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【短編小説#9】エスカレーター
駅の乗り換えに利用される通路には、エスカレーターと階段が設置されている。
いつも、何気なく通り過ぎる通路。
たくさんの人が行きかう通路。
僕は、いつもエスカレーターを使っていた。
何も考えず、エスカレーターを使用していたんだ。
昨日、父が死んだ。50歳。早すぎる。
いるはずの人が、突然いなくなる。
僕はもう、父の笑顔を見ることができないのだ。
誰かの感情は、僕の心があるから表現されて、僕の心は誰かの心があるから表現される。
僕の心は、誰かという物体や心があって成り立っている。
僕の心はもう、父の心を通して表現されることがない。
死ぬという事は、単純にただそれだけなのかもしれない。
昨日までは感じられなかった感覚が僕の心に芽生えていた。
歩いている僕の目の前には、いつも通り、エスカレーターと階段が現れた。エスカレーターの方には、乗り込む前に列を作って、並ぶ人がいる。
階段を選ぶ人も、もちろんいるが、少数派である。エスカレーターを選ぶ人が大多数だった。
僕も、今まで階段を使ったことは無い。
今日、初めてどちらを使おうか迷っていた。
階段を上る人。
エスカレーターに乗る人。
エスカレーターに乗って歩く人。
どちらが先に上に付くかと言えば、エスカレーターに乗って歩く人になる。
僕は昨日まで、
エスカレーターに乗って止まっているか、
エスカレーターに乗って歩く、
のどちらかの選択しかしていなかった。
エスカレーターの先の目的地が死だとしたら。
僕の父は、エスカレーターに乗って歩く人だろう。
僕の家族の中でも、最も早く目的地に着いてしまったから。
今日、初めて、階段を選んでみようと思う。
そこにはどんな世界があるのだろう。
とても長い階段。
一番上までたどり着くのは、最後になるかもしれない。
僕と同じように上る人もいれば、下りてくる人もいる。
急いでいるのかなと感じる人。
子供と手をつないで、ゆっくり降りてくる人。
エスカレーターに乗る人に比べて、階段を使っている人には意思が感じられた。目的地に向かっているという意思。
そりゃそうか、自分の足を使わないと前に進まないのだから……
僕の世界は、父の死によって変わり、普段しない選択によって変わる。
普段しない選択により、思考は変わる。
思考が世界を作っている。
この世界は、そうやって出来ている。
普段しない選択により、豊かになる。
父はもう、僕に何の影響も与えられない。
ただ、僕の中に父は生きていて。
僕の行動が、父になる。
そうだ、もうすぐ僕らの子が生まれるんだ。
僕も父になる。
そして、いつか辿り着く場所がある。
階段を登り切った先には、お腹を大きくした僕の妻がいて。
その表情は、いつもの笑顔だったけれど……
階段を使った僕には、最高の笑顔だった。
足早に妻に近づいて、妻の手を取る。
もう、何か月も妻と手を繋いでいなかったから。
妻はちょっと驚いていたけれど。
僕と妻の距離は確実に近づいて、妻は僕に尋ねた、
「何かいいことあったの?」
って。
僕は、
「階段で疲れてさ。でも良かったよ」
って返す。
妻は、
「なんか変なの」
と言って、2人で歩き出す。
そして、2人で駅の階段を上る。
繋いだ手はそのままで。
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