大抵のことではない。言語的な実験性、〈私〉と〈ヨーゼフ・プローネク〉の奇妙な関係、民族間の衝突に端を発する人種問題、急激に変わる語り口。挿話がつみかさなる物語を追いかける過程では何度も混乱の渦に巻き込まれるが、草木をかきわけるように読み解いていくと叙事詩をほうふつさせる大きな物語が見えてくる。オーウェンとブルジャニンを交える短い探偵活動は作中において特殊な立場にある逸話だが、さりげなく本作品の主要テーマが集約されている重要な場面だ。
http://www.hakusuisha.co.jp/book/b204793.html


二百回忌
*新潮文庫(1997)
*笙野頼子(著)
 第七回三島由紀夫賞受賞作『二百回忌』を含む四編を収録した短編集。魔術的リアリズムと称されるだけあり、どの作品も現実と幻想を交えた不可思議な物語だ。『大地の黴』における黴や骨、『ふるえるふるさと』における蛇やオオマツリ。こうした物語の鍵を握る単語の散りばめ方が秀逸で取り憑かれる心地になり、現在と過去も物理的存在も精神的存在も混在し、時間を超越するように交わされる対話に快い混乱を覚えた。スカトロジー小説『アケボノノ帯』でも生前の龍子と死後の龍子が奇怪な呼応を見せる。『二百回忌』ではこの時間感覚の崩壊が物語を大きく左右することになる。主人公の父方の家では二百回忌に死んだ親族が蘇って法事に出席するのだが、法事中は二百年分の時間的ずれが生じるため銀行で金をおろすと明治時代の札が出てくるような異常な出来事が多発する。まして生者と生前のイメージで再現された死者がところ狭しと入り乱れる光景は不気味を超えて滑稽でもある。これだけ突拍子もない現象を自然的な事柄として表現する筆致は真似できるものではなく、こうした特色に魔術的リアリズムと呼ばれる要因があるのだろう。
http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784101423210
(※リンク先は版元ドットコム)


誰がドルンチナを連れ戻したか
*白水社(1994)
*イスマイル・カダレ(著)
*平岡敦(訳)
 舞台は中世アルバニア。遠国に嫁いでいた娘ドルンチナが突然真夜中に帰郷する。母親に対して、彼女は兄コンスタンチンに連れてきてもらった経緯を話す。しかしコンスタンチンは三年前に死んでおり、母と娘はともに驚愕と悲哀のどん底に突き落とされる。物語は地方警備隊長ストレスにこの事件が伝えられるところから始まる。死者の蘇りは異端思想にあたるため正教会としては何としても真相を突きとめなければならない。ストレスは懸命の捜査をおこなうが、愛する妹を故郷に連れていくため墓地より蘇ったというコンスタンチンにまつわる美談は噂となって拡大していく。詳細は本書を読んで確認していただくとして、怪奇的な面を見せるかと思えば宗教問題に発展し、風説の主役であるコンスタンチンが徐々に流言飛語という現象自体を象徴し始める展開が面白い。教義を守るためなら強引な手口も辞さない正教会の必死さといい、鎮火に努めるほど逆に火勢が増す世相のありようといい、随所に皮肉が効いている。
https://books.rakuten.co.jp/rb/635346/
(※リンク先は楽天ブックス)


マリアネラ
*彩流社(1993)
*ベニート・ペレス・ガルドス(著)
*阿部孝次(訳)
 舞台は一八〇〇年代のスペイン北部にある鉱山町ソカルテス。裕福な家の子息ながら盲目で活動が制限されているパブロ、彼の目となり手引きに精をだす貧しい孤児マリアネラ。二人は互いに信頼の絆で結ばれており、パブロは自分を導いてくれるマリアネラを神聖な存在として敬い、愛を告げる。けれどもマリアネラは醜い容貌でパブロの偶像としての自分と現実の自分の相違に深く苦悩する。それはソカルテスに有名な眼科医ゴルフィン博士が招かれ、美しきパブロの従姉妹フロレンティーナが現れることで彼女を、彼女の身近な人たちを巻き込む大きな歪みに昇華する。医学の進歩がもたらす奇跡、奇跡がもたらす悲劇、科学と偶像の痛烈な摩擦、あまりにも皮肉な現実がそこにはある。権威主義的で古い思想に囚われた人たちと革新的で思慮深い人たちの板挟みになる少女の孤独は鬼気迫る様相を呈し、パブロの視界のように鉱山町全体にも影を落としていく。情熱的な心理描写が本作品を引き立てており、避けられない不幸に突き進む展開に胸を打たれる。http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-88202-250-3.html


河・岸
*白水社(2012)
*蘇童(著)
*飯塚容(訳)
 文化大革命期の中国が舞台と聞けば政治色や軍事色を前面にだした作風を連想するが、本作品はあくまで江南の町〈油坊鎮〉で生まれ育った庫東亮の回想録を生々しく彩る舞台背景が基礎となっている。しかし庫東亮の人生は少年期から波瀾万丈だった。彼の父庫文軒は革命の犠牲となり記念碑を建立された鄧少香の息子とされていたが、血筋を疑われて、数多の女性問題を暴露されたことがかさなり失脚。英雄の孫である庫東亮は一転して〈空屁〉と侮蔑され、父と船上生活を送り始める。規律のため自己犠牲を受け入れざるを得ない窮屈な世界。水上の人間は陸上の人間に蔑まれ、庫東亮は勃起することも許されない禁欲を強いられる。当時の文化的抑圧が親子や水陸の関係を通して隠喩的に語られており、濃厚な描写も相まって読みながら胸苦しさを覚えた。こうした抑圧と束縛は、少女江慧仙が母親と〈油坊鎮〉に流れ着いて以来さらなる懊悩を少年にもたらす。本作品はよい意味でストレスのたまる物語だ。共感できる人間はいないし、善人もいない。誰もが煩悶しながら狂暴になり、不幸を背負いながら生きている。
http://www.hakusuisha.co.jp/book/b206366.html


吉陵鎮ものがたり
*人文書院(2010)
*李永平(著)
*池上貞子(訳)
*及川茜(訳)
 台湾熱帯文学シリーズの先陣を切る小説。本作品の主題を汲みとるには馬華文学に関する知識と、マレーシア・ボルネオ島生まれの作者李永平の中国語・中国文化に対する認識を理解する必要があるかも知れない。馬華文学とは端的に言えばマレーシアの華人による華語文学のことで、華語である点を重視した文学運動を指す。この歴史に疎い自分は李永平の文章にこめられた真意を読みとれたのだろうか。情けない話ではあるが、断言はできない。けれども吉陵という残虐性に満ちた血生臭い世界、棺桶を削る行為や大蛇亀殻花にまつわる克三の独白に認められる寓意性、四巻十二編にわかれながら各話が呼応しているオムニバスならではの構造美、こうした特徴が小説としての面白味・醍醐味を深めていることは自信を持って言える。閉鎖的で汚らしい街の情景を眺めるだけでも楽しい。特に物語のクライマックスを飾る巻四〈花雨〉における華やかさと汚さが混在した雑踏の表現は圧巻であり、手持ちのカメラで撮影されたような真に迫った喧噪を堪能できる。
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b73889.html


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 読書備忘録ではお気に入りの本をピックアップし、感想と紹介を兼ねて短評的な文章を記述しています。翻訳書籍・小説の割合が多いのは国内外を問わず良書を読みたいという小生の気持ち、物語が好きで自分自身も書いている小生の趣味嗜好が顔を覘かせているためです。読書家を自称できるほどの読書量ではありませんし、また、そうした肩書きにも興味はなく、とにかく「面白い本をたくさん読みたい」の一心で本探しの旅を続けています。その過程で出会った良書を少しでも広められたら、一人でも多くの人と共有できたら、という願いを込めて当マガジンを作成しました。

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