『「介護時間」の光景』(133)「コンビニ」。11.21.
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
(※いつも、この「介護時間の光景」シリーズを読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年11月21日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年11月21日」のことです。終盤に、今日「2022年11月21日」のことを書いています。
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2001年の頃
ずいぶん前の話ですみませんが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。
仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。
入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
それに、この療養型の病院に来る前の違う病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。それが2001年の頃でした。
気持ちは、かなりすさんでいたと思います。
それでも、毎日のようにメモをとっていました。
20001年11月21日
『午後2時過ぎに、家を出て、駅のそばで小さな集団になっているバイクに乗っている人たちがいた。ここのところ、夜中にバイクがうるさくて眠れないから、こいつらか、と思って、嫌な気持ちになる。
それから電車に乗る。
昼間なのに、けっこう混んでいて、乗り換えの時、人の乗り降りが多い。乗ろうとしているのに、そのほぼ正面に立ち続けている男性がいたから、乗り込む時にどかすような動きになる。
電車に乗ったら、その若い男性がにらんでくる。
にらみ返す。
気持ちが荒んでいるのかもしれない。
電車は走り出しても、まだにらんでいる。
「あのさ、ここ邪魔になっているから、乗り降りの時は、少し詰めてよ」
そんなことを何度言っても、にらんで動かない。
いろいろなまばたきをしている。
そのうちに隣にいた彼女らしき女性が「やめなよ」と彼の手を引いた。
「正しいよね。変なことは言ってないでしょ」
彼女がそう言ってくれて、彼をうなずかせてくれる。
それでもにらんできて、「あのよ」みたいなことを言いながら、肩に手を置いてくるので、その手を取って、どかせる。
しばらく繰り返す。
明らかに相手の目も怯えているけれど、自分もビビっているのに、やってきたら、やり返そうと決めていた。何か、もうこんな毎日が嫌になっているのだと思う。
自分の足が少し震えているのもわかり、悲しくなる。
こんな若いお兄さんと、こんなところで、何やっているんだろう。
自分が情けなくて、悲しくて、泣きそうになる。
しばらくそのままで、次の駅で、彼女が空いた席に座った。
彼は、その場所と、私がいる場所にいて、まだこちらをにらんでいる。
彼女の方に、こちらから手を出すわけはないのに、守っている気持ちかもしれないと思うと、ちょっとほのぼのした。
少し遠い他の席も空いたので、少し気にしながら、座った。そこまでは追いかけてこなかった。
目的の駅で降りる時、その二人はまだ乗っていた。だから、降りるときに、彼女の人にあやまった。
「さっきは、ごめん。嫌な思いをさせて」
だけど、そんなことは自己満足な行為なのもわかっていて、かえって気持ち悪いのもわかるけど、そんなことをしていた。
病院には午後4時50分に着く。
母親は、ベッドに横になっていて、半分、寝ているような状態だった。
「もうこないと思っていた」と言われる。一昨日も来たのだけど、少し寂しく、悲しくなる。
夕食は40分で終わる。
その時に、少しリンゴジュースをこぼしてしまって、そのことを病院のスタッフの人に伝えたら、着替えさせてくれた。よかった。
今日は少し外へ出たそうだ。母がお尻の調子が良くないので、それが治ったら、外へ行きたいな、と思う。
ずっと顔なじみで、よく声も出していた患者さんが、隣の部屋でいろいろなチューブでつながれている。
食事のあと、母は、すぐトレイに行く。
午後6時40分に、またトイレに行く。
その15分後に、またトイレに行った。
少し元気がないみたいだけど、でも、ほんの少し反応がシャープになっているような気もする。
そういえば、食事中に、いつも来る人が、「帰りたいんだけど」と、服を着て、肩にはポシェットをかけて、今日もやってきた。
ものすごいせきをする男性患者さんがいる。少し変わった響きだけど、でも、ぜんそくではないようだ。
今日も、母に「2時間もかかって、大変ね」と言われる。何かの時に、ここに来るまでの時間を伝えたことがあったけど、時々、思い出すようだった。
午後7時に病院を出る』
コンビニ
帰り道。
駅のすぐそば、陸橋を上がるところの横にコンビニがある。
雑誌などを売っている場所に、立ち読みの人がけっこうぎっしりと並んでいて、こちらを向いている。
その後ろには、店内の陳列の棚と、3本の通路が伸びているのも見えるけど、そこには誰もいない。妙に広く感じる。
もっと、有効にスペースを使えばいいのに、みたいな気持ちになる。立ち読みの人達は、ほとんど動きがない。静止!という命令が出ているようにも見える。
(2001年11月21日)
それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格もとった。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2022年11月21日
雨が降っている。
洗濯ができない。
午後から晴れるらしいことを妻に聞いて、その時に洗濯機を回そうと思う。
ワールドカップ
関心の持ち方に差があるとは思うのだけど、サッカーのワールドカップが開幕した。
昔は、スポーツのことを書く仕事をしていたし、自分もサッカー部にいたこともあり、2002年のワールドカップが自国開催が決まった時は、そこで取材をするのが目標の一つになっていた。自分が学生の頃は、ワールドカップに日本代表が出場すること自体が、大げさではなく、夢のまた夢だったから、よけいに、そのチャンスを生かしたいと思っていた。
だけど、介護を始め、自分自身が心臓発作になったし、母親だけでなく、妻の母親にも介護が必要になってきたこともあり、介護に専念するために、その目標まであと2年くらいの時に、仕事を完全にやめた。
なんだか辛くて、しばらくサッカーそのものをテレビでも見られなくなった。
それでも、2002年には母親の病室で一緒にワールドカップを観ていたし、日本代表が決勝トーナメント進出を決定づけるゴールを決めた時は、病棟のあちこちから歓声があがったのを覚えている。
それから何回もワールドカップがあり、スポーツのことを仕事にしていた時と比べると、サッカーを見ることへの熱量が明らかに下がっていて、だから、今回もそれほど関心が上がらなかった。
サッカー
ただ、2002年以降のワールドカップは、夜中の中継はテレビで、よく見ていた。それは、介護は続いていて、私は夜中の担当で、午前5時くらいに就寝していたから、介護の合間に見るには、都合がよかったせいもある。
そんなことを思うと、今回のカタールのワールドカップは、とても個人的な区切りでいえば、介護が終わってからの初めてのワールドカップだった。前回、2018年は、まだ昼夜逆転での介護生活は続いていた。
今回のワールドカップも、テレビで試合が始まったら、開幕戦は、それほど注目のカード、というわけでもなかったのだけど、その独特の空気感は、テレビ画面を通じても伝わってきたし、やはり、一種のお祭りでもあり、やっぱりサッカーは面白いと思ってしまい、前半だけは見てしまって、寝るのが午前2時になってしまった。今は、午前5時まで起きていた頃が信じられないくらいの感覚にはなった。
後半は、今日、見た。
今回、地上波での中継は、以前より減ったとはいえ、それでも見られる試合は、見たい、という気持ちになってしまった。
感染者数
年末の予定を考える機会があって、去年の感染者数を確認した。
2021年の11月21日には、東京都内の新規感染者は20人だった。10日連蔵で、30人を下回る状況だった。
それに比べると、今日、2022年11月21日の東京都内の新規感染者巣は、4000人を超えている。それも、今月は、ずっと増加傾向にあって、ピークは年明けで、今年の「第7波」よりも感染者は多いとも予測されている。
先の見えない時間
すでに、コロナ明けの感覚で生活している人も、増えてきている実感はあるが、ぜんそくの持病を持つ家族もいるし、自分自身も体が強いわけではないから、来年以降の予定を考えるときに、経済的には厳しいままだとしても、なるべく外出を減らし、人が多い時間の移動を避ける生活は続けるしかない、と思う。
いつ感染しても、誰でもすぐ適切な治療が受けられるような、もっと充実した医療体制が出来上がるか。感染しても、誰でも軽症化するようになるか。もしくは、インフルエンザのように、治療薬が開発されるまでは、この生活を継続しようとは思っている。
先の見えない時間がまだ続くかと思うと、気持ちの重さはとれない。
その上で、介護者の心理的支援は続けるのは前提としても、この状況で家族介護者の支援を広げていくには、どうしたらいいのかを考えると、ただ、途方に暮れるような思いにもなる。
干し柿
今年は、人から望まれたこともあり、家の庭の柿の木になっている渋柿を何十個も高枝切りバサミでとって、それを人に渡したり、さらには、妻がむいて、干してくれていて、それから時間が経って、小さくしわがよって、昨日の雨が降る前に取り込んだ。
そして、食べたら、柔らかく、しかも甘くなっていた。
不思議だけど、たくさん実っている渋柿は、そのままにしておいたら、鳥に食べられるだけなのに、こうして干し柿になり、渋さも取れるのは、ありがたかった。
妻は、さらに干し柿を整え、人にプレゼントするために箱詰めまでしていて、その作業の細やかさに、自分ではできないので敬意もあるし、その作業をしていること自体に、気持ちの温かさを感じる。
そういう姿を見ると、今年は、渋柿だけど、とってよかった、と思う。
午後から晴れてきて、外を見たら、柿の葉っぱは急激に全体的に赤くなってきたし、高枝切りバサミでは地面からも、2階の窓からも届かないような場所の柿の実が、一番高いところから、鳥に食べられ始めているのが分かった。
いつも、熟してきて、おそらくは渋さがやわらいでくる頃に、鳥たちがやってくるから、そのことがわかるのは、毎年のことだけど、なんだかすごいと思う。
(他にも、介護のことを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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