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10.私なにもできませんのでそこのところ

その某電鉄系広告代理店に入社したのは、30歳の8月2日のことでした。ひたすらにコピーを愛し、広告を作ることが夢「だった」頃があった私には、大好きなコピーがいくつかありました。ひとつは、エーザイ、チョコラBBの「今日、私は、街で泣いている人を見ました。」というコピーの神様・仲畑貴志さんのコピー。私はこの広告でクロスメディアに初めて出会いました。クロスメディアとは、複数のメディア(テレビやラジオ、ポスターなど)を使った宣伝の手法です。CMが素敵で、保存したくて、テレビの前にじりじりと座ってビデオ録画していた私は、そのポスターを駅で見て、とても感動しました。もうひとつは車内吊りポスターの吉川ひなのちゃんが可愛かった「愛に雪、恋を白」というJR SKISKIの広告コピー。これは一倉宏さんという名コピーライター(ANAの「いい空は青い。」なども制作)が手がけた作品です。そういうコピーは、求人広告や会報誌では書けない。そんなふうに勝手に諦め、恋愛にかまけていた私は、広告代理店に入ったら自分もそんな広告作れるのかも? とちょっと心踊っていました。そして「10代から20代は一生懸命恋をしたから、30代は仕事に力を入れようかな」と思いました。私なりに張り切っていました。しかしディレクターでの採用ということは、とても不安でした。これまで印刷のことも写真のこともデザインのことも、適当にチラ見しているような働き方でしたから。イチから学ばなくちゃ、と思っていました。いや、違いますね。そうだったら、あんなに酷いことにはならなかったかもしれません。正しくは 「イチから教えてもらおう。私なにもできませんから。」と思っていました。
いままでの会社と違ってたくさんの人がいるフロア、私は緊張していました。私を会社にねじこんでくれたオカノさんや隣の席のイケダ先輩が優しそうなのが救いでした。私の直属の上司となった男性、Sさんは、会話をするのが難しい人でした。声がハスキーであることも一因ですが、わざとわかりにくく話しているのかな?と思うくらい話す順番が普通の人と少し異なること、それでわからない様子をすると威圧するような口調になることなど、苦手なタイプでした。そして私は「苦手な人の話していることが聞き取れない」という欠点がありました。いま書いてても「逃げろ!」と思います…。でも、周りの人々のSさんへの気遣い方を見ると、Sさんは偉い人で、実は仕事ができる人なのかなと思いました。Sさんは、営業スタッフや若いスタッフに対してとてもきつくあたる人でした。一方で寂しい人で、理解を示してくれる人にはどんなに年下であろうと甘えました。少しでも自分の不利益なことがあると気が違ったように怒り、普通の精神では言えないような言葉を相手に言いました。あからさまに相手によって態度を変えました。人前でその人の失態やミスを大声で言い人に恥をかかせる、ということも彼が得意なことのひとつでした。ディレクターとしての仕事がなにもできなかった私は、毎日Sさんの暴言を浴びることとなりました。昼食も一緒に行かなくてはいけなかったのですが、食事中ずっと怒られていてお蕎麦にほぼ口をつけられなかったこともありました。Sさんは私より17歳程年が上で、私と同じ年の奥様に逃げられて間もない頃でした、私は(そして周りにいる人々は)、大げさではなく毎日元奥様の話を聞かされました。コピーライターなのに、こんなに酷い言葉ばかりを使う人がいるんだ、という驚きがありました。
1ヶ月で入社を後悔し、前社の同僚へメールをしました。会社に戻らせてもらおうと思ったのです。「聞いてないの?うちのクリエイティブ、年内で解散するよ」同僚からの返信は予想外のものでした。私が辞めた直後にクリエイティブ解散の通達が出たとのこと。同僚は「知っていて辞めたんだと思っていたよ…」とも書いていました。
私は、行き場所がなくなりました。でもそれは、ここで頑張れと神様のようなものが言っているのだと思い(それはある意味正解でしたが)続けることにしました。
Sさんには、お気に入りの制作プロダクション(発注先)がありました。営業スタッフからも「あそこにばかり依頼するけど、癒着?」と言われるほどSさんの発注は1社に偏っていました。どうやらそこのCDの男性、カメタさんに憧れているようでした。入社初日からカメタさんのことを友達を自慢するように、苗字を呼び捨てして私に話しました。実際に会ってみると、カメタさんはなるほど都会的でおしゃれな方でした。Sさんは本人の前ではもちろん決して呼び捨てにはせず、ひたすら「俺ら」感を出していました。ふたりでうちの会社の若い営業スタッフの悪口を言っては笑っていました。仕事において、余裕があるようにふざけるのは、レベルの高い人だけに許されることだと私は思います。バンドで言うならばユニコーンとかです。Sさんは、すぐにテンパります。振られそうな女みたいなキレ方をします。そういう人に俺ら感出してほしくない。と私は思っていました。(俺ら感て、分かりますかね?? 俺らキャラ濃いっしょ、俺ら人の言うこと聞かないっしょ、やんちゃっしょ、的なアレです)
一倉宏さんが書くような素敵なコピーを、深夜まで残って書いたりする自分を頭に描いていましたが、Sさんの部下だった5年間、広告の中身やクオリティを気にする余裕はありませんでした。とにかく着地をしてほしい。もめないでほしい。広告の出来なんてどうでもいい。そう考えていました。また、もうひとつ私を苦しめたことがあって、ライター出身の私はデザインの赤字が上手に入れられませんでした。これはかなり悩みました。確かに一倉宏さんなら、デザインにも赤字を入れられるのかもしれません。でもそれは、きちんと考えられ、基本的なスキルを使ったデザインに、だと思います。うちの会社は制作費も安く、発注するデザイナーも、レベルが高い人ばかりではありませんでした。同じくライターからディレクターになったSさんが1社に偏って発注をしていたのは、デザインがうまくいかないときに自分ではどうにもできなかったからなのだとあとから気がつきました。「ダサいけど、どうやって直したらいいのかわからない」その悩みは私にずっとつきまといました。私はどんどんデザインや写真が嫌いになっていきました。
またSさんは、自分が大切にされ、気を使ってもらえないと機嫌を損ねる人でした。そのレベルは失恋直後のメンヘラ女子のごとしでした。ある撮影の日、Sさんは待ち合わせ場所を間違えひとりで違うところにおり、それで機嫌を損ねてしまいました。撮影中もいつ怒鳴り出すかわからない表情で場を凍りつかせていましたが、終了後、ランチをめぐりSさんがあるかんちがいをしたことで営業の男子にクライアントの前で怒鳴り散らました。私は、本当に恥ずかしいと思いました。でも恐ろしくて、前日待ち合わせ場所を書いた紙を打ち合わせで配られたことも、怒っている理由がSさんのかんちがいであることも言えませんでした。
そんなSさんを怒らせないように、みなが気を使っていました。Sさんをはじめ、面倒な人とうまく仕事をまわせるひとが仕事のできる人、という風潮が会社自体にありました。「会社ってそういうものでしょ」私は、最後までそう思えませんでした。Sさんと話したくないから、報告が少しずつ遅れます。仕事上気づいたことがあっても、言いにくいことは言えません。「Sさんは脳に障害があるのだと思う」とはっきり言う人もいました。もっとも悲しかったのは「悔しいけどSさんの作ったこの広告はすごい」と思えるものがひとつもなかったことです。暴言の日々を超えようとするモチベーションは生まれませんでした。


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