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6.劣等感とプライドの両輪で進め、新米コピーライター。

未経験の私をコピーライターとして雇ってくれた目黒の広告代理店は、社員20人程の小さな会社でした。社会に出てやっていけるのか、またストレスで倒れたりしないか、不安でいっぱいだった私に、小さくも確実な自信をつけてくれた会社です。そして、今も大切な友人である人たちと出会わせてくれた会社でもあります。
求人雑誌の小さな枠を作る仕事でしたが、コピーライターという肩書きは、やっぱり嬉しいものでした。営業がとってくる求人案件をデザイナーと共有し、私がコピーを書いて、デザイナーが仕上げます。デザインしている間に私はスペック部分(募集要項)を専用のマシンに打ち込み、週1回データを入稿するというのが主な仕事の流れです。シンプルですね。最初の頃の仕事でよく覚えているのは、中高生をコアターゲットとしたカジュアルブランドのデザイナーとパタンナーの募集でした。私はいくつかコピーを書き、先輩のコピーライターに見せました。先輩は「うううううううん」とうなって見ていました。あとで分かったのですが、コピーって、書くよりもジャッジの方が難しいのです。そのなかで「遊びごころの、見せどころ。」というコピーを掲載することになりました。とらばーゆの1/3ページ、横長の原稿でした。発売日には、母がとらばーゆを買ったと連絡をくれました。自分のコピーが活字になって載っている。素直に、とても嬉しいことでした。私が入社したのと同じ日に、2歳年下のデザイナも入社していました。面接をしてくれたCDの男性が辞めるため、我々女子ふたりが採用されたというわけです。当時はそのことについて、ベテランのかわりに新人ふたりって…と思っていましたが、その会社においてはCDなどはあまり必要なく、とにかく人の手が必要な会社だったということです。
私のコピーは、受けました。クライアントから「いいね」をもらって、私のコピーは講座だけでなく社会でも通用するんだ、と少し自信がつき、自分は言葉のプロだという自覚が芽生えたような気がします。その自覚、少し早すぎるんですけどね。これが自分を苦しめるのですが、そのときはそう思いました。言葉のことなら私に任せとけ、と。しかし同時に「自分のいるところは、広告業界のずいぶん下の方だよね」という自覚も持っていました。コピーライターというプライドを持ち始めた一方、いわゆる街で目に入ってくるような「広告」を作っていないという思いで私はこじれていきました。職業を聞かれてもしばらくは「コピーライターの卵というか…」という言い方をしていたと思います。自信のなさとプライドを出したりしまったりしていました。クライアントや営業が提案してくるコピーをダサいと決めつけ、友人に会うとそれを話して笑いました。「業界用語」のようなものがあるんだよ、と得意げにしゃべっていましたが、私がその会社で業界用語だと思っていたのは「パンチラ(パンフレットとチラシ)」や「ケツ(締め切り)」などで、本当の業界人はそんな言葉を使っていなくてただ下品なチームだったというだけだと思います。毎週末の締め切りに向かって、私はとにかくコピーを書き、データを入力しました。毎日朝9時から22〜23時くらいまでは働いたでしょうか。「創る」というよりは「作業」という感じでした。それでも私は幸せでした。「よく分からないまま、自分が謝る状況になっている」というイリュージョンはここでは生まれなかったからです。
入社してしばらくして、「取材原稿」というものに出会ったことが、私を少しだけ変えました。広告内に社員の顔写真が掲載されていて「仲間がいるから頑張れる」みたいなコピーが入っている、アレですね。なんと、取材ってコピーライターの仕事だったのです。そりゃそうか。
40代のおじさん営業に連れられて、新宿にある不動産会社のオフィスに行きました。その会社でかなり売り上げるのであろう頭の良さそうな男性が取材対象者でした。では取材を、と言われ、録音テープ(カセットでした)を回して私は頭が真っ白になりました。ノートにメモしてきた質問を、私は1から順に読み上げました。
「入社の動機はなんですか」
(回答をノートに書く。その間沈黙)
「次に、お仕事のやりがいはなんですか」
(回答をノートに書く。その間沈黙)
「今後の目標はなんですか」
(回答をノートに書く。その間沈黙)
取材には、なりました。原稿は書けました。取材相手が親切だったからです。でも我ながら負けた感に溺れそうになりました。私の取材は、とにかく下手くそでした。小学生が社会科見学で工場の人に質問しているみたいでした。一緒にいた営業のおじさんが場を和ませるために雑談をして、ぶちぶちと途切れる取材の間をつないでくれました。
学生時代に書店でアルバイトしていた頃、各フロアにひとつあるレジを2人で担当していました。私はどのメンバーと一緒でも自分が楽しく過ごすことができるよう工夫していました。まず相手の話を聞く。相手のいいところ、面白いところが見えて来る。それを自分の言葉で伝える。そうすると、あるとき相手がその人の「真ん中の話」をしてくれることがあるのです。なんとなくみんなに話しているようなこと「じゃない」ことですね。スクープのようなものと言えるでしょうか。スクープを聞けると私はとても嬉しかった。その話には、その人がその人である理由のようなものが見えるからです。その本屋のレジで、この世に面白くない人はひとりもいないんだ、ということを私は学びました。
なのに、コピーライターになりたての私は、取材でそれができませんでした。相手を「面白い話をする人」として見ることができなかったのです。だんだん担当する広告の本数が増え、1ページなど広いスペースも任されるようになって、取材の内容ももっと濃くなければもたないようになっていきました。ちなみに1日11人の取材をしたのが私の最高記録です。毎回「下手で恥ずかしい」と思いながら試行錯誤していた取材ですが、ブレイクスルーは突然やってきました。相手の答えを、自分の言葉で言い換えて聞き直し、さらに話を広げていくことが、あるとき突然できたのです。取材対象者は、偶然にも取材がヘタだと最初に自分が自覚した人でした。「なにかエピソードないですか」と聞かずに、相手のとっておきの瞬間を聞き出すこと。相手が、それまで忘れていたようなことも思い出してしゃべってくれることも増えました。取材の時間は長くなりましたが、原稿は濃く、その「人」が見えてくるものになりました。キャッチコピーも自分の頭で考える以上のものが出るようになりました。取材を通じて、自分のなかにない相手の言葉が入ってくるからです。これはコピーライターとして成長する近道のひとつだと思います。私の一問一答取材をフォローしてくれた営業が言ってくれました。「取材、掴んだね」。私もそう思ったけど、人からもそう見えたのだとすごく嬉しかったです。
取材ができるようになって、求人広告にまとめるのも慣れてきて、後輩なんかも入ってきて、私はなんだか「クリエイティブのことはすべてわかった」みたいな気持ちになっていました。浅はかとはこのことです。その頃の私は、営業スタッフなどにコピーに対して意見をされるとあからさまにムッとしたりしていました。なぜか。どう直したらいいか、引き出しが少なくて提案できないのです。さらに、「人が何を言っているのか理解できない」という私の決定的な欠点も克服していませんでした。修正の意味が、理解できないのです。シンプルに何をどうしたらいいか分からないのです。バスケットボールでボールを持ったままパニックになってピボットをし続けるような私。でも「素人が意見しないで」という顔をしていました。厳しいスケジュールの仕事にもがんがん文句を言いました。どうせ夜遅くまで働くのだからと、昼間は制作の仲間と雑談をしたり、お菓子を食べたりしていました。会社に電話がかかってきても取りませんでした。「仕事をしてあげている」そんな意識だったのかもしれません。コピーライターとしては成長していたかもしれませんが人としてどうなのか。そんなことに気がつかないふりをしている日々でした。


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