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「介護について、思ったこと」㉓「介護疲れ」と「介護殺人事件」を再考する。

 いつも読んでくださる方は、ありがとうございます。
 そのおかげで、こうして書き続けることができています。

 初めて、読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


介護について、思ったこと


 このnoteは、家族介護者に向けて、もしくは介護の専門家に対して、少しでも役に立つようにと考えて、始めました。

 もし、よろしければ、他の記事にも目を通していただければ、ありがたいのですが、基本的には、現在、話題になっていることよりも、もう少し一般的な内容を伝えたいと思って、書いてきました。

 ただ、その時々で、改めて気になることがあると、もしかしたら差し出がましいことかもしれませんが、それについて考えたことを、お伝えしようと思いました。

 よろしかったら、読んでいただければ、幸いです。

 今回は、「介護疲れ」という、よく聞くようで、実はまだはっきりとわかっていないことについて、改めて考えてみようと思いました。



(※今回は、特にテーマも内容も重いので、介護で辛い状況にいる方にとっては、読むことで返って気持ちの負担になってしまう可能性もあります。ご注意くだされば、幸いです)。



介護殺人事件

 自分が介護をしていたり、現在も、介護者支援に関わっていることもあって、「介護殺人事件」のニュースはとても多く感じています。

 それは、自分の関心が高いせいで、より多く目にし、耳に入ってくる傾向も強いと思うのですが、それでも、これだけの重大な出来事なのに、減少する気配が感じられないのも事実だと思います。

介護殺人は、1998年から2015年までの間に716件発生しており、結果724人が死に至っているとされています。ここで問題になるのは、高齢者福祉制度の充実が図られるようになって以降も、その数が顕著な減少傾向を示しているわけではない、という点です。

(「全国地域生活支援機構」より)

 このことに関しては、ずっと「介護者の個別な心理的支援の必要性」を訴えてきました。具体的には、「介護者専用の相談窓口」を、市区町村に設置することを義務化してほしい、ということをささやかですが提案も続けてきたつもりです。

 もちろん、そのことで、介護殺人事件が「顕著な減少傾向」を示すかどうかは分かりませんが、個人的には、「介護者相談」という、介護者の個別な心理的支援を10年続けてきた心理士(師)として、介護者の支援として必要なものだという確信はあります。

 同時に、この20年でも、この「介護者相談窓口」という福祉サービスに関しては、ほとんど力を入れられてきていなかったので、まだあまりおこなわれていない「支援方法」を始めるべきではないか、という気持ちもずっとあります。

介護疲れ

 こうした介護殺人の事件が起きるたびに、聞かれる言葉が「介護疲れ」です。

介護疲れから起きる問題について。皆さんは「介護殺人」という言葉をご存知でしょうか? 「介護殺人」という言葉が一般的にも使われるようになってから既に長い時間が経っています。それほど「深刻な問題」という認識が社会にあると考えられます。
一方で、この背景には、「介護疲れ」があるのではないかということも語られています。介護殺人の特徴を見ていくと、介護の現実が見えてくるものがあります。

 「介護疲れ」の大きな問題は、心身の疲れそのものもありますが、その結果、「思考を奪われることにある」と言っても過言ではありません。と言うのも、「介護殺人」に至ったケースに、「思考が正常に働いていたなら」と考えられるケースが多くあるからです。

(「全国地域生活支援機構」より)

 そして、実際の事件があった際にも、この「介護疲れ」はよく聞かれる言葉になっています。

「理解してください。本当に大変だったんです」。寝たきりの妻=当時(72)=を絞殺したとして殺人罪に問われた男(81)は、11月に大阪地裁で開かれた裁判員裁判でこう訴えた。男は40年近く妻を献身的に介護。自身に認知症の症状が現れても妻を支えようとしたが、事件は起きてしまった。

「殺すことは考えたこともない…」と涙ぐむと、「これほど妻を長生きさせるのは並大抵の努力ではない。理解してください。本当に大変だったんです」と訴えた。
事件は2月13日朝、大阪市内のマンション一室で起きた。「介護疲れで、やってはいけないことをしてしまった」と自ら110番。警察官が駆け付けると、首にタオルが巻き付けられた状態でベッドに横たわる妻の姿があった。警察官に「体が動かなくなって、これ以上面倒を見ることができないと思った」と打ち明けた。

(「THE SANKEI NEWS」より)

 こうした事件が起きるたびに「介護疲れで---」という「動機」のようなものが語られますし、「介護殺人事件」の際には必ず聞かれ、それは、そうした事件の動機として、なんとなく社会的にはわかっていることとして扱われているようなのですが、以前から、こんな疑問がありました。

 こうした事件を起こしてしまうような動機として、「介護疲れ」という言葉は適切なのでしょうか。
 事件を起こしてしまった当事者も、他に言いようがなくて、この単語を使っている可能性はないでしょうか。
 一般的に「介護疲れ」というものは、どれだけ正確に理解されているでしょうか。

 例えば、2022年に大阪市内で起きた、この事件のように、40年も介護を続けている生活が、「介護疲れ」といったコンパクトで日常的な表現で収まるとは思えません。

 この「介護疲れ」がどういうものなのか、いまだに、ずっと理解されずに来たことが、こうした介護殺人を減らせない理由になっていると言ったら、言い過ぎでしょうか。

典型的な「介護疲れ」

 偶然にすぎませんが、昨年は、神奈川県でも、40年介護をしてきた夫が妻を殺してしまう事件が起きてしまいました。

 その判決のとき、こうした裁判官の言葉があったと報道されています。

被告は「自分1人で介護しなければならない」という強いこだわりから介護施設に入所させることをためらい、自分自身で介護することができなくなることを一方的に悲観して、被害者の気持ちを聞くことすらせず、命を奪った。周囲のサポートを受けることができる状況においてあえて拒み、被害者の意向を無視して犯行に及んだ点で、典型的な介護疲れの事案と同視することはできない。

(「NHK かながわ情報羅針盤」より)

 これまで、約20年間で、700件を超える介護殺人事件が起こってしまっています。そのかなりの部分が「介護疲れによる事案」として捉えられているのかもしれません。

 ただ、この「典型的な介護疲れ」とは、何なのでしょうか?

 何年も、寝たきりであったり、重度の認知症である要介護者を、一人で介護を続けていれば、その状況であれば「典型的な介護疲れ」と判断されるのでしょうか。

 証言などによりますと、妻が脳梗塞で倒れて左半身不随になったのは昭和57年ごろだったということです。
 当時、スーパーの従業員だった被告は1か月のうち10日間は出張で家を空けていて、妻が倒れたときも不在にしていたということでこの時、医者から「前兆があったはずで気付かなかったあなたが悪い」と言われたといいます。
被告
「『体が続くかぎり、1人で介護する』と決意した。その気持ちが揺らぐことはなかったし、今でも変わりない」

(「NHK かながわ情報羅針盤」より)

 この被告が、一人で介護すると強く決意した理由として、妻が倒れた際の医者の言葉があったはずだと思います。「前兆があったはずで気付かなかったあなたが悪い」。こうしたことを、医療関係者が言うことは決して適切とは思えませんし、この言葉が、とにかく一人で介護する、という頑なとも思える態度が続いたと原因の一つと考えるのが自然だと思うのですが、どうでしょうか。

 ですから、周囲のサポートを受け入れないと責める前に、この介護者の40年の決意と覚悟と実践を尊重しつつ、こうした医療関係者からの言葉などからも、考える必要があると思います。

「終わらない時間」

 それから、40年間、コミュニケーションはとれたとはいえ、左半身麻痺の妻を一人で介護する生活は、どのような過酷さがあったのかは想像ができないほどだと思います。

 何しろ、介護はいつ終わるのか、分かりません。

 実は、介護をしていくときにその「終わらない時間」がどれだけ人を追い詰めるかに関しての理解は、まだ、本当にされていないのだと思います。


(そうした介護者の心理については以前も書きました。長いのですが、もしよろしかったら、読んでいただければ、ありがたく思います)。

 終わらない時間の過酷さで言えば、もしかしたら、不謹慎かもしれませんが、「夜と霧」で書かれた収容所の人の心理描写は、私自身が介護をしているとき、とても共感できる気がしましたし、介護の時にもある「終わらない時間」に関しては、この「夜と霧」以外で、適切に表現されている描写は、ほとんど記憶にないくらいです。

 40年間、自分の配偶者を介護し、仕事も介護のために変えてまで、それは自分の人生を介護のために使っているに近いことでもあったのだと思われますが、同時に「終わらない時間」の中に居続けたことは間違いありません。

被告
「遠慮もあったのだろうが不満や要望を言われたことはあまりなく、こちらが困ったことはない。介護が始まってからはケンカをしたこともない」

(「NHK かながわ情報羅針盤」より)

 要介護者との関係が良好であったとしても、40年という、信じられないほど長い時間、「終わらない時間」の中にあって「介護疲れ」がなかったわけがないと思います。

「介護疲れ」の再定義

 私は、この被告に比べれば短い19年間、元介護者として、幸いにも介護殺人事件を起こすことはありませんでした。

 それでも、何度か、その際どい場所にいた、という記憶はあります。その時は、もう「終わらない時間」にいることが辛く、これを終わらせたいと感じていて、さらには、どうしようもなく孤立感があったとき、比較的、本人としては冷静に、すべてを終わらせようと思っていました。

 ですから、こうした仮定をするのが不遜ですが、もしも、その時、実際に事件を起こしてしまったとしたら、私が何を証言しても、「介護疲れ」という言葉でまとめられてしまうように思います。

 ただ、あれは、とても日常的とは思えない感覚でした。

 昔、プロレスラーのジャイアント馬場さんが、プロレスラーのトレーニングのことについて、「普通は、練習でへとへとになった、って言いますね。プロレスはね、そこから練習が始まるんですよ」と言っていた記憶があります。

 このことで、レスラーの日常的でない肉体の強さのようなものも伝わるのだと思いますが、実は「介護疲れ」も、こうしたことかもしれないと思うようになりました。

 終わらない時間の中で、孤立し、もう心身の限界を超えているけれど、目の前に要介護者がいる限り、介護を続けるしかありません。そして、その時間がまた長く続き、ふと「もうこの時間を終わらせたい」と思って、目の前の要介護者を殺そうと思ってしまう。おそらく、そこに殺意と呼ばれる気持ちはないように思います。

「介護疲れ」の大きな問題は、心身の疲れそのものもありますが、その結果、「思考を奪われることにある」と言っても過言ではありません。と言うのも、「介護殺人」に至ったケースに、「思考が正常に働いていたなら」と考えられるケースが多くあるからです。

(「全国地域生活支援機構」より)

 さらには、こうした指摘↓についても、もっと検討されるべきではないでしょうか。

加害者の立場の方が、事件の直前までは「周囲が感心するほどきめ細やかな介護をされていた」事例や、被害者の方のくり返される「死にたい」「殺してほしい」との懇願に耐え切れなかった事例など、「止むに止まれず」の心身の状況に追い込まれた結果であり、「いわゆる虐待とは性格が異なる現象」が場合によってはあるのが介護殺人だとする考え方もあります。

(「全国地域生活支援機構」より)

「介護殺人」に至るまでの家族介護者には、「介護疲れ」という短すぎる表現はやはり正確ではないのだと思います。

 いつ終わるかわからない過酷な「介護環境」によって、介護殺人という非日常的な選択をするほど追い込まれた、心神喪失手前の、心身耗弱の状態。

 やや、長いのですが、これが介護殺人にまで至ってしまうような、「介護疲れ」ということではないでしょうか。

「介護者支援」と言われてきた年月

今回の事件について、高齢者介護などの問題に詳しい東洋大学の高野龍昭教授に取材しました。
(およそ40年という期間、実質的に1人で介護を続けた被告の状況について)計り知れない苦労があり、過酷だったと思われる。現在の高齢者介護の政策は、介護を必要としている本人に対する家事や外出の支援といった『目に見える介護』を中心に展開されている。しかしこれからは、介護を続けている家族に対しても、悩みを聞いたり介護の苦労を分かち合ったりといったサポートも、充実化させていく必要があるのではないか

(「NHK かながわ情報羅針盤」より)

 家族介護者に対して、こうした心理的なサポートが必要だと、もう20年以上前から言われ続けています。

 そのために、なるべく早く「介護者専用の相談窓口」を市区町村レベルで設置する必要があると、個人的にはずっと、とても微力ですが、訴え続けてきました。

 この事件の被告については、40年前、介護を始めた頃、妻が倒れたことを「あなたのせいだ」と医者に責められ、それから「一人で介護していく」と決めた気持ちまで遡り、配偶者が脳梗塞で倒れたことは、その時の状況から考えて、決して被告の責任とは言えないのではないか。といったことも一緒に考え、そこから、周囲のサポートへの抵抗感を少しでもゆるめることから始める心理的支援ができたら、と思います。

 ただ、そうした仮定自体が不遜で失礼ですし、それによって、本当にこの事件が防げたかどうかは分かりませんが、それでも、介護者にこそ、心理的な支援は必要だと思います。

「介護疲れ」の否定

 一方で、「介護殺人事件」が起こった時、「介護疲れ」を否定するような記者の記事もありました。

 去年7月、千葉市で、81歳の夫が85歳の妻を殺害したとされる事件があった。妻は体を患い、病院に行くことを嫌った。「楽にしてほしい」と夫にお願いしていた。夫は悩み、妻の首に手をかけた。
 夫は何を考え、どうしてそんな道を選んでしまったのか。殺人や強盗などの「捜査1課」を担当する私は、直接夫に会ってそれを確かめようと考えた。

 私ははじめ、「介護疲れ」の犯罪だと思っていた。裁判では、検察官も弁護士も「介護疲れはなかったか」と夫に質問した。だが、夫は「違います」ときっぱり否定した。

 妻に連日のように「殺してくれと」言われ、はじめは無理だと思ったが、「これだけ思い詰めているなら手伝ってあげようか」などと考えるようになったという。妻を思うからこそ出てくる気持ちではなかったか。色々な人に協力を頼みながら自らも介護をした夫は、痛みに苦しむ妻を何度も見てきたからこそ本当に楽にさせようと思い、殺害に至ったのではないか。取材を通して「介護しきれなくなって妻に手をかけたのだろう」という私の見方は変わっていった。

(「テレビ朝日」より)

「介護しきれなくなって」殺人事件を起こしたという見られ方が、「介護疲れ」による「介護殺人」なのでしょうか。その点について、違和感が膨らみました。少し長いのですが、この事件に至るまでの経過を記事にしてくれていますので引用します。

 妻は10年ほど前から体が弱り始めた。
 診断を受けても病名はわからなかった。過労気味で疲れて寝込むことが日に日に増えていった。

■「救急車を呼ばないで!」妻は訴えた

 去年5月に昼食として茶碗半分くらいのご飯を食べていた時、妻は3,4回、胃液が出るまで吐いた。トイレに行きたいというので連れていくと、便座に座った瞬間に気を失って床に落ちて意識をなくした。
 救急車を呼んで病室までついて行ったがその時も妻の意識ははっきりしていなかった。

 実は以前から夫は妻に「救急車を呼ばないでほしい」と言われていた。だが、夫は「助かってほしい」と思い、とっさに救急車を呼んでしまった。病院で意識を取り戻すと、妻は「病院に入りたくなかった」と言った。

 入院中も妻の体調は悪化したが、「家で死にたい」「(退院できなかったら)病院の窓から飛び降りて死んでやる」などと訴えた。
妻は強く退院を希望し、夫は「病院での治療は精神的にも肉体的にも苦痛」であろうと考え、病院から自宅に戻ることになった。

 妻の要介護度は「5」。歩くのも難しく、介護がないと日常生活が不可能な状態だった。
 それまでも週に2回ヘルパーに来てもらって掃除などの家事を手伝ってもらっていた。退院後、夫はケアマネジャーらに毎日来てもらい、訪問介護員や医師、56歳の娘も合わせてみんなで妻を支える介護生活が始まった。

■「もう首を絞めてあげた方が……」夫の心は揺れた

 夫は、どうしたら妻の足腰がよくなるか、自立した生活に近づけるか、ケアマネジャーと相談しながら自宅で介護するできる限りの仕組みをつくり、妻とトイレの訓練をした。本を読んで、栄養バランスを考え、妻に任せっきりだった料理もした。
「介護を投げ出したいとは思わなかった」
 夫は裁判で言った。

 もし、「介護疲れ」による「介護殺人」が、「介護しきれなかった」と見られるとするならば、「介護を投げ出したいと思わなかった」という被告の夫が、「介護疲れ」という言葉を認めるわけはないのかもしれない、とも思いました。

 一方、妻は毎日のように「首を絞めて殺してくれ」と言っていた。
「そんなことはできない」と答えていた夫だが、次第に「切実にお願いされていると感じるようになった」という。
夫は裁判で、「本人の希望は『早く死にたい』で私の気持ちは『早く楽にさせてあげたい』というもの。『首を絞めて』という言葉は私たち夫婦の間にだけ通じるものだと考えていた」と話している。

 事件当日、夫は倒れた妻を見て「もう首を絞めてあげた方がいいのかも」。妻の首を絞める決意を固めた。
妻を手にかけた時の気持ちについて夫は裁判で、「失敗しないようにという気持ちでいっぱいいっぱいだった」と話した。

夫は自分の行為について、「夫婦2人の個人的な願いがかなっただけで最初は殺人には当たらないと考えていた」と証言した。だが後から、「罪を償うべきと考えなおした」と言った。

首を絞めてから110番通報するまでの空白の30分、夫の頭の中を様々な思いが駆け巡ったに違いない。夫は首を絞めるまでは自分が何をしたのかを詳細に覚えていたが、この空白の30分間については「覚えていない」と語らなかった。

(「テレビ朝日」より)

「介護疲れ」の再考

 10年も介護をしてきているのに、入院して退院後は、ヘルパーもケアマネージャーも、娘さんもいて「みんなで妻を支える生活」だから、「介護疲れはない」と本人が否定すれば、「介護疲れ」はないと判断されるのでしょうか。

 これだけの期間、介護を続けてくれば、介護は「終わらない時間」の中で行われているのですから、基本的に、特に精神的な疲労は積もり続けていると考えるのが自然ですから、「介護による疲れ」はあって当たり前で、介護疲れがあったかどうかを尋ねるのは無意味にも思いますが、裁判での質問は、刑の重さに関係あるからでしょうか。

 ただ、介護者は、本人の心身の疲れに対して、かなり自覚がないのが特徴ですから、その「介護環境」の大変さの程度によって、周囲が、その心身の疲労度を推察してもいいのではないか、と考えることは出来ないでしょうか。

 さらに毎日のように、「首を絞めて殺してくれ」と夫は言われ続け、そして、それを、他の関係者には、伝えることができない毎日の心の負担感は、どれだけ大きかったのかは、想像されないのでしょうか。

 こうした場合に、それが相談できるような環境、もしくは要介護者である妻への精神的な支援が、どれだけされていたのでしょうか。

 この10年間で、妻が入院する前から、介護の精神的な負担に関して相談できる専門家がいたら、どうなっていたのでしょうか。もしかしたら、「殺してくれ」と言われることへの相談もできたかもしれません。

 こうした仮定をするのは、不遜で失礼だと思いますが、これだけ起こり続ける「介護殺人」を少しでも減らすのであれば、関係者を責めるというのではなく、再発を防ぐためにも検討は必要だと思いますが、どうでしょうか。

 「介護の行為で疲れて、介護をしきれなかった」という意味では、この事件の被告である夫は「介護疲れ」ではないかもしれません。

 ただ、『いつ終わるかわからない過酷な「介護環境」によって、介護殺人という非日常的な選択をするほど追い込まれた、心神喪失手前の、心身耗弱の状態』にあったことは間違いないように思います。

 それが「空白の30分」で示されているようにも思います。

 そうであれば、介護の負担や負担感が、ともすれば、実際よりも軽く感じられる可能性がある「介護疲れ」という単語をこれからも使うのであれば、その正確な再定義をするべきではないかと思います。

 繰り返しになりますが、『いつ終わるかわからない過酷な「介護環境」によって、介護殺人という非日常的な選択をするほど追い込まれた、心神喪失手前の、心身耗弱の状態』と定義しても、それほど大きく外れていないのではないかと思います。

 この再定義を提案したいのは、介護の過酷さが、少しでも伝わるようになり、そのことで、介護者の支援が少しでも進むようになることを、願っているからです。

 もう、「介護者の支援が必要」と提言する段階は終わりにして、「介護者の支援」の具体的な実現が必要なのは間違いありません。

 その一つが「家族介護者の個別の心理的支援」をするための「介護者相談」の窓口の設置だと、私は考えています。






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