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正しさゆえに伝わらなくなるのが文章【寄り道】#140

最近、文章に関する本を読む事が多いです。何冊か読みましたが、ぶっちゃけ8割くらいは無意識下で実践出来ていました。幼い頃から文字に触れていたからだと思います。

しかし、実践出来ているからと言って学びが無いかというと、決してそんな事はありません。実践出来ていない2割の部分がありますし、上記のような文章ノウハウは、あくまで「実践で身につけたもの」でした。その為、敢えて言語化しようと試みる事が無かったんですよね。ただ、何冊も読んでいくうちに”答え合わせ”をする事が出来ました。文章の本をわざわざ書く人達なので、勿論その道の”プロ”ですからね。非常に勉強になります。

その中でも、特に印象に残った気づきがあったので共有します。

■文章には、敢えて寄り道が必要だと言う事。

ここで言う”文章”とは、今ご覧になっているnoteや様々な本、記事を指します。※ビジネスメールなどは除く。

小説なんかは、特にいい例ですよね。例えば、

夏の夕方、帰り道を歩いた。

対して、

暑さの残る晩夏の黄昏時、一人帰路につく。学生時代と変わらない風景を横目に、どこか懐かしい気持ちになった。少し回り道をして帰ろうか、なんて考えてみたりする。

即興で書いており、かつ自分は小説家では無いので、例文にツッコミは無しでお願いします(笑)。言ってる事は同じ、「夏の夕方に家に帰る」という内容です。ただ、回りくどく詳細に書くことで、読者に状況をより鮮明に伝える事が出来ます。

この”回りくどさ”は、ドヤ顔で文章力を見せつける為に書くわけではありません。回りくどく、寄り道をして書く必要性があるので、”敢えて”そうなっています。

今、例文を読んで頂いて気付かれたと思いますが、文章には圧倒的に「客観性」が必要となります。つまり、「何も知らない人が読んでも分かるように、より詳細に記載する必要」があるんですよね。ここを、「より端的に伝えよう」「書かなくても分かるだろう」「細かく書かない事が美学だ」こんな考え方の元で、よりスマートに書こうとする方が多くいらっしゃいます。これは、”考え方”としては正しいのかも知れませんが、”文章”としては誤りです。書き手が主観的になればなるほど、より淡白で、意図の伝わりにくい文章が出来上がります。

私を含めですが、特にnoteの記事はそんな文章が多いように感じます。添削される訳でも無く、皆さん自分の書きたいように書かれている。それが悪い。とまでは言えませんが、あくまで文章の質を高めるといった意味合いで考えると、より「客観性」を意識する必要があると感じます。



今日も、誰かの気づきとなりますように。

ニコラス

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