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【エッセイ】noteは柔らかくなる場

私は頭が固い。何でもかんでもすぐに否定する、と言われたこともある。村上龍のエッセイとか、自分がいけすかないと思っているものを代わりに批判してくれる文章が好きだった。自分でもそういう文章を書いた。

けれども、どんどんそのやり方が通用しなくなっていく、という予感が日に日に強くなっていった。それなのに小説やエッセイは、私が好んで選んでくるものは今までのやり方のままで。次第に読むことを止めた。

何でもかんでも否定する癖がついたのは高校の演劇部にいた時だと思う。
入部した演劇部は昨年全国大会に行った。私も行きたいと思った。
しかし顧問が変わって、演劇を指導、監督する人がいなくなり、創作面は生徒で協力しなくてはならなかった。
出来るだけ稽古時間を長く取り、もっとこうしたほうが良いというところを逐一、微に入り細にわたり、指摘した。悪いところを直していけば、それを積み重ねれば、それが作品を良くする方法で、全国大会に行くために出来ることだと考えていたからだ。
しかし、結局、全国大会どころか地区も出られず、引退するまでに4人後輩が辞めた。

一昨日、修士論文の下書きのために、演劇ワークショップについて勉強し直した。
演劇ワークショップは、商業的な演劇のオーディションや稽古とは違い、参加した演劇人を選別するのではなく、参加した人たちの特徴や性質で何ができるのかを考えるところから演劇を即興で作る。そのためには、参加者を主催者の基準で振るい落とすやり方は適さない。例えば、「声が小さい」から役者に向かないとか、「身体の動きが硬い」からダンサーには向かないという選別ではなく、「果たして声が小さい、身体が硬いというのは何故ダメなのか? 別にそうであっても演劇やダンスは出来るのではないか?」と視点を柔らかく、視野を広くする関わり方が良いのではないか、と考えられているらしい。

もし、自分が演劇ワークショップに参加したら、そんなことが出来るだろうか? 想像するのが難しかった。些細なことで苛々して機嫌か悪くなりそうだと思った。それが悲しかった。いっそ、自分が関わらない方が、一瞬でも人の気分を害さないのなら、そうしたほうが良いとさえ思った。

染みついたやり方がなかなか変わらない。それは、自分も他人にそのようにされたことがあるから、自分から相手にそのようにすることを止めるのをほんの少しでも癪に思ってのことだ。

今回取れなかった点数を次回は取れるように、悪いと言われたところを直す。

これって、実は馬鹿々々しいことなんじゃないか?

そう思ったのは、ついこの頃。大学を卒業して、一年間だけ院浪人していた頃だ。否定のやり方が通用しなくなるという予感がしたのも、その頃。
もっともっと早く、その予感を察知出来ていて、そういう感覚を持っていたかった。激しく後悔している。機械的で身勝手な減点法で無駄にした時間、そのせいで失くしたのかもしれない友人、凍結していた感覚や感情を取り返したくて、でも何をしたらいいのかわからなくて泣いているだけだった。

インターネットなら、どうだろうか。

ただの思いつきで、noteを始めた。

インターネットこそ、否定と減点法の温床だと思っていた。そういうプラットフォームも、もちろんあるのだろう。

noteで文章を書いたり読んだりしていると、たいへん良い意味で、どうしたらいいのかわからなくなる。機械的にやっていた否定と減点に待ったをかけられる。幼稚園の頃、箱から出した油粘土の塊を拳で殴って柔らかくしようとしていた時のような痛みが走る。

少しずつ、noteで柔らかくなる練習を始められたように思える。

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