「介護について、思ったこと」㉓「介護疲れ」と「介護殺人事件」を再考する。
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初めて、読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
介護について、思ったこと
このnoteは、家族介護者に向けて、もしくは介護の専門家に対して、少しでも役に立つようにと考えて、始めました。
もし、よろしければ、他の記事にも目を通していただければ、ありがたいのですが、基本的には、現在、話題になっていることよりも、もう少し一般的な内容を伝えたいと思って、書いてきました。
ただ、その時々で、改めて気になることがあると、もしかしたら差し出がましいことかもしれませんが、それについて考えたことを、お伝えしようと思いました。
よろしかったら、読んでいただければ、幸いです。
今回は、「介護疲れ」という、よく聞くようで、実はまだはっきりとわかっていないことについて、改めて考えてみようと思いました。
(※今回は、特にテーマも内容も重いので、介護で辛い状況にいる方にとっては、読むことで返って気持ちの負担になってしまう可能性もあります。ご注意くだされば、幸いです)。
介護殺人事件
自分が介護をしていたり、現在も、介護者支援に関わっていることもあって、「介護殺人事件」のニュースはとても多く感じています。
それは、自分の関心が高いせいで、より多く目にし、耳に入ってくる傾向も強いと思うのですが、それでも、これだけの重大な出来事なのに、減少する気配が感じられないのも事実だと思います。
このことに関しては、ずっと「介護者の個別な心理的支援の必要性」を訴えてきました。具体的には、「介護者専用の相談窓口」を、市区町村に設置することを義務化してほしい、ということをささやかですが提案も続けてきたつもりです。
もちろん、そのことで、介護殺人事件が「顕著な減少傾向」を示すかどうかは分かりませんが、個人的には、「介護者相談」という、介護者の個別な心理的支援を10年続けてきた心理士(師)として、介護者の支援として必要なものだという確信はあります。
同時に、この20年でも、この「介護者相談窓口」という福祉サービスに関しては、ほとんど力を入れられてきていなかったので、まだあまりおこなわれていない「支援方法」を始めるべきではないか、という気持ちもずっとあります。
介護疲れ
こうした介護殺人の事件が起きるたびに、聞かれる言葉が「介護疲れ」です。
そして、実際の事件があった際にも、この「介護疲れ」はよく聞かれる言葉になっています。
こうした事件が起きるたびに「介護疲れで---」という「動機」のようなものが語られますし、「介護殺人事件」の際には必ず聞かれ、それは、そうした事件の動機として、なんとなく社会的にはわかっていることとして扱われているようなのですが、以前から、こんな疑問がありました。
こうした事件を起こしてしまうような動機として、「介護疲れ」という言葉は適切なのでしょうか。
事件を起こしてしまった当事者も、他に言いようがなくて、この単語を使っている可能性はないでしょうか。
一般的に「介護疲れ」というものは、どれだけ正確に理解されているでしょうか。
例えば、2022年に大阪市内で起きた、この事件のように、40年も介護を続けている生活が、「介護疲れ」といったコンパクトで日常的な表現で収まるとは思えません。
この「介護疲れ」がどういうものなのか、いまだに、ずっと理解されずに来たことが、こうした介護殺人を減らせない理由になっていると言ったら、言い過ぎでしょうか。
典型的な「介護疲れ」
偶然にすぎませんが、昨年は、神奈川県でも、40年介護をしてきた夫が妻を殺してしまう事件が起きてしまいました。
その判決のとき、こうした裁判官の言葉があったと報道されています。
これまで、約20年間で、700件を超える介護殺人事件が起こってしまっています。そのかなりの部分が「介護疲れによる事案」として捉えられているのかもしれません。
ただ、この「典型的な介護疲れ」とは、何なのでしょうか?
何年も、寝たきりであったり、重度の認知症である要介護者を、一人で介護を続けていれば、その状況であれば「典型的な介護疲れ」と判断されるのでしょうか。
この被告が、一人で介護すると強く決意した理由として、妻が倒れた際の医者の言葉があったはずだと思います。「前兆があったはずで気付かなかったあなたが悪い」。こうしたことを、医療関係者が言うことは決して適切とは思えませんし、この言葉が、とにかく一人で介護する、という頑なとも思える態度が続いたと原因の一つと考えるのが自然だと思うのですが、どうでしょうか。
ですから、周囲のサポートを受け入れないと責める前に、この介護者の40年の決意と覚悟と実践を尊重しつつ、こうした医療関係者からの言葉などからも、考える必要があると思います。
「終わらない時間」
それから、40年間、コミュニケーションはとれたとはいえ、左半身麻痺の妻を一人で介護する生活は、どのような過酷さがあったのかは想像ができないほどだと思います。
何しろ、介護はいつ終わるのか、分かりません。
実は、介護をしていくときにその「終わらない時間」がどれだけ人を追い詰めるかに関しての理解は、まだ、本当にされていないのだと思います。
(そうした介護者の心理については以前も書きました。長いのですが、もしよろしかったら、読んでいただければ、ありがたく思います)。
終わらない時間の過酷さで言えば、もしかしたら、不謹慎かもしれませんが、「夜と霧」で書かれた収容所の人の心理描写は、私自身が介護をしているとき、とても共感できる気がしましたし、介護の時にもある「終わらない時間」に関しては、この「夜と霧」以外で、適切に表現されている描写は、ほとんど記憶にないくらいです。
40年間、自分の配偶者を介護し、仕事も介護のために変えてまで、それは自分の人生を介護のために使っているに近いことでもあったのだと思われますが、同時に「終わらない時間」の中に居続けたことは間違いありません。
要介護者との関係が良好であったとしても、40年という、信じられないほど長い時間、「終わらない時間」の中にあって「介護疲れ」がなかったわけがないと思います。
「介護疲れ」の再定義
私は、この被告に比べれば短い19年間、元介護者として、幸いにも介護殺人事件を起こすことはありませんでした。
それでも、何度か、その際どい場所にいた、という記憶はあります。その時は、もう「終わらない時間」にいることが辛く、これを終わらせたいと感じていて、さらには、どうしようもなく孤立感があったとき、比較的、本人としては冷静に、すべてを終わらせようと思っていました。
ですから、こうした仮定をするのが不遜ですが、もしも、その時、実際に事件を起こしてしまったとしたら、私が何を証言しても、「介護疲れ」という言葉でまとめられてしまうように思います。
ただ、あれは、とても日常的とは思えない感覚でした。
昔、プロレスラーのジャイアント馬場さんが、プロレスラーのトレーニングのことについて、「普通は、練習でへとへとになった、って言いますね。プロレスはね、そこから練習が始まるんですよ」と言っていた記憶があります。
このことで、レスラーの日常的でない肉体の強さのようなものも伝わるのだと思いますが、実は「介護疲れ」も、こうしたことかもしれないと思うようになりました。
終わらない時間の中で、孤立し、もう心身の限界を超えているけれど、目の前に要介護者がいる限り、介護を続けるしかありません。そして、その時間がまた長く続き、ふと「もうこの時間を終わらせたい」と思って、目の前の要介護者を殺そうと思ってしまう。おそらく、そこに殺意と呼ばれる気持ちはないように思います。
さらには、こうした指摘↓についても、もっと検討されるべきではないでしょうか。
「介護殺人」に至るまでの家族介護者には、「介護疲れ」という短すぎる表現はやはり正確ではないのだと思います。
いつ終わるかわからない過酷な「介護環境」によって、介護殺人という非日常的な選択をするほど追い込まれた、心神喪失手前の、心身耗弱の状態。
やや、長いのですが、これが介護殺人にまで至ってしまうような、「介護疲れ」ということではないでしょうか。
「介護者支援」と言われてきた年月
家族介護者に対して、こうした心理的なサポートが必要だと、もう20年以上前から言われ続けています。
そのために、なるべく早く「介護者専用の相談窓口」を市区町村レベルで設置する必要があると、個人的にはずっと、とても微力ですが、訴え続けてきました。
この事件の被告については、40年前、介護を始めた頃、妻が倒れたことを「あなたのせいだ」と医者に責められ、それから「一人で介護していく」と決めた気持ちまで遡り、配偶者が脳梗塞で倒れたことは、その時の状況から考えて、決して被告の責任とは言えないのではないか。といったことも一緒に考え、そこから、周囲のサポートへの抵抗感を少しでもゆるめることから始める心理的支援ができたら、と思います。
ただ、そうした仮定自体が不遜で失礼ですし、それによって、本当にこの事件が防げたかどうかは分かりませんが、それでも、介護者にこそ、心理的な支援は必要だと思います。
「介護疲れ」の否定
一方で、「介護殺人事件」が起こった時、「介護疲れ」を否定するような記者の記事もありました。
「介護しきれなくなって」殺人事件を起こしたという見られ方が、「介護疲れ」による「介護殺人」なのでしょうか。その点について、違和感が膨らみました。少し長いのですが、この事件に至るまでの経過を記事にしてくれていますので引用します。
もし、「介護疲れ」による「介護殺人」が、「介護しきれなかった」と見られるとするならば、「介護を投げ出したいと思わなかった」という被告の夫が、「介護疲れ」という言葉を認めるわけはないのかもしれない、とも思いました。
「介護疲れ」の再考
10年も介護をしてきているのに、入院して退院後は、ヘルパーもケアマネージャーも、娘さんもいて「みんなで妻を支える生活」だから、「介護疲れはない」と本人が否定すれば、「介護疲れ」はないと判断されるのでしょうか。
これだけの期間、介護を続けてくれば、介護は「終わらない時間」の中で行われているのですから、基本的に、特に精神的な疲労は積もり続けていると考えるのが自然ですから、「介護による疲れ」はあって当たり前で、介護疲れがあったかどうかを尋ねるのは無意味にも思いますが、裁判での質問は、刑の重さに関係あるからでしょうか。
ただ、介護者は、本人の心身の疲れに対して、かなり自覚がないのが特徴ですから、その「介護環境」の大変さの程度によって、周囲が、その心身の疲労度を推察してもいいのではないか、と考えることは出来ないでしょうか。
さらに毎日のように、「首を絞めて殺してくれ」と夫は言われ続け、そして、それを、他の関係者には、伝えることができない毎日の心の負担感は、どれだけ大きかったのかは、想像されないのでしょうか。
こうした場合に、それが相談できるような環境、もしくは要介護者である妻への精神的な支援が、どれだけされていたのでしょうか。
この10年間で、妻が入院する前から、介護の精神的な負担に関して相談できる専門家がいたら、どうなっていたのでしょうか。もしかしたら、「殺してくれ」と言われることへの相談もできたかもしれません。
こうした仮定をするのは、不遜で失礼だと思いますが、これだけ起こり続ける「介護殺人」を少しでも減らすのであれば、関係者を責めるというのではなく、再発を防ぐためにも検討は必要だと思いますが、どうでしょうか。
「介護の行為で疲れて、介護をしきれなかった」という意味では、この事件の被告である夫は「介護疲れ」ではないかもしれません。
ただ、『いつ終わるかわからない過酷な「介護環境」によって、介護殺人という非日常的な選択をするほど追い込まれた、心神喪失手前の、心身耗弱の状態』にあったことは間違いないように思います。
それが「空白の30分」で示されているようにも思います。
そうであれば、介護の負担や負担感が、ともすれば、実際よりも軽く感じられる可能性がある「介護疲れ」という単語をこれからも使うのであれば、その正確な再定義をするべきではないかと思います。
繰り返しになりますが、『いつ終わるかわからない過酷な「介護環境」によって、介護殺人という非日常的な選択をするほど追い込まれた、心神喪失手前の、心身耗弱の状態』と定義しても、それほど大きく外れていないのではないかと思います。
この再定義を提案したいのは、介護の過酷さが、少しでも伝わるようになり、そのことで、介護者の支援が少しでも進むようになることを、願っているからです。
もう、「介護者の支援が必要」と提言する段階は終わりにして、「介護者の支援」の具体的な実現が必要なのは間違いありません。
その一つが「家族介護者の個別の心理的支援」をするための「介護者相談」の窓口の設置だと、私は考えています。
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この記事を読んでくださり、ありがとうございました。もし、お役に立ったり、面白いと感じたりしたとき、よろしかったら、無理のない範囲でサポートをしていただければ、と思っています。この『家族介護者支援note』を書き続けるための力になります。 よろしくお願いいたします。