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3.そうだ、コピー書こう。


本当にコピーライターなんだろうか…というタイトルですが。
音楽事務所から逃亡したあと私は、実家に帰りました。「本当にあんたは辛抱ってもんが」とか言うかなと思っていた親は、私の無断退社に関して何も言いませんでした。ああ、もう私は怒られる年齢じゃないんだな、と思いました。(その2年後にクッソ怒られることがあるのですがそれはまた別の話)
私は思いました。「好きなことじゃなきゃ続かない。仕事ってそもそもつらいことだもの」今度は少しでも好きなことをしよう。そう誓いました。
実家で美味しいものを食べ、ゆっくり休み、回復した私は武蔵小杉の自宅に戻り、リハビリとしてアルバイトをすることにしました。大学時代からお世話になっている誠志堂書店に出戻りです。時給も800円からの再スタートでした。私はその店にいることが本当に、本当に好きでした。たくさんの本の中に私ひとり、という時間は嬉しくて棚の整理をしながらくるくると踊り出したいくらいでした。場所柄、芸能人のお客さまにもたくさん遭遇しました。
叶美香さんを見たときは「なるほどこの人は実は、男性なんだ」と思いましたし(ちがう、失礼だ)浅野忠信さんは美しすぎて、もやがかかっていました。いしだ壱成さんとは何か少し会話をした記憶があるのですが、覚えていません。前園さんと中田ヒデさんがふたりで来たときは、サッカーの知識がゼロなため他の人がざわついてるな、くらいの感覚でした。いまも、本屋で働きたいなあと思います。これは割といつも思ってます。
時給が安いので掛け持ちをしなくては、と思い、銀座のつばめグリル本店でもアルバイトとして働き始めました。ハンバーグが好きなのです。どうしようもなく気が利かない私は、そこでもあまり使えるスタッフではありませんでした。でも、みんな優しかった。なぜか? 私がアルバイトだからです。アルバイトにあれだけの仕事を要求していた前職。時給850円だったのに、月30万円以上もらってましたからね…使う時間なかったですけど…。ちなみに無断退社後、アドレスを変えなかった私個人のメールに先輩社員たちから連絡が来ました。ひとりはスドウさん。「私が追い詰めてしまったのですね」という言葉と、謝罪が書いてありました。他の方々はほぼ全員が同じ内容で、私が担当していたピアノコンクールの応募者が、私に親切に対応してもらったというお礼のメールの転送でした。仕事で初めて褒めてもらえたのは、無断退社をしたあとだったというわけです。
毎日つばめグリルのハイカロリーなハンバーグをもりもりと食べ、運びながら、自分は社会不適合者だ、なんとかしなくてはと思っていました。アルバイトとはいえいちど社会に出た私は、周りの人と比べたときに自分の無能さが分かっていました。その大きな理由の一つは「人の言っている言葉の意味が分からない」というところにありました。好意や興味を持った人の言葉、もしくは対応に慣れてきた人の言葉以外、本当に外国語を聞くように理解ができませんでした。でも、どうしていいか分からなかった。
当時付き合っていた4歳年上の彼に私は頼りっぱなしで、ごはんもいつも食べさせてもらっていました。でも、その生活から脱出したい気持ちは持っていました。
…というか正確に言うと、最低な自分から脱出したかったのです。私はその頃、彼とは別に好きな人がいました(ナカダさんとします)。2週間でいいから付き合いたいものだと日々思いを募らせ、ついに彼には別れを告げました。好きな人ができたからと。彼は私の別れ話を根気よく聞いた上で「この恋見込みなし」と判断して「いつでも戻ってきていい」と言いました。そして私たちは一度別れました。彼の予想通り、私の恋は実りませんでした。ナカダさんは仕事で国外へ旅立ち、諦めきれずに毎日悩みに悩んだ私は、急性胃炎になり病院に運ばれました。別れてしまった彼に頼るわけにもいかず、自分で夜中に救急車を呼びました。病院のベッドで点滴を打ちながら「私、やばいな〜」と思いました。
だいぶ時間が戻りますが、私は、子供のころ、優等生でした。担任には「一服の清涼剤のよう」と言われ、家のピアノの前には私がもらった50m走のタイム記録、書き初めの入賞記録など、多くの賞状が飾られていました。われながら、大人になったら何者かになれると思っていました。しかし実際に社会に出てみたら私はとんでもないポンコツでした。まったく卑下するわけではなく、社会人になった当初の私はまわりの新人より、はっきりと無能でした。先ほど書いた「好意がない人の言葉が理解できない」にも通じますが、自分の興味があることしか見ようとしなかったからです。それはつまり、与えられた仕事を点でしか見られないということです。自分の仕事が何からつながっていて、何につながっていくのかを考えるのが苦手でした。
最初の会社でスドウさんは私に「らにしみずさんは、優しくないよね」と言いました。いっぱいいっぱいになっていて気がまわらないことをそのように言い換えたのです。気が利かないことは、優しくないこと。確かにそうだと、思いました。無能な上、性格も悪かったんだと、自分をとても嫌いになりました。
ある日私は、本屋でのバイト中にいつものように小説を立ち読みをするのをやめ、資格試験ガイド、という感じの冊子を開きました。そこで「コピーライター養成講座」というものを見つけました。有名な株式会社宣伝会議のものではなかったのですが、私はそれすら知らなかったので、単純にこう考えました。「課題が出されるから、ナカダさんのこと以外に没頭できるかも。毎週講座にいくから、ナカダさんを追いかけてシンガポールへ行くことはできないのも良いかも。何よりも、文章を書くなら楽しいかもしれない」。
翌日さっそく、講座の事務所に連絡しました。担当者は、逃げた職場の上司だった女性と同じ名前、スドウさんという方でした。スドウさんは、養成講座に入るのに全くコピーを書いたことがなくても問題ないこと、そもそもコピーライターは才能でやるものではない、広告は芸術ではないということなどを、時間をかけて丁寧に教えてくれました。私は、養成講座に行くことにしました。当時は、習い事感覚でした。

そしてその頃、一度別れた彼とはヨリを戻していました。「いつでも戻って来ていい」と言われて本当に戻る馬鹿がどこにいるでしょうか? ここにいます。彼と別れたかった本当の理由が、自分自身もそのときはまだよく分かっていなかったのです。


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