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【小説】未来撃剣浪漫譚【4】Last Paradise

こちらは八幡謙介が2023年に発表した小説です。

プロローグ

「おっさぁん、死ぬ前に何か言いたいことあるぅ?」
 長髪の男は鉄パイプを相手に向け、だるそうに吐き捨てた。急に吹き起こった川風が、男の顔にかかった髪を後ろに流した。そこに表れた表情は、軽い興奮と緊張に歪んでいた。
 対峙するもう一方の男は、両手をだらりと垂れたまま、まるで他人事のように相手を眺めている。
 と――
 絡まれた男は思い出したかのように、一瞬遠い目をすると、改めて長髪を見据えた。
「……芹沢無一(せりざわむいち)を知っているか?」
「あ? 誰だって?」
 長髪から、一瞬表情が消えた。
「天心流の芹沢無一という男を知っているかと訊いている」
「知らねーよ、んなヤツ! てかな、教えてやるよ、ここ〝ラスパラ〟じゃあ本名なんて名乗るヤツはいねー、こっちにいるヤツは過去に何かやらかしてるに決まってるからな」
 長髪の返答に、男は無表情で頷いた。
「そうか、なら用はない。命は大事にしろ」
「ンだとテメ……」
 相手の全く物怖じしない態度に長髪は激高した。道で他人とすれ違うかのように無防備に近づいてくる男に対し、長髪は握りしめた鉄パイプを振りかざそうとした、しかし、どうしても手が動かない。
 男はいつの間にか長髪の横を通り過ぎ、足音だけが去って行く。
 それでも長髪は動けない……
 足音が遠く微かになったところで、ようやく長髪は振り向いてその背中を恐る恐る眺めた。
 彼の心からは戦意が消え、不思議な安心感だけが残っていた。

 芹澤無二は長髪に試した〈天心〉の感触を反芻しながら多摩川を上流へ歩いていた。
 効いた、という確かな感覚がある一方で、心に引っかかるものもあった。
 以前の無二ならあんなチンピラはさっさと斬り捨てるか多摩川に放り投げて終わりだ。しかし昨年冬、薬師寺瑛(やくしじえい)との死闘で〈天心〉を体得したことにより、無二の心に慈悲の念が生まれた。
 ――殺したくはない。
 無二はおそらく、生まれてはじめて降りかかる敵に対してそう思った。そして、ほぼ無意識に〈天心〉を発動していた。それは名も無いチンピラにも十分効果を発揮した。
 ――道至らざる者ほどよくよく用心すべし。
 天心陰流兵法口伝にそうある。かつて剣術のケも知らない素人がぶん回す刀に、天心流の免許が斬られたという事件があったらしい。以来、流派の恥として口伝により伝えられてきた。合理主義者の無二は自分の技が誰にでもかかると考えたことはなく、だからこそ実験のように実戦を積んだ。その結果は単なるデータでしかなく、それは即次の実戦への課題となった。
 しかし、さきほどのチンピラを〈天心〉で受け流せたことは、純粋に嬉しかった。殺さずに済んだという安堵感が無二の心を満たした。それは武道家として位が上がった証拠だろう。
 そして同時にその満足感が無二の根源的な不安を浮き彫りにした。
 ――本当にこれで父さんの仇を……
 スクラップの車や掘っ立て小屋が点在する多摩川土手から、灰色の〝ウォール〟が見える。その向こうは、つい先日まで生きていた世界だ。
 無二はふと妹の茜を想った。
(手紙は、届いた頃か……)
 刀ができるまで、暇を持てあました無二は初めて茜に手紙を書いた。これも〈天心〉の副作用のようなものかと改めて考え、自嘲した。
 パンパンに詰まったリュックと刀を入れた袋を一度下ろし、多摩川土手に座ると、先ほどジョーから貰った地図を再確認した。

「よ~う、ん?……おま…」
 玄関を開けたジョーは、無二の顔を見るなり黙り込んだ。
「来たぜ。仇討ちだ、俺のな」
 無二はいつものように簡潔に要件を告げると、遠慮なく上がった。ラスパラ入りしてすぐ王(ワン)を訪ね、刀を一振りオーダーした後、すぐジョーの家に向かった。
「お前の仇討ちって、言ってた親父さんのか? 仇はこっちにいんのか?」
「ああ、新横県警のOBと取引してな。ラスパラで叡山関係の潜入捜査をやってるやつの手伝いをする代わりに、情報を流してもらえることになってる」
 ジョーは驚いた様子で、
「おいおい、細っそいパイプじゃねーか。その潜入ソーサカンはどこにいるんだ?」
「ニコタマらしい。そこの集落で用心棒に志願しろと言われた。後は向こうからコンタクトを取ってくるんだそうだ」
 そう言って無二は土臭い水を一口飲んだ。
「なぁるほどねぇ……」
 ジョーはニヤリとした。
「ニコタマはラスパラの登竜門だ。よそ者が急に来ても怪しまれねぇし、他の集落との交易も盛んだから情報も集めやすいはずだ。潜入捜査にはもってこいだな。それに無二、お前ならガードに志願したら即採用だぜ」
「ガード?……」
「ああ、用心棒のことだ。中規模以上の集落ならだいたい雇っている。それでメシ喰わせてもらえるから、ガードをしながらこっちを渡り歩いているやつも多いんだ。もちろんなんかあったときは命張らないといけねーが、その点お前なら大丈夫だろうよ。なんたって向こうでもおんなじ事やってたんだからな!」
 ジョーはそう言って大声で笑った。無二は新横県警の井上がなぜ自分に依頼したのかがようやくわかってきた。
「こっちのガードはどんなエモノを使ってる?」
「お前と同じさ。銃持ってんのはバックがついてる金持ちだけだ。普通の住民なら弾が惜しくて銃なんてめったに撃てねーよ。ニコタマのガード程度なら修理可能な剣か槍だな」
 ジョーがちゃんばらの真似をすると、無二は黙って頷いた。井上の掌で転がされているような気がして気に入らなかったが、自分が適材だったということだろう。
「ところで無二、お前随分変わったよな。少し前はもっとギラギラしてたのに、なんてーか、坊さんみたいつーか……。もしかしてナントカっていう奥義でも掴んだのか?」
 無二はジョーのこの鋭さが好きだった。
「ああ、冬にちょっとやっかいなのと立ち合ってな。死にかけた。そのときに捨てることができた……」
「捨てる?」
「己の執着の根源っていうのかな? 強さ、向上心、仲間、家族……」
 無二の脳裏に凜や茜の顔が浮かんだが、名前は出さなかった。
「それを全部捨てたら……超えられた。ただ……」
 珍しく言葉を濁す無二を、ジョーは黙って見入った。
(もう、殺したくはない)
 そう口に出しそうになり、無二も黙ってしまった。
「無二よ……、お前にとっちゃ釈迦になんたらだが、こっちじゃ迷いは即、死だ。まあ俺には武道の高尚な理念てやつは分かんねーが、殺し合いはどこまでいっても殺し合いよ。そうでねえと親父さんの仇ぶっ殺せねーぜ、強ぇんだろ?」
 無二は「殺し合いは殺し合い」という言葉に一瞬救われた気がした。
「ああ、父さんが立ち合って負けたとすると……バケモンだな。本当にこっちにいたら相当名は知れているはずだ」
「おう、そうだ!」
 ジョーは急に立ち上がると奥に行き、すぐに何かを手に戻ってくると、
「こないだ街に出たときに手に入れたラスパラの最新地図だ。餞別にやるよ」
 そう言って手書きの地図を無二に渡した。
「いいのか?」
 無二は驚いた。地図は貴重品だと聞いたことがある。
「いいってことよ。俺はだいたい頭に入ってるから。必要なくなったら何かと交換すればいい」
 そう言ってジョーは豪快に笑った。

ニコタマ

 無二は地図をリュックの奥にしまうと、再び歩きはじめた。多摩川沿いに進んでいけば通称〝ニコタマ〟集落にたどり着くはずだ。
 ――今年で何年になるだろう……。
 無二は川沿いを歩きながら、父が死んでからのことを脳内に描いた。
 旧東京を被う〈ウォール〉が完成した翌年だから、2035年、今年で十一年目になる。火葬した後、父の遺骨を無宗教の簡易墓地に納め、仇を討つまで墓参りはしないと誓った。以来一度も訪ねていない。
 幼い頃母が亡くなり、父は寂しさを紛らわすためか、毎晩家に武道仲間を呼んだ。酒が進めば自然と技の検証や組手が始まり、幼い無二も見よう見真似で参加し、大人たちに相手をしてもらった。
 成長するにつれ、無二はいつの間にか武道的な身体を獲得していた。中学生の頃には既に風格が備わっており、そのせいであちこちで喧嘩を売られたが、一度も負けたことはなかった。
 中学二年のとき、ささいなことから諍いを起こし、父を口汚く罵った。すると無一は表情を消し「庭へ出ろ」と静かに無二に告げた。
『ぶっ倒してやる!』
 父と向かい合うと、反抗期の無二は敵意むき出しで攻撃に出たが、ものの数秒で地面に叩きつけられ、顔のすぐ横を足で踏まれた。
「次は本気で壊すぞ」
 そう言って無一は部屋に戻っていった。
 無二はあまりのあっけなさに呆然とし、悔し涙も出ず、仰向けになったまましばらく星を眺めていた。
「おにーたん、まけちゃったね……」
 いつの間にか側に来ていた茜が、無二の頭を撫でてにっこりと微笑んだ。父と兄の喧嘩を見ても全く怯えていない様子に、無二はどこか心強く感じた。
 そのまま茜と二人で父の部屋に出向き、正座をすると、正式に天心流の手ほどきを願い出たのだった。
 …………
 ――父さんが生きていれば、今頃どうしていただろう? やはり討ち屋を開き、自分はそれを手伝っていたのだろうか? それとも、全く別の道を選んでいたのだろうか? 茜は……。
 と、
 前方から走ってきたバイタクらしいカブが無二の側で停まり、
「ドコイク?」
「ニコタマだ。ここからまだ遠いか?」
「ニコタマ、もうスグ」
 バイタクは前方に横たわっている崩れた駅を指さした。
「アレ、コエル、すぐニコタマ」
 そう言うと残念そうな顔をして他の客を探しに去って行った。
 崩れた駅には一カ所だけ人が通れる道が出来ていて、何人かそこを登っている。恐らくニコタマの住民か、ニコタマに用がある者だろう。無二は彼らの後についていくことにした。
 駅の向こう側へ渡ると、風に乗って喧噪が聞こえてくる。しばらく進むと今度は高速道路が崩れており、さっきより多くの人々が登ろうとしていた。背中に大きな荷物を背負った男や、バケツを運ぶ少年、草や花を両手いっぱいに抱えた少女が同じ方向へと向かい、群れのようになっている。無二もそこに加わった。すると、先ほどから無二をちらちらと見ていた同年代の男が話しかけてきた。
「あなた、ガードに志願するんですか?」
 無二の体躯や佇まいからそう察したのだろう。刀は袋に入れてあるが、中身に気づいたのかもしれない。
「ガード? ああ、ニコタマの用心棒のことですか」
 無二は念のため知らないふりをした。
「そう、集落の警備や賊の退治、あと決闘の申し込みも受けなきゃいけない、やめといた方がいいですよ、こないだも一人死にました。それに、うちには強いのがいますから」
〝うち〟ということは、男もニコタマの住人なのだろう。すり切れたジーンズとチェックのシャツはどこにでもありそうなものだが、足下はわらじだった。背中に大きなリュックを背負っており、歩くたびに中で金属がぶつかり合う音がする。
 無二はニコタマに着く前にこの男から情報を得ておこうと考えた。
「俺はムニ。あなたは?」
「タイゾーです、クズ拾いぐらいしか能がない人間ですが、それでもニコタマでは食わせてもらえますからね」
 そう言って背中の袋をポンと叩いた。
「ニコタマのガードというのは?」
 無二はつい癖で簡潔に質問をしたが、タイゾーは特に怪しんでいる様子はなかった。
「剣とか槍とか、そういった武器などの使い手がなります。ピストルも出回ってるけど弾丸がなかなか手に入らないらしくて」
 ジョーに聞いたことと同じだ。こちらでの戦闘もやはり剣が中心になるのだろう。
「ガードは何人いるんですか?」
「数えるほどだと思います。正確なところはわかりません。ニコタマには何百人もの住民がいますから。あ、ガードをまとめているのはカツラさんです。彼は温厚な人柄で皆からも好かれています」
 タイゾーはそう言って瓦礫の山を楽々と登った。もう何百回と往復してきたのだろう、息も切らしていない。無二はやや荒くなった呼吸を無理矢理整えた。
 タイゾーはどう見ても一般人だったが、体力だけなら無二と同格、あるいは上かもしれない。恐らくこれがラスパラ民の標準なのだろう。無二は王(ワン)に刀を作ってもらっている間、暢気に過ごしていた自分を悔やんだ。
 ――今日仇と立ち合えば、俺は体力負けするだろう。
 すぐにでもラスパラの生活に合わせる必要がある。
「大丈夫ですか……えっと、ムニさん。ここを越えたらニコタマですよ。よかったら僕がカツラさんのところに案内します」
 タイゾーは相変わらず人なつっこい表情のまま、瓦礫の山の頂上から眼下に広がる景色を指さした。
 川沿いの三角州のようになった広大な土地には、無数のテントや小屋がびっしりと張り巡らされ、その隙間を人の群れがうごめいている。ほとんどは日本人だと思われたが、中には黒人や白人も混ざっている。テントのないスペースは運動場なのだろうか、子供たちがサッカーをしているのが見えた。集落は外堀やフェンスなどで区切られておらず、入ろうと思えばどこからでも入ることができる。
「汚らしいでしょ」
 タイゾーが恥じるように呟いた。
「いや、ここまで広いとは……。なんつうか、活気がありますね」
「まあ、住めば都ですよ。さ、行きましょう、案内しますよ」
 そう言ってタイゾーは瓦礫の山を下っていく。
 集落に近づくにつれ、どこか懐かしい匂いが無二の鼻腔をくすぐった。人いきれの中に、米や油、スパイスなどの香りが混ざった生活の匂い。それはどこか人を安心させる匂いでもあった。 
 一方で、ちらほらと現れた出迎えらしい人々は、無二へあからさまな不審や敵対の視線を投げつける。
「タイゾーさん、あんたがよそ者の俺とつるんでいるのはまずいんじゃねぇのか」
 無二の心配をよそに、タイゾーは至って平静な様子だ。
「大丈夫ですよ、知らない者に敵対心を見せるのはここじゃ当たり前です、動物と一緒ですよ。敵じゃないことが分かったらすぐに打ち解けてくれます」
 すると前方からこちらに向かって走ってくる少年が見えた。
「タイゾー、早く早く!」
「カイ、待たせたね、これでゲン爺にテントの金具作ってもらえるよ」
「よかった~、雨降ったらどうしようって姉ちゃんと心配してたんだ。あれ、そっちの人は?」
 真っ黒に日焼けした少年は無二を見上げてにっこりと微笑んだ。敵対心はあまりないらしい。
「ああ、こちらはムニさん、さっき帰って来る途中で出会ったんだ。ガードに志願するんだよ」
 タイゾーは無二の了承も得ずに勝手に話を進めた。無二は少し様子を見てからガードに志願しようと考えていたが、成り行きに任せることにした。
「ガード!」
 カイの真っ黒な瞳が一瞬にして輝きを増した。
「あ、そっか、カイも大きくなったらガードになりたいんだったね。ムニさん、こいつガードを目指してるんです」
 無二は苦笑いして「そうか」とだけ応えた。子供の扱いは馴れていない。
「ねぇ、ムニは強いの? サムライ? 〝向こう〟にもいっぱいいるんだよね? ニコタマにもいるよ。ねえ、人斬ったことある?」
「こらこら、ムニさんが困ってるだろ。ムニさん、先にニコタマを案内しますね。それが済んだら鍛冶屋にこの鉄クズを納品しに行きます」
「ええ、俺はどっちでも構いません」
 するとカイは「俺も行く!」と勢いよく手を挙げた。無二はまた苦笑いをしたが、少年に気に入られたことはまんざらでもなかった。
「じゃあついてきてください」
 タイゾーはそう言うと、密集したテントの隙間に足を踏み入れた。カイは無二の左にぴったりとついてくる。無二は念のため、袋に入った刀を右手に持ち替えた。
「この辺は屋台が並んでいます。基本的に川に近い側が居住地域、陸側に店や仕事場などがあります」
「襲撃されたときのためですか?」
「ええ。川沿いからは絶対に襲撃されませんし、何かあったら川に逃げられますからね。そのための船も作ってあります。といっても、ニコタマはまだ大規模な襲撃に遭ったことはないんですが」
 すれ違う人々は、やはり無二にあからさまな警戒の視線を投げる。テントの隙間からこっそりと覗く者もいる。カイはよそ者を案内しているのが得意なのか、ニコニコしている。
「ここから真っ直ぐ行くと鍛冶屋や修理屋、縫い物屋が並んでいます。用があるのはそちらなんですが、先に居住地域を案内しますよ」
 タイゾーはそう言って川沿いを目指した。気がつけば子供たちが後ろからぞろぞろとついてきていた。
「お前ら、あっち行けよ」
 カイがそれらを退けようとするのを見て、無二は訝しんだ。他の子供がついてくると何か不都合でもあるのだろうか? それとも、よそ者を自分が最初に受け入れたという子供っぽい虚栄心を満たしたいだけなのか? 
 川風に乗って洗剤や石鹸の匂いがしてきた。
「ぼちぼち居住地域です。ニコタマでは基本、家を建てるのは禁止されています。大きな建物は食堂と倉庫、あと病院だけで、それ以外はほとんどテントです」
 居住地域に入ると、さらに視線がきつくなってきた。外国語もちらほら聞こえてくる。無二は警戒心を少し強めた。
「おれんち、もうすぐだよ、ほら、そこの……」
 カイが前方を指さした瞬間、テントの中から見たところ二十代半ばの女が出てきた。黒髪を後ろで縛り、黒目の大きな瞳から気の強さが感じられる。
「げ、ヤ……ヤベェ」
 カイはとっさに無二の後ろに隠れたが、遅かった。
「カイ! 何してんのこんなところで! 今日はおばさんのところでお手伝いするんでしょ?」
「いや、ち……違うんだよ姉ちゃん、この人新しく入って来たからニコタマを案内してあげようと思って……」
「ムニさん、カイのお姉さんのミナさんです。ミナさん、こちらはムニさん、ガードに志願するためニコタマに来られたそうです」
 タイゾーが説明すると、ミナは一際厳しい視線でムニの頭からつま先までを眺め、右手に持っているものに目線を止めた。そして改めてカイを見やると、
「あんた、この人案内しただけでチケットもらおうとしてんでしょ? そんなの絶対許さないからね! 今すぐ仕事に戻りなさい!」
 ミナの剣幕にカイは完全に呑まれ、意気消沈してしまった。苦笑いするタイゾーと無言の無二をちらりと見て、カイは踵を返しとぼとぼと去っていった。ミナはその背中を少し切なげな眼差しで見送ってから再び無二に厳しい視線を向けた。
「あんた、〝向こう〟から来たんでしょ? 何しに来たの? 腕試し? そういうのが何人もここに来てすぐに殺されていったわ。はっきりいって迷惑なの、観光が済んだらさっさと元いた世界に帰ってくれる?」
「ちょっとミナさん……」
 タイゾーは困った顔で仲裁に入ろうとした。
 無二はさすがに腹が立ち、ミナを睨み付けると、
「帰らねぇよ、やるべきことがあるんでな。ここの秩序は守る、生き死にの勝負は向こうでもさんざんやってきた。俺が残るか去るかはあんたが決めることじゃねえよ」
 と言い放ち、軽い闘気をミナに発した。しかし彼女はしっかりとそれを受け止めてから、「勝手にすれば?」と吐き捨ててテントに戻っていった。
 タイゾーは無二を見て一つ溜息をつくと小声で、
「ミナさんの恋人は元ガードだったんです。婚約もしてて……ああ、といってもニコタマ式のものですが。だけど……殺されちゃって、それ以来……」
 と無二に耳打ちした。
「そうでしたか。けど、弟もガードに……」
「そうなんです。カイはコウイチさん――ミナさんの婚約者になついて憧れてたから。ミナもコウイチさんが生きてるうちはカイがガードになることを応援してたんですが、コウイチさんが亡くなってからは猛烈に反対しています。一度血が出来るまでカイを殴り続けてみんなで止めたこともあって……。まあでも根は悪い人じゃありません、許してあげてください。では案内を続けましょう、カツラさんにもご紹介しないといけませんし」
 タイゾーはそう言ってまた歩を進めた。
 無二はミナのテントを覚えておくことにした。しばらくは近づかない方がいいだろう。カイとの接触も避けるべきだろうか? 最初から問題を起こすと後々仇討ちがやり辛くなるかもしれない。
「川沿いは川上から水くみ場、次にシャワー、川下が洗濯所になっています。トイレは川には流しません。他の集落とトラブルになりますから。洗濯はできるだけ洗濯屋に渡してください、そうすると仕事になり、彼らも食事にありつけます」
「食事は配給ですか?」
「ああ、そうでしたね。ニコタマの基本システムとしては、朝食は皆平等に配給、昼に仕事をすれば夜食事にありつけることになっています。基本的に子供も老人も働きます。病人も重病でないかぎり縫い物などをしてもらいます。仕事をした証拠として、取引先から〝チケット〟をもらい、それを配給係に渡すと食事が提供されるという仕組みです。ちなみに、ガードに入れば何もしなくても好きなだけ食事にありつけます。ただ、その分命がけの仕事をしないといけませんが。じゃあ、カツラさんのところに行きましょう」
 無二は頷くと、またタイゾーの後に従った。
 川沿いをしばらく歩くと、右手前方にいくつかの建物が見えてきた。
「あのログハウス風の建物が食堂、あっちが病院です。一応外科、内科、歯科、産婦人科とそれぞれ分かれています。といっても、不思議とこちらには病気になる人はあまりいません。僕も向こうにいたときはよく風邪をひいたり花粉症もひどかったんですが、こっちに来て半年もすれば丈夫な体になっていました」
「じゃあ、あなたは……」
 無二が何かに気づいたように訪ねると、タイゾーは待っていたかのように言葉を継いだ。
「はい、〝ロスト〟です」
 そう言ってタイゾーは少し目を細めた。
 旧東京を隔離するための〈ウォール〉の建設が始まった2030年代から、一般社会を捨ててラスパラへと失踪する者が急増した。その多くは計画的なものではなかった。ある日突然ふらりと消息を絶つのである。有名な社会学者がそれを、英語の「lost」が持つ二重の意味――迷う、失う――と掛け合わせ、「ロスト現象」と名付けた。本人はラスパラへと迷い込み、残された者は家族を失うという意味である。簡潔でインパクトの強いネーミングがメディアとマッチし、「ロスト現象」はほんの数日で全国的に認知された。すると皮肉なことに、ロストとおぼしき失踪者はその年から激増し、名付けの親である教授は責任を追及され民事裁判にまで発展した。
 タイゾーはばつが悪そうに下を向くと、
「向こうには嫁も子供もいました。本当に幸せな日々でしたよ。それが、ある朝起きて朝食を食べ、駅に向かうとなぜかいつもと反対の川崎方面の電車に乗っていました。そのまま関所まで歩き、スーツ姿でここニコタマに流れ着きました。それ以来一度も帰っていません」
「帰る気は……」
「今さら無理ですよ。受け入れてくれないでしょう。妻はロスト保険なども入ってなかったと思います。会社は解雇されてるでしょうし、僕のせいでいらぬ苦労をしているはずです。そういえば、ムニさんも……」
 無二は一瞬開きかけた口を閉ざし、ぎこちなく口角を上げると、
「俺も……ロストですよ。まあ、帰るつもりはしていますが」
 本来の目的である仇討ちの事は伏せた。
 タイゾーは同じ境遇に安心したのか、クスッと笑うと、
「皆必ずそう言います。『心の傷が治ったら』、『ほとぼりが冷めたら』と。そうして気がついたときにはもうこちらの生活に慣れきって、向こうでまた仕事をするなんて考えられなくなります」
 その点については無二も危惧していた。もしかしたら自分も……
「すいませんね、感傷的にさせちゃって。では行きましょう。カツラさんはたぶん貯蔵庫にいると思います」
 二人は再び川沿いの土手を歩き、しばらくしてアスファルトの剥がれた道を折れた。この辺りは材木置き場らしく、大きな丸太や木の枝が無数に積まれている。その枝を使ってちゃんばらごっこをしていた小さな子供たちが、無二を見て動きを止め、じっと目で追ってきた。
「あそこです、あ、カツラさーん!」
 タイゾーが呼ぶと、ビーチチェアに寝そべって何かを飲んでいる男が手を挙げた。彼の後ろにあるいびつな煉瓦造りの建物が貯蔵庫らしい。
 カツラはさっと無二に目をやると、ビーチチェアから起き上がって、サンダルを履かず素足のまま二人を迎えた。
 ――こいつ……できる。
 無二はそう直感した。
 サンダルを履かないのは、いきなり斬りつけられても動けるように用心してのことだろう。一見のっそりと立っているだけのようだが、前後左右に気を張り巡らせ、自分と無二の間にタイゾーが来るように位置関係を調節している。
 無二は礼儀として、右手で持ったままの刀を、鞘が後ろになるように持ち替えた。刀は袋に入っていて見えないはずだが、カツラが認識しているのは気配で分かった。
「カツラさん、こちらはムニさん、ガードに志願したいそうです」
 無二はおじぎをすると、改めてカツラの風貌を観察した。丸めた頭と無精髭にはかなり白いものが目立っている。見たところ五十代前後。酒を飲んでいるのか、顔はほんのりと赤らんでいる。自堕落な飲んべえといった印象だが、それが虚(きよ)であることを無二は見抜いていた。
「あんたも飲むか? ニコタマ特性ビールだ。美味いぜ」
 カツラはそう言って木製のジョッキを胸のあたりまで上げた。無二が攻撃しようとしたら顔面にぶっかけるつもりだろう。それを察し、無二はできるだけ気配を消した。
「いや、今は……。ここでガードをやりたいんだが――」
「ダメだ」
 カツラは無二の言葉を途中で遮った。
「争いは争いを呼ぶ。うちは非暴力主義でね。強えのを探してる集落はそこら中にある。よそを当たってくれ」
「そうか……」
 非暴力主義という言葉を聞いた瞬間、無二は心のどこかで安心を覚えた。そしてカツラを真っ直ぐ見据えると、〈天心〉を発動した。
 刹那、カツラの表情が固まった。
 無二は無造作にカツラの間合いに入ると、「いただこう」とジョッキを掴み、引き寄せた。
 間合いを出、〈天心〉を解くと、カツラの瞳が微かに輝きだした。
「――気に入った。前言撤回だ!」
「え、ほんとに!」
 タイゾーが驚きの声を上げた。
 ――と、
「カツラー」
 遠くから誰かが走ってくる。
 無二はビールをカツラに返し、右手に持った刀を背中から回して左手に持ち替えた。カツラはそれに気づいたようだが、反応はしなかった。
 カイよりも少し大きい少年が口の両端に手を当ててメガホンのようにし、
「立ち合いだってー、すぐ来て! イゾウが呼んでこいって」
「おう、分かった。すぐ行く!」
 カツラが応えると、少年は踵を返し走り去った。
 カツラはニヤリと破顔して顎髭をなぞると、
「ちょうどいいぜ。入隊試験といこうじゃねえか」
 無二は少し困惑した。
「さっき入隊許可は……」
 と途中まで言い、口を閉ざした。ここは相手のルールに従うべきだろう。それに、ニコタマに立ち合いを挑む者がどの程度のレベルなのかを知るチャンスだ。
「やるか?」
 カツラは相変わらずニヤニヤしながら無二を眺めている。
「いいぜ」
 無二は内心『食えない男だな』と思いつつも、討ち屋の仕事と同じ感覚で了承した。最初に実力を見せておけば印象も変わるだろう。
 カツラに先導され立ち合いの場所へと向かう最中、タイゾーは相変わらずニコタマの紹介に余念がない。
「このへんは元職人だった人たちがいろんなものを創ったり修理したりしています。ここを抜けたら運動場、そこに相手がいるはずです」
 無二は軽く頷くと、ついでにある質問をぶつけた。
「ところで、相手はどうすればいい? ニコタマの流儀でもあるのか?」
「ねえよ、あんたの好きにしていい」
 カツラはそう言ったが、無二は信用しなかった。何かをテストしているのだろう。
 視界の前方が徐々に開けてきた。元はサッカー場らしい広大な土地に、小屋がぽつぽつと建てられており、廃車や廃材が積まれている。
 中央にはもう人だかりができていて、その輪の中心に数名の男がいる。カツラが近づくと、人の波が割れ二人の前に道ができた。無二は痛いほど視線を感じたが、それらを無視して中央の男達に気を合わせた。こういった場面は討ち屋の仕事で慣れている。
 山伏のような装束の男と、上下黒の軍服を着崩した男が対峙している。黒の軍服がイゾウだろう。
「よう、カツラ、今からおっぱじめるところだ、ん、そいつは?」
 声が甲高く、ノイズが混じったように歪んでいる。
「イゾウ、下がってろ。そいつは新入りのムニが相手をする」
「ちょ、待てよカツラ――」
「久々の入隊試験だ。文句あっか?」
 カツラがニヤリとすると、イゾウは細い目をいっぱいに開いて驚いた。
「入隊って……カツラ、お前が許したのか?」
(このイゾウというやつの驚き方、よっぽどのことらしい……)
 無二は内心そう感じたが、表情には出さないようにした。
 蠅のようにまとわりつくあちこちからの視線を無視しながら、無二はカツラにいつでもやれることを目で合図した。
 不満そうなイゾウが無二を睨みながら後ろに下がった。
 カツラはニコタマ住民と対峙するように立つ山伏姿の男に近づき、
「で、要求は?」
 男は大げさに咳払いすると、
「では再度申し上げよう。拙僧は元叡山ゲリラ僧の雲海と申すもの。還俗した後この地を腕一本で渡り歩いてきた。以前は明治神宮のガードを斃して半年の食客兼用心棒生活をしておったが、半年の契約がたった二ヶ月で追い出される始末。ここニコタマなら食料も豊富にあるだろう。そこでだ」
 雲海は無二をちらりと見てまた目線をカツラに戻す。
「拙僧が勝てば一年の逗留を認めてもらいたい。その間の食費はそちら持ち。仕事はガードなりなんなりとする。いかがかな?」
「はぁ……」
 カツラは大きくため息をつくと振り返り、
「イゾウ! てめぇこんなの相手にしようとしてたのか? バカかお前は?」
 そう大声で怒鳴ると群衆がどっと湧いた。改めて雲海を見て、
「悪いなあんた。うちはガードは間に合ってる。あと、あんまり嘘つかないほうがいいぜ。叡山の名前出してびびるやつはここにはいねえよ」
 雲海の目つきが変わった。
「拙僧が嘘をついていると? 叡山にいたのが嘘だと!」
 顔がどんどん真っ赤になっていく。
 カツラは白いものの混じった無精髭を撫でると、
「あのなぁ、叡山のやつらは〝叡山〟って言わねえんだよ。普通は〝御山(おやま)〟か、ただ〝山〟と言う。キャラ練り直してよそ言ってきな」
 雲海の顔がほとんど紫色に変わったところで、カツラは無二の背中をポンと叩いた。
(なんてやつだ)
 無二は試されていることを最初から分かっていた。平和主義を掲げるガードのカツラに〈天心〉を発動し、自分には争いを納める力があることを提示した。カツラはそれを一瞬で理解し受け入れた。
 そして今、
『ではこの怒り狂った素人丸出しのエセ武道家にお前の〈天心〉は効くのかな?』
 と試しているのである。
 意地の悪さでは師匠の喜三郎と同列、いやそれ以上かもしれない。
「ぬおォォ! 貴様ら、もう許せん! 神罰を受けるがよい!」
 雲海は両腰に差した刀を二本同時に勢いよく抜いた。
「神罰じゃなくて仏罰だろが……」
 カツラが言うとまたニコタマの群衆が湧いた。
「じゃあムニ、あとは頼んだぜ」
 そう言って無二に向けたカツラの瞳は、どこまでも彼の心の奥を見通しているようだった。
 無二は心中舌打ちすると、いつもの癖で雲海の目付に入った。
 ――上段からの斬撃、恐らく片方から来る、入り身で外に躱せば次の一撃で勝てる……。
 そう分析すると、あえてカツラに刀を渡した。
 雲海に対峙すると、すぐにあの感覚が始まった。
 消えていく……敵意も、欲も、この場にいる意義さえも……
 するといつの間にか無二の足が雲海に向かっていた。
 上段に敵の剣がふたつ。
 すたすたと間合に入ると、無二は雲海に〈二打不要(にのうちいらず)〉を打っていた。
 くぐもった声を漏らし、雲海は刀を落として膝から崩れ落ちた。心臓は外したので絶命はしていない。
 無二は巨体の後ろに回ると、雲海の顎を上げ、背中を何度か叩いた。
 雲海が何かを吐き出すように大きく息をつくと、無二は残心しながらカツラを見た。
 ――文句があるなら不合格にしやがれ!
 カツラは無二の気を受け止めるとニヤリと嗤った。
「それまで。うちのガードはこれぐらい実力がねえと務まらねえ。悪いこた言わんから、よそを当たってくれ。さあお前ら、見世物は終わりだ! とっとと仕事に戻れ、メシにありつけねえぞ」
 あちこちから文句やため息が聞こえてきたが、それでも群衆は素直に引き上げていき、男たちが雲海に肩を貸して集落の外に連れて行った。
 素直に言うことを聞くニコタマ住民たちを見て、この集落におけるカツラの存在が無二にも少しだけ分かってきた。
 と、
「お前、強ぇーな! さっきのはあれか、なんつったっけ、アイなんたらみたいな……」
 イゾウが初めて笑顔を見せ、唾を飛ばしながらまくしたてた。
「師匠から昔聞いたことがあってよ、剣を構えた相手に指一本動かさせずに斬るのが奥義だってよ。ヘッ、一切信じちゃいなかったがな、カツラに会うまでは。なんだよ、お前もできんのかよ!」
 細い目をいっぱい見開いて興奮しながら語るイゾウの言葉を無二は聞き逃さなかった。
「相抜(あいぬ)け――」
 群衆を帰らせていたカツラがこちらを向いて言った。
「活人剣、天剣、合気……。流派によって言い方は違うがな。相手に攻撃心を起こさせず、こちらは生かすも殺すも自在。まあ武道にとっちゃ理想の状態だ。だがな……」
 カツラは先ほど無二から預かった刀を袋から出し、音もなく抜いた。
 鞘をイゾウに渡すと、無二に向かって軽く上段に構えた。
 ――来い。
 カツラの気が無二に告げた。
 無二は静かに〈天心〉に入る。自らが発する柔らかな気がカツラに届いたことを感じると、無二はすたすたと歩きはじめた。
 ふわりと手がカツラの小手に伸びた。
 と同時に、カツラの剣が無二の首筋を捉えていた。
 無二の背筋に冷たいものが走った。
 気が付けば、カツラの気に包み込まれ、無二は動けなくなっていた。
「…………」
 カツラは何事もなかったかのように刀を引き、鞘に収めると、
「こいつは預かっておく。この集落は帯刀禁止だ。必要ならいつでも言ってくれ。今から長老に会わせるから一緒に来い」
 無二は全身にびっしょりとかいた汗をようやく不快に感じはじめた。

「んぁ~、よかよか」
 顔の上半分は皺、下半分は白髯に覆われた小柄な老人は、カツラが紹介する前に無二の滞在を承諾していた。
 てっきり最終試験だと思って構えていた無二は拍子抜けした。
「すまねえ、面接だと思ったか? 長老はいつもこうで、来る者拒まずの精神だ。ただ、こう見えて記憶力は抜群でな、一度見た顔は忘れねえ、だから最初に長老に面通ししておいて、後でニコタマ住民かどうか分からなくなったらチェックしてもらうのよ。さ、これでお前はうちの住民、ガードの一員だ。今夜はパーっと……てわけにもいかねえが、メシは好きなだけ食ってくれ」
「ありがてぇ」
 無二はカツラにそう告げると、長老に向かって手をつき、深々と礼をした。
「この集落のために精一杯働きます」
「んぁぁ~、よかよ、よかよか」
 長老はアンティークの人形のように、同じ表情で同じ台詞を繰り返している。この老人が超人的な記憶力を持っているとは思えなかったが、無二は疑うことをやめた。ラスパラには自分の経験や知識を超えた何かがある――先ほどカツラに〈天心〉を破られてから無二はそう確信していた。
「ところで、あれは……」
 無二は長老の後ろに積んである無数の石を見て訊ねた。
「あれはな、ここで死んだやつらだ。誰かが死ぬとそいつの近くにある石を拾って長老に届ける。それが神になってニコタマを護ってくれるんだとか」
「んん~、よか」
 カツラの言葉に応えたのか、長老はそう言って両手をさすりながら目を瞑った。
 無二はもう一度軽く礼をして長老の元を後にした。
「ところでカツラ――」
「あーそうだ、お前のテントだな。寝るまでには準備させとくよ。それからガードは洗濯も無料だ。洗濯係にも言っておくから後で持っていきな。じゃあ俺は倉庫番に戻るから、晩飯は日が暮れた頃だ。食堂で待ってるぜ」
 カツラはそれだけ言うと無二に背を向けてさっさと倉庫へと戻っていった。無二は先ほどの〈天心〉破りについて問い正そうとしたが、はぐらかされてしまった。
 まだ日は高いが、春の陽気はなく、川風が体温を奪っていく。無二は背中にかいた汗で冷えないよう、リュックから発熱素材を使ったヒートパーカーを取り出して羽織った。
「あ! いた! おーいムニ、試験受かったんだって? ガードになったんだって?」
 カイが走ってきた。後ろに女の子もいる。
「ああ、合格したらしい。さっき長老にも会ってきた」
「よかよかー」
 女の子は長い黒髪の先端を口に当て、顔をくしゃくしゃにして長老のマネをした。
「よか爺に会ったらもうムニも立派なニコタマ住民だね。あの爺ちゃん絶対顔忘れないから。――えっと」
 カイは一瞬うつむくと、やや顔を赤くして、
「この子はマコ。その……」
「ガールフレンドか?」
 無二はもじもじするカイをからかった。自分でもなぜそんな軽口が出たのかは分からなかった。
「ち、違うよ! なんていうの、友達よりちょっと上っていうか、妹っていうか…」
「あーっ! カイ、こないだマコのこと好きって言ったのに!」
 マコはどんぐりのような大きな目と小さい口をいっぱいに開いて、信じられないという表情をした。
「バカ! 何言ってんだよ、ムニはガードだぞ!」
 カイは筋の通らない言い訳をし、改めてムニを見上げると、
「ムニ、マコの仇討ちを頼みたいんだ。お礼は何でもする。姉ちゃんに殴られたっていい」
 ムニはその言葉を聞いた瞬間、戦慄した。この新天地で自分が討ち屋であると知らないはずの子供からこうもすぐに仇討ちを依頼されるとは……。
 マコは無二を見上げると、
「マコ、元々ジュク――シンジュクにパパと住んでたの。ママはわたしが大きくなる前にどこかに行っちゃった。パパはシンジュクでガードをしたり、危ないこともしてて、たぶん、そのせいで恨まれて……とても酷い殺され方だった。怖くなってジュクから逃げて、ニコタマは安全だからって聞いて、何日もかけてここに来た。ニコタマのみんなは受け入れてくれて感謝してるけど、カツラは話も聞いてくれないし、イゾウはカツラに止められているからって。一人だけ相談に乗ってくれたコウイチも……」
 無二はコウイチがミナの元フィアンセでガードだったことを思い出した。子供に慕われていたのだろう。
 膝をつき、必死にまくしたてるマコに目線を合わせた。
「マコ……、仇討ちは仇討ちを呼ぶ。お前が仇討ちをすれば、今度は誰かがお前に仇討ちする、だから……」
(俺は何を言ってるんだ!)
 今さら綺麗事を並べ立ててマコを説得する自分に苛立った。その連鎖のために妹や向こうでの生活を捨て、ラスパラまで来たのは自分ではないか?
 ニコタマは間違いなく仇討ちも含めたもめ事は禁止だろう。しかし、任務をこなし、自分の仇討ちが終われば知ったことではない。
「だからマコ、その仇討ち、助けてやる。ただし――」
 またどんぐりのような目を見開いて叫びそうになっているマコの口に手を当て、
「これは秘密だ。俺、マコ、そしてカイの三人だけのな。バレたら俺はニコタマを追い出されるかもしれない。俺が仇討ちに協力することは誰にも言うな、分かったか?」
 小声だが芯の通った口調で無二がそう告げると、マコは両手を握りしめ、無言で大きく頷いた。
「よかったね、マコ」
 カイも小声でそう告げた。
 輝きを増した二人の瞳に、無二は一瞬茜を想った。
 ――茜、近いうちにここを引き払って京都に行く。父さんの昔の仲間で、天心流の今の宗家のところで修行する。
 ――しゅぎょー!
 ――ああ、俺はもっと強くならないと、そうじゃないと父さんを斃したやつに仇討ちできねえ。
 ――茜もしゅぎょーしていい?
 ――いいけど、お前は剣が怖いんだろ?
 ――うん……でもたいじつできるよ!
 ――よし、じゃあ茜は体術を一生懸命稽古しな!
 ――うんっ! たいじつー、たいじつー!
「ねー、いつ出発する? 明日?」
 マコは両手を握りしめたままムニを真っ直ぐ見上げ、子供っぽくねだった。
 無二は一瞬噴き出すと、
「明日は無理だな。早くて数ヶ月、一年後、数年後かもしれない。ただ、約束は守る。それまでは誰にも言わずに待っててくれ」
 そう言うと、川の方へ歩いていった。

 あらかたニコタマを散策し、おおよその地形を頭に入れた後、無二は生活全般のサポートをする通称〝世話役〟にテントを設営してもらった。
 ちょうど日が落ちてきた頃で、
「そろそろ夕食ができてるから、食堂に行っといで。あんたガードなんでしょ? 羨ましいわねぇ、肉とか魚とか食べられて。その分ちゃんと働いてよ」
 おばさんが肩を叩いて笑った。
「ここはよく襲撃されるのか?」
「そうねぇ……昼間みたいな腕試しっていうの? ああいうのはたまーに来るけど、大規模なのはめったにないわね。湾岸とか内陸の方は毎日殺し合いしてるようなとこもあるみたいだから、行っちゃダメよ。まあ、うちも昔は荒れてたけど、カツラが来てから変わったのよ。……えらい人よ。みんなから尊敬されてるわ。だからカツラに認められたあんたも、すぐにここで受け入れられるから、心配せずに暮らしなさい」
 おばさんはひとしきりお節介を言うと、つぎはぎのジーンズで手を拭いて去っていった。
 ニコタマを散策中、同じようなことを何人もの住人から言われた。このニコタマはカツラの元に統率が取れていると見て間違いなさそうだ。そのカツラに認められ、第一段階はクリアしたと言っていいだろう。
 一方、本来の目的である仇討ちはやり辛くなりそうだ。平和主義のカツラは無二の仇討ちを認めないだろうし、それを明かせばここを放逐されかねない。
 いずれにせよ、まずは新横県警のスパイと接触すること。そして、彼の任務に協力すること。それだけを考えよう。
 無二はあらかた方針を決めると、食堂に向かった。人の流れに乗って歩いていくと、ひときわ大きな建物が見えてきた。そこから油や香辛料の香りが漂ってくる。
 靴のまま入ると、喧噪が一気に広がり、無二は顔をしかめながら食堂を見回した。体育館ほどの広さの食堂内には、会議室にあるような細長い椅子が雑然と並べられている。入り口は一つだけで、恐らく襲撃の際皆をここにかくまい、敵の攻撃を一カ所に集中させるためにそうしたのだろう。
 一番奥に炊きだしの巨大な鍋や木のトレイ、食器などが並んでおり、そこにきれいに列ができている。
 食事をするニコタマ住民たちは、一見〈ウォール〉の向こうと変わらないが、どこか生き生きとしているようにも見えた。ただ、体臭が食堂内に充満して、むせかえるようだ。
「おーいムニ、こっちだ!」
 イゾウのかすれた甲高い声がした。そちらを見ると、正方形のテーブルにカツラとイゾウ、そして見知らぬ男がいた。無二は直感した。
(あいつだ)

(試し読み終了)

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