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2000年に社会に出た私はスタートから負けていた

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超氷河期に2流大学を卒業した私が、潰れながら、途方にくれながら「社会って、仕事ってなに」をもそもそと模索していった過程をまとめています。自分に聞いた「仕事!」論。
運営しているクリエイター

#おんなの働き方

まえがき(恋と同じくらい大切にしてきたもの)

まえがき(恋と同じくらい大切にしてきたもの)

私の職業は、コピーライターです。
といっても、「不思議、大好き」のようなでけぇコピーや
「TSUBAKI」のような1日何万人もが口にするであろう
商品のネーミングをするようなことはなく

港区にある、社員20人ほどの小さなデザイン事務所で、
中小企業のお客様に頼まれたパンフレットやムービーやwebを
作るためにコンセプトを作ったり取材をしたり
文章を書いたりするコピーライターです。

23歳で社会

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1. 超氷河期。我々はジャングルの奥深くマンモスゼロ地帯へ

1. 超氷河期。我々はジャングルの奥深くマンモスゼロ地帯へ

超氷河期(2000年)に二流大学を卒業して、社会に出ることになった私たちの就職活動は、壊滅的でした。なので私自身はもともと社会や仕事にキラキラ輝ける要素を全く感じていませんでした。
一方で、1986年に男女雇用機会均等法が施行されており、腰かけ(この言葉も古いですネ。このネの使い方もね)での就職はかっこわるいな、という意識もありました。一般職なんて、普通のOLなんてつまらない。などと思っていたわけ

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2. RENTに背中を押されて夜逃げしました。

2. RENTに背中を押されて夜逃げしました。

社会人最初の会社(音楽事務所)での仕事は、ピアノのコンクールに関わる事務作業でした。応募者からのハガキをまとめたり、データに打ち込んだり、諸作業をパートの方々に指示出ししたり。ベンチャー企業だったので、みなさんハイスペック&成長意欲旺盛な方々ばかりでした(やや無理をしているように私には見えましたが。)
私は、事務仕事が全くできませんでした。まず、パソコン自体が苦手でした。最初の会議で、先輩方がおの

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3.そうだ、コピー書こう。

3.そうだ、コピー書こう。

本当にコピーライターなんだろうか…というタイトルですが。
音楽事務所から逃亡したあと私は、実家に帰りました。「本当にあんたは辛抱ってもんが」とか言うかなと思っていた親は、私の無断退社に関して何も言いませんでした。ああ、もう私は怒られる年齢じゃないんだな、と思いました。(その2年後にクッソ怒られることがあるのですがそれはまた別の話)
私は思いました。「好きなことじゃなきゃ続かない。仕事ってそもそもつ

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4.コピー500本ノックは失恋女を救う。

4.コピー500本ノックは失恋女を救う。

養成講座は、まず基礎クラスに3ヶ月通ったと記憶しています。コピーとは、広告とはなんぞやと教わる講義が主でした。課題が出されるのですが、書きやすく面白いお題ばかりで、採点も優しかったと思います。講師の方も、受講生の良いところを見つけ、よく褒めてくださいました。
さて、私がこの講座に通ったいちばんの動機は「コピーが書けるようになりたい」ではありません。「ナカダさんのことを考えてしまう頭のスペースを埋め

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5.恋だの夢だの浮かれないでください。

5.恋だの夢だの浮かれないでください。

コピーライター養成講座の実践クラスは、電通コースと博報堂コースに別れていました。「電通コースはアイデアを磨くことに重きをおいていて、博報堂コースは職人的にコピーを書きます」という概要を聞いて私はなんとなく博報堂クラスかな、と思いました。素晴らしい講師陣のもと、クラス内でのライバルを勝手に決めて(マインドに寄せたコピーが上手でよく褒められているすーちゃんをライバルに設定しました。寄せすぎて寒い感じの

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6.劣等感とプライドの両輪で進め、新米コピーライター。

6.劣等感とプライドの両輪で進め、新米コピーライター。

未経験の私をコピーライターとして雇ってくれた目黒の広告代理店は、社員20人程の小さな会社でした。社会に出てやっていけるのか、またストレスで倒れたりしないか、不安でいっぱいだった私に、小さくも確実な自信をつけてくれた会社です。そして、今も大切な友人である人たちと出会わせてくれた会社でもあります。
求人雑誌の小さな枠を作る仕事でしたが、コピーライターという肩書きは、やっぱり嬉しいものでした。営業がとっ

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7.恋は終わり、コピーライティングは続く

7.恋は終わり、コピーライティングは続く

私はすっかり社会に適合できた気分でした。制作のメンバーと夜作業をしながら喋るのは楽しくて、そこでどんな会話をしたか最寄駅から家に帰る道で彼に電話し、再現していました。当時、私の月給は笑っちゃうくらい15万円でした。ボーナスは驚くほど5万円でした。それでも、自分の書いた文字が世の中に出ることが嬉しかった。誰にも怒られず仕事ができていることが嬉しかった。制作の仲間たちが好きでした。
ある日「今日ボー

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8.停滞する毎日から脱出する方法を見つけた。

8.停滞する毎日から脱出する方法を見つけた。

友達や親には、楽しくクリエイティブな仕事をしているようなことを言っていました。今日の撮影はすごく疲れたけどいい写真が撮れた…などと、mixiの日記に綴ったりしていましたが正直、写真のクオリティいまだによく分かりません。恋愛の方も、良いニュースはありませんでした。転職してまで、家を越してまでおつきあいをつなげようとした相手とは終わってしまい、なんとなく近くにいるけど曖昧な感じの男の子がひとりいました

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9.きょうは、おかあさんにおこられたはなしをします。

9.きょうは、おかあさんにおこられたはなしをします。

広告代理店の面接を受ける前に、まずは制作室の責任者と会う、ということで新宿のオフィスに向かいました。責任者は、おしゃれで、恐い顔をしたいかにもクリエイターっぽいおじさん(オカノさん)でした。その人と話しながら私はある違和感に気がつきました。「これはコピーライターの募集じゃない」ということでした。CDの募集でした。CDとはクリエイティブ・ディレクターのことで、クリエイティブの指揮をとり、また責任を負

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10.私なにもできませんのでそこのところ

10.私なにもできませんのでそこのところ

その某電鉄系広告代理店に入社したのは、30歳の8月2日のことでした。ひたすらにコピーを愛し、広告を作ることが夢「だった」頃があった私には、大好きなコピーがいくつかありました。ひとつは、エーザイ、チョコラBBの「今日、私は、街で泣いている人を見ました。」というコピーの神様・仲畑貴志さんのコピー。私はこの広告でクロスメディアに初めて出会いました。クロスメディアとは、複数のメディア(テレビやラジオ、ポス

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11.谷山雅計さんの言葉をあらためて考えてみる

11.谷山雅計さんの言葉をあらためて考えてみる

毎日、会社を辞めることを考えていました。CDはなんでもできる人なのに、私はコピーしか書けません。でも、コピーを書く仕事はほとんどありません。コピーなんて書けて当たり前なんだ、自分はその上の仕事をやっているんだ、できないことをなんとかしなくては、といつも焦っていました。そしてSさんを見ると、いつも暗い気持ちになりました。私の仕事は広告制作ディレクションでもなんでもなく、Sさんを怒らせないことでした。

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12. 狂人の下にも5年(いると自分を取り戻すのに5年かかります)

12. 狂人の下にも5年(いると自分を取り戻すのに5年かかります)

私は広告におけるCDというものをだいぶ勘違いしていたところがあります。オリエンを聞いた瞬間からゴールが見えていて、そのゴールを目指して手を動かせる人たちを「使う」みたいな感じです。そういう方ももちろんいらっしゃると思いますが、そうでない良いCDもたくさんいます。今ならそう断言できます。しかし当時はそんなスーパーCDみたいなことができないとダメだし、自分には無理だし、そんな自分には価値がないように感

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13.上のスタッフは文字で知らせてくる(私の場合)

13.上のスタッフは文字で知らせてくる(私の場合)

「俺と組まないならもう大きい仕事はできない」
Sさんにそう言われたときに私がそれほど動揺しなかったのは、単純に、大きい仕事は人が増えて調整ばかりさせられるからやりたくないということと、Sさんが私を干せる権限を持っていないだろうと思ったからです。会社にとってあくまでSさんは「うまく利用すべき人」で、人事などにおける影響はほぼないだろうと、まわりの方からの発言から考えられました。はたして、Sさんと離れ

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