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5.恋だの夢だの浮かれないでください。

コピーライター養成講座の実践クラスは、電通コースと博報堂コースに別れていました。「電通コースはアイデアを磨くことに重きをおいていて、博報堂コースは職人的にコピーを書きます」という概要を聞いて私はなんとなく博報堂クラスかな、と思いました。素晴らしい講師陣のもと、クラス内でのライバルを勝手に決めて(マインドに寄せたコピーが上手でよく褒められているすーちゃんをライバルに設定しました。寄せすぎて寒い感じのものをすーちゃんが出しちゃったときは心の中で小さくガッツポースをしたものです)野武士のように講師の評価を勝ちとることばかりを考えていました。
授業のあとは、いつものメンバーで飲みました。30歳の色っぽいマリさんは、クラタくんのことが好きみたいでした。彼女のコピーの出来はかなり痛い感じで、私は「年をとると書けなくなるんだな〜」と思いました。また50代の男性、エモトさんは、本当は小説家になりたいようでした。書いてきたものを読んでみてほしい、と言われて読みましたが、村上春樹を上手に真似した何も言ってない小説でした。
て、失礼ですよね。本当にすみません、みなさん。
でも失恋をコピーで必死に上書きしていた私は思っていたのです。
「あなたたち、コピー書きに来てんじゃないの?」と。
いつものように学校のそば、銀座の雑居ビル地下の安居酒屋で飲んで表に出ると、人々の首の角度がおしなべて変でした。みな電光掲示板を見上げていて、そこには「ニューヨークのワールドトレード・センターに航空機が突入、爆発」と書かれていました。酔っ払っていたこともあり、そのことをどこか遠くに感じながら帰宅しました。当時、私は父とふたりで暮らしていました。父は私が家に着くや否や「大変なことになったぞ、やい」というようなことを言いました。父は、若いころニューヨークで働いていたので、いちども行ったことのない私よりも、驚きやショックは大きかったと思います。私がお風呂から出て父の部屋をのぞくと、だるだるのタンクトップを着て片膝をつき、小さなテレビから流れる同じ映像をずっと見つめる父の後ろ姿がありました。私は自分の部屋に戻り、今日の講座で学んだことをノートにまとめました。世界が変わる節目になった日にも、コピーが私のすべてでした。
痛恨の風邪で、講座を休んでしまった日がありました。クラタくんに「次の課題を教えて欲しい」とメールしたところ、思いがけない返信にしばし頭が空っぽになりました。
「次の課題は…と…です。(中略)こうして俺は、これからも君を一生サポートし続けたい」
クラタくんは私のことを好きでいてくれたのです。そのときそれを初めて知った私が感じたことは、ただひとつでした。

こっちが失恋で傷ついてんのに、恋して浮かれてんじゃねえよ。

もうこの人、女でもなければ人でもない。イエティとかなの?
われながら混乱しますが、それが私の正直な感想でした。彼は、好きな女の子に毎週会えるのです。私は、もうたぶん一生ナカダさんと会えることはありません。そのことにぶつけようもない怒りを感じて、私はクラタくんの好意を徹底的に拒否しました。その後も何通かメールのやりとりをしましたが、クラタくんの想像のなかでは、私はもう一緒に海などに行っているそうでした。
「楽しそうでよござんすね」と私は思いました。彼は新聞配達をしながら養成講座に通っており、朝5時ころ、仕事終わりに電話がかかってくることも何度かありましたがこれは普通に迷惑でした。
講座の終盤になり、私は養成講座主催者のスドウさんからひとつの会社を紹介されました。求人広告に特化した広告代理店、とのことでした。リクルート系の雑誌(とらばーゆやB-ing)の、あの小さな枠のなかの広告を作る会社です。
主なクライアントはアパレル、とのことでした。スドウさんは言いました。「とりあえず、会社を選ばずに広告業界に入るんだよ。3年やったら、自分の好きな方向に行けるから」。
コピーライターになるには、色々な方法があります。学歴もトップクラスで、最初から大きな代理店のクリエイティブ試験に通りコピーライターになる人や、最初は営業などをやり、広告業界の基礎力をつけてコピーライターとなる人、また企業のなかでコピーを書く人がいなかったから書いていたら自然に、というような人もいます。どちらにしても、どんな道を経ても、広告業界で有名になるような力のある人はやはり若いうちから、業界内でよく知られている会社に行く(もしくはフリーとして起業する)と私はなんとなく思います。でもそういう道だと、特に20代は恋とかしている余裕はたぶんないです。いえ、するでしょうけど、恋を最優先にすることは難しいです。厳しい先輩の元、毎日修行同然の生活をすることになると思います。養成講座の女性講師も言っていました。徹夜で書いたコピーを先輩に見せたら丸めて捨てられて、それを拾い上げてシワを伸ばしてもう一度説明したと。そこに根性を感じたと先輩が評価してくれたと。私は、そういう仕事の仕方はいやでした。迷いや計算がなく恋に没頭できる若い時代に恋を後回しにするような人生だけは、絶対にいやでした(しかし私が恋を後回しにするような日はいくら大人になっても訪れないのでした。恋愛バカ一代。)
ヨリを戻した彼氏に就職の話をすると開口一番「コピーライターは無理だと思うよ」と言われました。「俺の姉ちゃんは早稲田の二文だから、わかるよ。らに(私)に文才はないよ。今まで通り本屋のアルバイトでいいじゃない」彼は、私との結婚を考えてくれているようでした。コピーライターは才能が重要なのではないと学んではいましたが、文才がないと言われたことはやっぱりショックでした。「バカなところがかわいい。」そういうことを彼はよく言っていました。私の人生とか可能性とかは別にどうてもよくて、とにかく社会に出て知識やスキルなどはつけて欲しくないと思っていることがわかりました。
採用面接に呼ばれて、目黒駅から10分ほど歩いたところにある雑居ビルの一室に行きました。小さな空間に味気ないデスクが並んでいて、19時頃でしたが人がぱらぱらと働いていました。私は思いました。「ここは面接のための部屋で、働くスペースは別にあるのだ」。オフィスとはとても思えなかったんです。タバコ臭いし。面接をしてくれた人は76ルブリカンツのトレーナーを着た年配の男性で、CD(クリエイティブディレクター)でした。私が養成講座で作ったコピーを見て「ううううううん」と唸り、まあいいか、という感じで「働いてみますか」とその場で内定を出してくれました。その人は言いました。

「らにしみずさんは、これからコピーライターとして働くでしょ。いろいろあって、向いてないとか辞めたいとか思うときもあると思うんだけど…10年とかそこらじゃ、その判断できないからね。俺いまだにわかんないもん」そのとき私は25歳でした。同級生たちから遅れること2年、やっと社会人になることができました。


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