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1. 超氷河期。我々はジャングルの奥深くマンモスゼロ地帯へ

超氷河期(2000年)に二流大学を卒業して、社会に出ることになった私たちの就職活動は、壊滅的でした。なので私自身はもともと社会や仕事にキラキラ輝ける要素を全く感じていませんでした。
一方で、1986年に男女雇用機会均等法が施行されており、腰かけ(この言葉も古いですネ。このネの使い方もね)での就職はかっこわるいな、という意識もありました。一般職なんて、普通のOLなんてつまらない。などと思っていたわけです。当時周りにいた人たちが「夢持つ人たち」だったことも理由としてあると思います。
さりとて、なにも技術のない私が何をしていいのか検討もつかず。
忙しくなると、当時おつきあいをしていた彼とすれ違うから働くのやだな、とぼんやり思っていました。

就職活動を始める友達を見て、私は憂鬱になりました。いよいよなのだなあ、と。「仕事とは辛いものである」と頑なに思っていた私は、大学の4年間はなるべくストレスのかからないことをしようと決めて過ごしていました。授業もろくに受けず、なるべく楽なバイトをし、遊んでばかりいました。遊ぶといっても、そこに男子との華やかなアレはなくもっぱら友人ユウコと食べて喋る日々でしたが。カプリチョーザで注文したあと店員さんに「さすがにその量は」と止められたりしていました。

重い腰を上げ、就活対策の自己PR作文講座を受けに行った私は、作文のテーマを「今の彼と付き合うまでの私の戦略」に設定しようとしました。(いま、自分でも書いていて は? と思います)そのとき、講師に言われたことを強烈に覚えています。

「そのテーマだと“彼が不治の病”くらいのインパクトがないと無理です」

私にとっては大冒険の大恋愛でしたが、面接官はそんなことには興味がないとのことでした。彼を好きすぎて尾行したある日、熱帯魚屋の水槽に映りこんでしまったことであとをつけていることがバレるも、かたくなに偶然のふりをし、新宿の喫茶店らんぶるでお茶をごちそうになるところまで持って行ってガッツポーズ。しかし帰るときに「もう付いて来るなよ」と捨て犬みたいな発言をされたくだりとか、諦めない姿勢とからめて自己をPRする自信があったのですが、就活には不要なんだそうです。(実際に就職してみたらおじさんたち、飲み会の席で速攻で「彼氏いるの?」って聞いてくるのに、不思議ですよね。ねー。)
就職活動はマジでつまらなくて、7社くらい受けて、やめました。(うち、道に迷った末遅刻による落選1社、友人との韓国旅行とバッティングして面接を断り落選1社)。私は社会に出る気ゼロの若者でした。

大学で唯一まともに受けていた授業が、村上春樹さんなどの書評で有名な加藤典洋先生の「文章表現法」というもので、私も本当は、文章を書くような、本に近いような仕事がしたいと思っていました。しかし講談社は2次の筆記試験で落ちました。センターの数学1、2合わせて10点とかでしたからね、当たり前です。福音館書店からは、ぐりとぐらが描かれた便箋に「今年は採用がないのです、ごめんなさい」ということが手書きで丁寧に書かれ、お返事が来ました。なんて素敵な大人と一瞬でも接することができたんでしょうと今になって思います。とにかく、きれいに全滅でした。

それでも今、私、コピーライターになってまる16年です。だいぶ色々なもの書けるようになりました。社内外、各所から頼られるようにもなりました。
「らにしみずさんと仕事をしたから楽しかったんです」と言われたり「らにしみずさん、入社してくれてよかった」と言われたり、男泣きに泣きそうになること、何回かありました。私、社会人として、本当にしょうもない時代が長かったから。

大学生当時、私は自分に全く自信がありませんでした(それは今もか…)大学にいる女の子たちは裕福なお嬢さんが多く、ヴィトンのエピや、COACHの鞄を持つ女の子を見て(その2つのブランドの間に深い川があることも当時は知らず)それを親に買ってもらっているということを知り、私は、自分の母親に買ってもらった自分のサザビーのリュックと比べて悲しい気持ちになりました。
さらに入学式で彼女たちは口々に「自分がどの大学を落ちて、滑り止めのこの大学に来てしまったか」という話をしていました。私は、入学したその二流大学、第一志望でした。子供の頃から優等生気味だったので、自分が実はバカで貧乏(2B)なのではないか、と気づいたことは、未だ心の思春期が続いていた私にはまあまあショックなことでした。そのショックが原因なのか、もともとそういうタイプだったのか私は

「会社に属せず、自由に働きたい。芸術っぽい分野がいい。だって普通の会社だと私落ちこぼれる。作家とかになりたい」

という考えを持つようになりました。ほんと、バカですね〜。しかし著名な作家さんに高学歴が多いことを知り、ますます自分の居場所を社会に見つける自信を失いました。

少し時間は戻りますが私は20歳の頃、友人ユウコと、それまでバイトしていた中華料理屋を一緒に辞め(迷惑!)、六本木交差点角にあった誠志堂書店(2003年閉店)で働き始めました。私はそこで出会った4歳年上の男子を好きになり、そう、死ぬほど好きになって彼が旅行に行った台湾まで追いかけていって付き合ってもらうことになりました。尾行がバレたぐらいでは諦めなかったわけです。

彼との時間が仕事なんかで削られることは、考えられない。
まえがきでも触れましたがこれが、私が就職を渋った一番の理由です。
彼も言いました。「らに(私)は気が弱いからいじめられる。働かないほうがいい」と。やっぱり? とそのとき私は思いました。ぼんやりしている私は、われながら新人時代がきついだろうことを予測していました。それはほぼ間違っていないのですが、少し違う部分があるとすれば新人時代のみでなく35歳あたりまできつかったということです。でも、ぼんやりしていたり、ものが分かってなくて怒られるって、社会人1年生ほぼ全員が通る道なんですけどね。怒られるのわかってる、それがいや。それが就職をしたくなかった2番目の理由です。

しぶしぶエントリーシートを送った7社のうちのひとつが「最初の4ヶ月間アルバイトで、5ヶ月目から契約社員登用」というクラシック音楽系の事務所でした。一次審査、二次審査と通り、最終面接のお知らせを見て私は気付きました。「友人のモリと、韓国旅行に行く日とかぶってる。行けないや」
行けないのは、面接の方です。それを、先方に電話で伝えました。

「旅行なので、最終面接の日程を変えてもらえませんか? もしダメなら、大丈夫です(落としてくれて)」

というようなことを言ったと記憶しています。先方の担当者(のちに直属の上司になるスドウさん)はとても丁寧にそれならば仕方ないですね、というようなことを言いました。私はほっとしました。なぜなら就職したくなかったからです。

しかし、結局私は、その会社に繰り上げ当選します。内定をもらいながら蹴った方は賢かったな、と後から思いましたが、そのときはどういう会社かなど探る手段も知能もなく2000年4月、私は巣鴨の音楽事務所で働き始めました。ま、アルバイトだし、という甘い気持ちを持ちながら。超絶怒られたり意地悪されたり、結果、無断で逃げることになるとも知らずに。


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