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7.恋は終わり、コピーライティングは続く

私はすっかり社会に適合できた気分でした。制作のメンバーと夜作業をしながら喋るのは楽しくて、そこでどんな会話をしたか最寄駅から家に帰る道で彼に電話し、再現していました。当時、私の月給は笑っちゃうくらい15万円でした。ボーナスは驚くほど5万円でした。それでも、自分の書いた文字が世の中に出ることが嬉しかった。誰にも怒られず仕事ができていることが嬉しかった。制作の仲間たちが好きでした。
ある日「今日ボーナスが出たんだ」付き合っている彼に言うと、即答されました。
「ちょっとさ、それ貸しておいてよ」。
当時、彼と一緒に旅行に行くと、私のお金はぜんぶ彼が管理をすることになっていました。失くさないように、というリスクヘッジだったのでしょうし、もちろん彼がそれを自分で使ってしまうわけではありません。むしろ、自分のお金をプラスしてでも私の欲しいものを買ってくれるような人でした。でも私は、現地のホテルに着くと「はい」と私のお金を普通に持っていく彼に違和感を覚えていました。彼のことがすごく好きだった時も、その違和感はありました。たとえ額が少なくても自分のものは自分で買いたいと思っていました。しかし彼は、それで私を守ってくれているつもりだと知っていたので断ることはできませんでした。彼もまた、なんでも自分の言うことに「はい」と言っている私に癒されていたようでした。私は社会に出ていろんな人をみて、やってみたいことがたくさんありましたが、許されないことが増えていきました。彼は私に変わらないでいてほしかったのです。黙って自分の好きなことにだけついてきてほしかったのです。はっきり言葉に出して言われました。「バカだったのが可愛かった」と。なんとなく結婚へ進もうとする彼に、私は逃げ腰になっていきました。あるとき、お茶を飲もうと待ち合わせしたらそこに彼の家族が来ていました。聞いていなかった。私は一生懸命笑って、一生懸命話しました。彼は、家族中から愛されている末っ子でした。ご家族に囲まれてただひとり、私だけが彼を愛していないことに気がつきました。まもなく私は、また別の好きな人ができ、彼とは本格的に別れました。彼のお母さんは「そうなるだろうと思ってた」と言っていたと、あとで聞きました。
彼と別れて付き合った人は職業柄土日が忙しく、会えるのは平日の夜でした。なので、私は毎日23時近くまで会社にいるその状況を、はっきりとストレスに感じていました。未経験の私を雇い、コピーライターとして基礎の自信を与えてくれた会社に、怒りに近いものを感じていました。その彼は、愛のない人でした。(と私は痛いほど分かっていました。でも、どうしようもなく好きでした)「仕事やめちゃえよ」と忙しくて彼のスケジュールに合わせられない私によく言いました。私も「辞めたいよ」とよく言いました。彼に、私が作った広告を見せても興味がなさそうでした。というか、見るのもいやだ、という感じで目をそらしました。彼が会えると言った平日の夜は、私も仕事をやっつけて会社を飛び出しました。でも結局彼は仕事が終わらずドタキャン、ということが12回(!)続き、私たちは1年足らずで別れることになりました。私の仕事や、都合なんてどうでもいいと思っていることがよく分かる出来事でした。ハートが破けるような別れ方でした。
でも、仕事、辞めても良かったのにな、て思うんです、本当に。平日を全部空けて彼を待っている生活について、当時は真剣に考えました。もっと時間のあく仕事、コピーライター以外ならいくらでもあります。若手で、広告業界で、残業なしってそれはほぼ無理な話です。私は彼と会えないことが当時相当きつかった。でも私は、できる限り適当に仕事をこなしながら会社を続けました。「3年間やれば会社を選べる」という養成講座時代に聞いたスドウさんの言葉を覚えていました。そしてこれはなんとなくですが、たくさん会えるようになったら終わる関係だと分かっていたような気もします。それにしても恋をしてからの私の適当ぶりは凄まじく、求人広告ではお問い合わせの電話番号を打ち間違えて普通の民家・青木さんのお宅に「パタンナー募集の広告見まして」という電話がじゃんじゃんかかってくる、政治家のポスターに入れる座右の銘を間違える(さらにデザイナーがセンター位置をまちがえて入稿し、画面ギリギリで政治家先生が笑う色校正が上がってきて社長がブチ切れる)、仕事中抜けて長電話して泣きはらした目で帰ってくるなどもうボロボロでした。彼と会えない日は、私にとって捨てた日でした。
目標の3年が経とうとしていた頃、私は同日に入社したデザイナーの同僚に「会社辞めようと思って」と言いました。「あたしも!!」と彼女は言いました。ちょっと話は本筋からずれますが、私とあたし(アヅマ)はタイプがかなり違います。学級委員といじめっ子というか。文学バカとおしゃれバカというか。公務員とホステスというか。でも、アヅマは小さなスペースの広告でも徹夜をするような仕事バカでもあって、同じ日に入社はしたけど私と成長の度合いは全然違うんだろうなと思っていました。私たちは同時に入社したその会社を同時に辞めました。彼女は少し前にやめた先輩が立ち上げた会社へ、私は編集プロダクションへと移りました。
私がその会社へ移った理由はふたつありました。一番は「残業少」。平日の夜に、その忙しい彼と会うためです。ドタキャンに傷ついて別れても、彼から連絡が来ると会いたくて会ってしまうのです。だから、会える時間を確保する事、これが一番大事でした。さらに、当時ふたり暮らしをしていた父親が、部下の不祥事の責任を取らされ名古屋に飛ばされたタイミングで私も家を出ることになったので、ついでに彼の家からタクシーで帰れる距離のところに引越しました。もうひとつの理由は「もう少し長い文章が書きたい気がする」ということでした。これは取材が楽しかったのだと後で気がつくのですが、このときはまだ自分の好きなことがざっくりと大枠でしか考えられませんでした。好きなことって、実は細かく分かれているものなんですね。どんどん網目を細かくしていくことが、自分を理解していくことなのだとそれから10年以上経って私は気がつきました。「よーし、仕事から解放されてやる!」という気合いをみなぎらせコピーライターとして2社目の築地市場にあった会社へ転職しました。「3年経ったら会社を選べる」。私が選んだのは「なるべく仕事をしなくいい会社」でした。とほほ。
その会社の人たちも、とても大人で優しい人たちでした。私が配属されたのは、40代のベテラン男性(文章、すっごい上手)2人が柱となる制作チームでした。ここでも、同時に入社をした同年代の女性(マツイさん)がいました。マツイさんはいつも不機嫌そうで、実際に気に入らないひとや会社の悪口ばかりを言っている子でした。だから私は、彼女を「コピーライターに向いてない」と思っていました。コピーライターは人やモノのいいところを探す仕事だからです。彼女はいつも「批判の視点」で人やモノを見ているのだと思いました。しかしある日、彼女のデスクを見たら、小さな小さな文字でびっしり文字が埋め込まれたノートがありました。たくさんのコピーと、コピーを構成する言葉が書き散らかされていました。ノートは汗でしめっていました。恋をするために転職した私の何倍も真剣に、マツイさんはコピーと向き合っていました。その会社で任されたコピーライティングは、銀座の交差点にある三越じゃない方の百貨店の会報誌でした。その百貨店に入られたことがある方は分かると思うのですが「本物」しか置いていません。流行だけでセレクトされることはほぼなく(フランクミューラーの時計はありましたけど)製造元(というか製造人、という感じも。日本屈指の職人が作るものも多かったです)がしっかりとしていて、今までもこれからも本物のお金持ちに愛されるものを厳しく選んでいるような感じでした。本物のお金持ち…これはオフレコでとスタッフの方が教えてくれたのですが、クレジットカードを忘れていかれたお客様があり、お名前がなんだか長いわ?と思ったら宮家の方だったそうです。そんな背景もあり、コピーに関しては広辞苑に乗っている正しい言葉を使うように、と指示がありました。宮内庁の方々もその冊子を見てお買い物をされているわけですから。2億円のジュエリーのコピーなんていうのも、書きました。(こういうのは皇室の方は買いませんヨ)
春の号でちらりと見切れる桜も「本物」を取り寄せる。その冊子、制作費はいくらだったのだろう? って、今思うんです。作っていたくせに知らないのです。当時の私は、コピーを書く以外のことすべてを放棄していました。企画会議も、入れと言われないから入らない。掲載商品のコピーも、なんなら去年の号を見てリライトをしていたときもありました。「華やぎの」「厳かに」「エレガンス」などを書いておけばOKみたいな感じで思っていました。撮影のときも気を配らずぼうっとしている。正直、つまらなかったです。当たり前ですね。冊子の後ろの方に通販のページがあったのですが、ある号で申し込みに関する情報(連絡先、電話番号など)がすっかり抜けてしまったことがありました。デザイナーの先輩にそのページを見せられましたが、私はそのミスに気がつくことができませんでした。それほど、何も見ていないに等しい働き方をしていたのです。同期のマツイさんが、ディレクターのヌマオさんにこそこそと何かを報告していたとき、私は「ほぼ日」なんかをゆっくりと読んでいたかもしれません。自分がコピーライターだというプライドのようなものはこの頃もかなり持ってはいました。ヌマオさんが「マツイさん、宣伝会議賞とったって」と皆に言っているのを聞き、体が冷たくなるのを感じました。
宣伝会議賞とは、コピーライターならば誰もが応募したことがある公募の賞です。数十社から出る課題にキャッチコピー(いまはCM企画枠などもあります)を書いて応募するのですが、とんでもない応募数なんですね。去年は45万本です。一次審査を通るのすら1%という狭き門です。私は養成講座に通い始めたころ1度だけ、キャッチコピーが2本、1次と2次に通りましたが、そのあとは全滅でした。でも、毎年いくつも考えて応募はしていたのです。マツイさんは、協賛企業賞(コピーライター審査員ではなく、企業が選ぶ賞)をとったとのことで、より実際の広告に使えそうなコピーが評価されたのだと分かりました。自分からはそのことを言ってこないマツイさんに「おめでとう!」と言いましたが、もやもやとしたものがありました。なんかずるいな、と思いました。「今、2次選考まで通ってるんだ!」とか報告してくれてもいいじゃないの、同じコピーライターなのに。毎日一緒にお昼を食べていたのに。ずるいもなにも、という感じですけどね。どうやって彼と会って、何を話すかしか考えてないのですから。会社では、自分が、怒られもしない代わりに全然評価されていないという感覚がありました。「怒ってももらえない状況」の恐さに、気がついていませんでした。


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