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『「介護時間」の光景』(221)「ダイヤ」。8.30。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。
 おかげで書き続けることができています。

(この『「介護時間」の光景』を、いつも読んでくださってる方は、「2003年8月30日」から読んでいただければ、これまで読んで下さったこととの、繰り返しを避けられるかと思います)。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、私自身が、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的で、しかも断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないかとも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2003年8月30日」のことです。終盤に、今日、「2024年8月30日」のことを書いています。

(※ この『「介護時間」の光景』シリーズでは、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモと、その時の気持ちが書かれています。希望も出口も見えない状況で書いているので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば幸いです)。

2003年の頃

 1999年から介護が始まり、2000年に、母は長期療養の病院に入院したのですが、私は、ただ病院に毎日のように通い、家に帰ってきてからは、妻と一緒に在宅で、義母の介護を続けていました。

 ただ、それ以前の病院といろいろあったせいで、うつむき加減で、なかなか、医療関係者を信じることができませんでした。それでも、3年がたつ頃には、この病院が、母を大事にしてくれているように感じ、少しずつ信頼が蓄積し、その上で、減額措置なども教えてもらい、かなり病院を信じるようになっていました。
 それでも、同じことの繰り返しの毎日のためか、周囲の違和感や小さな変化にかなり敏感だったような気がします。

 2003年の頃には、母親の症状も安定し、病院への信頼も増し、少し余裕が出てきた頃でした。これまで全く考えられなかった自分の未来のことも、ほんの少しだけ頭をよぎることがありました。

 それでも毎日のように、メモをとっていました。

2003年8月30日

『午後5時30分頃に母の病院に着く。

 母は、ぼんやりベッドに横になっていた。

 夕食は45分かかった。

 今日は、「2/26事件」をテーマにしたドラマを見たそうで、母は、実際にその頃に東京の実家に住んでいて、その時に、投降をすすめるビラが空から降ってきて、自分も拾ったそうだ。

 そんな記憶が改めて蘇ってきたみたいで、そういう歴史の時間の中に生きていたことはわかっていたつもりだけど、でも、実際にそういう話を聞くと、なんだか驚く。

 母は、部屋の壁に写真などをたくさんはるようになったのだけど、それを少し模様替えしたようだった。

 私は、2日病院に来なかった。今日、来ることは伝えていたつもりだけど、私が明日来ると思っていたみたいで、だから、今日きて、少しうれしいらしい。

 それは、良かった。

 カリウム不足を指摘され、バナナを食べることを医師からも勧められているので、バナナを持ってくるようにしている。その本数で、バナナがなくなった頃に、私がくると思っているらしいので、それで数えて、次に来る時を判断しているらしい。

 病院のスタッフと少し話をした。

 リハビリを兼ねたレクリエーションでクイズをして、それに対して、母はかなり答えるようで、「すごいですよ」と言ってくれた。さらに、一般の高齢者と「何も変わらないんですよ」とも続けた。

 それは母のことをほめられてうれしい反面、なんだか退院できるのに、といったように責められているような気持ちにもなったが、それは自分の勝手な気持ちの動きだったと思う。

 さらに、別のスタッフの方と話をして、前の病院のことについて話題になり、まだ怒りが根深く残っていることに気がついた。

 午後7時に病院を出る。

 今日は、病院にいた時間が短めのせいか、なんとなく気持ちが浮ついてもいた。

 変な感じだ』。

ダイヤ

 病院に行くまでに、いつもの路線が人身事故で止まっていた。

 別の電車に乗り換えようとしたら、逆の方向へ戻ってしまい、だから、次の駅で乗り換えて、またさっきの駅に着いた。

 そうしたら、いつもの路線が、運転再開をしていた。

 自分も混乱している。

 運転再開は、よかったけれど、いつもよりも病院へ着くのは遅くなる。

 帰りも母の病院から、その最寄りの駅に着いたら、まだダイヤが混乱していた。

 その理由も、行きの時の人身事故の影響が続いているそうだ。

                        (2003年8月30日)


 この生活は、まるで終わらないように続いたのだけど、その翌年、2004年に、母親の肝臓にガンが見つかった。
 手術をして、いったん落ち着いたものの、2005年には再発し、2007年には、母は病院で亡くなった。
 義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、妻と二人で在宅介護をしていた、19年間の介護生活も突然終わった。2019年には、公認心理師の資格も取得した。 
 昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2024年8月30日

 雨が降っている。

 台風が九州に上陸して、そのままとてもゆっくり進んでいて、だから、ずっと被害がひどくなりそうで、まだ遠いのに、関東でもずっと雨が続いている。

 これだけ進み方が遅い台風で、川の近くに住んでいるから、雨の音が強くなると、怖さが増してくる。

壊れた夏

 今年の夏は、いろいろなものが壊れた。

 コンパクトデジタルカメラの液晶モニターが映らなくなって、修理した。エアコンの異音がしたけれど、電気屋さんに確認してもらったら、このまま使い切るしかないと言われた。台所の瞬間湯沸かし器が壊れ、古くからの設置のため、配管からの工事になり、10万以上の請求の予定になっている。湯沸かし器を設置してもらった日に洗濯機が壊れた。もう修理もできないので、買い替えることにした。

 ずっと貧乏なままで、スマホも携帯も持てないままの生活が続いているが、さらに貧乏になるようで、気持ちは重い。

コインランドリー

 それでも洗濯物は溜まるので、今日は、近所のコインランドリーに行くことにした。

 雨は降ったり、時々、止んだりしている。妻はずっと天気予報を見てくれて、曇りになる時間がありそうだといってくれて、ただ天気予報はこまめに変更される。それだけ天候が不安定なのだと思う。

 洗濯物を持っていく大きい袋なども妻が用意してくれたので、そこに山盛りになった洗濯物を二つに分けて入れて、その帰りに近くの小さいスーパーで買い物をしようと思って、出かける。

 少し雨が降っている。

 久しぶりにコインランドリーに行くと、まだいくつも空いているから、少し迷う。

 洗濯と乾燥の両方をやってくれる機械もあったのだけど、使ったことがなかったのと、そこに表示されている料金体系がわからず、すごく割高な気がしてしまったこともあって、前に使ったことのあるドラム式の洗濯機を使う。

 400円で、39分。タイマーをセットして、そこを出て、スーパーに向かう。

 買い物をしていたら、妻が現れる。

 雨が降ってきたから、カサを持ってきたよ。

 え、持ってきたけど。

 そんな会話をしたけれど、心配してくれることはありがたい。

 一緒に買い物をして、買ったものを、洗濯物を入れていた大きなビニールのバッグの中に入れて、家に帰った。

 そうしたら留守番電話が一件入っていた。

洗濯機

 10年以上使っていた、洗濯機のフタが突然開かなくなり、電話をしたら、各種の工事の後に家に来てくれて、その洗濯ものを救出してもらい、その上で、もう部品がないので---と言われたので、買い替えを決めて、お願いしていた電気屋さんからだった。

 3日前にその依頼をしたばかりで、来週くらいかと思っていたが、洗濯機が入荷しました、という話だった。

 早い。

 でも、台風が近づいているし、雨も降っているしと思いながらも電話をして、そのことを伝え、無理そうだったら来週で、という話をしたら、これから雨は激しくなりそうなので、むしろ今日の方がと言われ、これから伺います、という話になった。

 コインランドリーに洗濯物を入れたので、あと20分くらいで、それを乾燥機に移さないといけない。

 食器も洗わなくてはいけないし、お風呂の水も変える必要がある。

 あれこれと進めながら、今月は、うちがゴミ当番の月なので、妻と一緒にゴミ収集所に被せてあったカラスよけのためのネットをたたむ。

 そうしているうちに電気屋さんは、新しい洗濯機を持って、クルマでやってくるはずだ。

 チャイムがなる。

 あと10分ほどで、コインランドリーの洗濯は終わる。

 洗濯機は外の設置なので、電気屋さんに作業のお願いをして、妻を昼寝に寝かせて、皿を洗っていたりすると、時間が経ち、もうコインランドリーに行って、洗い終えた洗濯物を、乾燥機に移さなくてはいけない。

 玄関を出たら、もう新しい洗濯機がいつもの場所にセッティングされていた。

 すでに取り付け作業も終わりそうなので、「すみません。コインランドリーに行ってきます。3〜4分で戻ります」と言って、出かける。

 だけど、コインランドリーに着いたら、まだ洗濯は終わっていない。とても焦りながら、止まるのを待って、乾燥機に入れ替え、走って家に戻ってきた。

 作業は終わっていたが、アースがされていないことを初めて知り、それもお願いした。

 電気屋さんは作業を終えて去っていったけれど、それからも、お湯を沸かしたり、お風呂を洗って水を入れたり、少し筋トレをしながら時間が経ち、それから、コインランドリーへ洗濯物を引き取りに行ったりして、やっと一段落になった。

 なんだかバタバタした午後になった。
 まだ雨はどうなるのかわからない。

下流老人

 2015年に出版された本だけど、そこに書かれていることは古くなっておらず、そのことで気持ちは少し重くなる。

 この「甘え」というワードは、インターネット掲示板の書き込みなどを中心に現在でも頻繁に見られる。たとえば「就職できないのは甘え」「会社が辛いというのは甘え」「貧乏なのは甘え」という具合だ。ネット世界において、なかば〝流行り言葉〟化している向きはあるが、しかしこの言葉には日本独特の横並び意識が色濃く反映されているように思う。
 では、貧困になるのは甘え、なのだろうか。生活保護を利用するのは甘え、なのだろうか。もし本当に甘えなのだとしたら、食事も満足にとらず、病院にも行かず、日に日に衰弱しながらそれでも歯をくいしばって何も言わずに死を迎えることが、人間として立派な姿とでも言うのだろうか。 

(『下流老人』より)

 この時から約10年が経って、「甘え」だけではなくて、「人に迷惑をかけるな」というワードも同じように広く使われるようになり、だから、ここで挙げられている例に対しても、「人に迷惑をかけずに一人で死を迎えろ」というような言葉がかけられそうな気がする。

そしてこのような甘えとセットで論じられるのが「自己責任論」だ。生活保護に関して言えば、「貧困に陥ったのは自己責任。だから生活保護を受給するのは甘え」という論調だ。

 この「自己責任」というワードも、あらゆる問題の原因を包括してしまうじつに不思議な魔力を持っている。2015年初めに起こったIS(イスラム国)による日本人人質殺害事件でも、自己責任論が大きく取り沙汰された。「勝手に危ない地域に行ったやつのために、なんで自分たちの税金を使われないといけないのか」という主張もあった。冷静に考えれば、拉致された「被害者」であることは明らかなのに、なぜか「日本国民に迷惑をかけた」と批判の矛先が弱者に集中してしまう。この理屈が、生活保護批判と類似していることは言うまでもない。結局、下流老人を含めた貧困も「自己責任だ」で片づけられ、社会的な解決策を講じることを否定する人は、周囲にたくさんいる。 

(『下流老人』より)

 「自己責任論」も、10年が経って、強まりはすれ、弱まることはないようだ。「甘え」と「自己責任論」という言葉が、どうしてこれだけ広まり、よく使われるようになったのか。そうしたことから考え直さないと、支援そのものが否定される時も迫っていそうで、根本的な怖さがあると思えた。



(他にも介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)




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