掌編:睡蓮は夢の中
コポコポと水から空気が出てくる音が、
耳の奥でしていた。
水槽の中の空気を運ぶ機械のような、
柔らかく一定に聞こえてくる音だ。
正確には、今聞こえているわけではない、
記憶の中の音が耳の奥からするのだった。
次に、嬉しそうに笑う若い女の子の顔が浮かぶ。
「あのね、こどもが出来たみたいなの」と誰かに告げる。
実際には誰だか知らないし、自分に話しかけているわけでも無いのに、夢で見たのかすら覚えていないその映像が鮮明に見えるのだ。
僕には彼女も居ないし、その女の子に会った記憶もなかった。
こんな風に、音や映像を感じるようになったのは、先週の日曜日に母が亡くなった後からだった。
母は僕がまだ小さい頃からずっと入院していて、叔母が母がわりだったから、母の死は実感が湧かなかった。
母はいつも病室で、猫の様に何もないどこか一点を見つめて、じっと静かにしていた。
弟になるはずだった子供が空にかえってしまってから、母の世界は彼女の内側だけになってしまった。
「ユキコはサトルが大好きなのよ。」ユキコは母の、サトルは僕の名前だ、母の見舞いに連れて行かれる度に叔母が言っていた。
虚な目をして、僕さえ見えない母。
たまに微笑むとき、僕を見てくれたならどんなに良かっただろう。
僕は、ずいぶん前に考えるのをやめた。
愛情表現も、返事も僕の目を見てくれることも、期待すればするだけ、虚しい気持ちになるから。
…
ミユキは久しぶりに日記を開いた。
妹のユキコが使っていたボールペンをそっと手に取る。
…
ユキコは病室の窓から差す光に目を細めた、安定期に入ったが体調が思わしくなくて、入院していたのだ。
お腹の中で赤ちゃんが動いている気がした。
嬉しくて、まあるくなってきたお腹をそっとさすった。サトルがお腹にいた頃を思い出して、早く会いたくなった。
今日もミユキが小さなサトルを連れて遊びにくるはず。さみしくさせてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
最近ミユキが、見慣れない大学生の男の子を連れてくる。わたしの息子と同じサトルという名前らしい。こんな風に大きくなるのかしら。
少し不機嫌な顔をする男の子、サトルも反抗期が来たらあんな顔をするのかもしれない。
fin
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