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『「介護時間」の光景』(126)「列」。9.19.

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。


 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2000年9月19日」のことです。終盤に、今日「2022年9月19日」のことを書いています。


(※この「介護時間」の光景では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。

2000年の頃

 個人的なことですが、私にとっては、1999年から介護が始まり、2000年に母の症状がまた重くなり、それまでの母のかかりつけの病院に入院すると、昼も夜もなく電話がかかってきて、動いてしまう母の症状への対応に、過大なプレッシャーなどをかけられました。

 それまでの1年間の疲れもあったかと思いますが、それが2週間続く頃、私自身が、心房細動の発作に襲われ、「過労死一歩手前」と言われました。

 それでも、とにかく24時間体制で付き添いをつけることを条件に、やっと最初の病院の入院の継続を許可されているような状況の中で、早く出ていってほしい、というプレッシャーをかけられていました。

 精神的な症状の高齢者の長期入院が可能な病院を探し、母の病室に泊まり込みながら、自分の心臓に不安を抱えながら、いくつか病院をまわり、やっと母に合うと思える病院への転院が決まりました。

 病院自体は、こじんまりとして、入った瞬間にホッとするようなところでしたが、そこに着くまでは、最寄りの駅から、バスに乗り、20分はかかるところで、坂道を上り、さらに上がっていき、どこまで行くのだろうと、不安になるような場所でした。

 2000年の8月に転院してから、片道2時間ほどをかけて、とにかく病院に通っていました。家に帰ってからは、義母の介護を、妻と一緒にするようになり、仕事を辞めざるを得ませんでした。

 時々、めまいを起こしながら、毎日のように病院へ通っていました。自分が通っても、母の症状にプラスかどうかも分かりませんでしたが、もし、行かなくなって、コミュニケーションがとれない状態のままになるのも怖くて、ただ通っていました。

 それまでの病院での出来事のために、医療スタッフ自体に恐怖を覚えるようになりました。だから、転院した病院に関しても、まだ信じることができず、伏目がちに病室へいって、帰ってきて、家では義母の介護をしていました。

 ただ、暗い場所にいるような気がしていました。

2000年9月19日

『谷川俊太郎の言葉。

「ボケた母。仕事を差し置いても、そばにいて安心させた方がよかったかも」

「宇宙人でも生き物です。生き物は殺してはいけません」という絵本での言葉。

 ああなったら、もう違うのではないか。

 ゆっくりした生き物になってしまったように思う病院。

 行きのバスで、荷物とベビーカーと赤ん坊を抱えて、一生懸命な若い母親を見た。ああやって自分も育てられたんだ、という気持ちになっている。

 何か確実に変わってきている。

 午後4時過ぎに病院に着いた。

 看護師さんが、二人で何か言っている。
 母が、電気をつけてというのでつけたら、今度は、明るすぎると文句を言っているようだ。

 それも不安定な表情で繰り返していた。

 いつ夕食なのかと繰り返し、トイレも何度も行く。
 いつものことだったけれど、あいかわずだった。

 それでも、昨日よりも、少し落ち着いたように見える。
 病院の精神科医も、先週よりも落ち着いていると言っていた。

 それは少しはホッとする。

 午後7時30分頃、病院を出る』。

 駅前のバス停に人が5人くらい並んでいて、前向きというか活気といっていいものがあったのに、そばのコンビニに入って病院へ持っていく飲み物とかいろいろ買って、また同じバス停に戻ったら、誰もいなくなっていた。

 ほんの数分で一人もいない。駅前で、このバス停でこれだけ人がいない事は珍しい。静かで寂しい空気まであるようだった。

                        (2000年9月19日)


 そんな生活がずっと続いたが、2007年に母は病院で亡くなった。そのあとも、義母の介護を妻と一緒に続け、その合間に勉強をして、2010年には大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得した。

 介護を続けながら、「介護者相談の仕事」も始めることができたが、2018年の年末に、義母は103歳で亡くなり、介護生活が終わった。その後、体調を整えるのに、思った以上の時間がかかり、そのうちにコロナ禍になっていた。公認心理師の資格は2019年に取得できた。


2022年9月19日

 起きたら、晴れていた。

 台風が近づいているから、意外だったけれど、妻が出かけるところだった。

「今、洗濯一回したから、干してあるのが乾いてから、干してほしい。10時から雨が降ると思う」。

 そう言って、まだ晴れている間に買い物に出かけた。

 洗濯物を干して、空を見る。
 天気が良くて、今だけだと雨の気配もない。

 コーヒーやお菓子のようなものを持ちながら、河川敷の方へ歩く若い男女のグループ。
 道路を走っていく人。
 荷物を持って歩く男性。

 少しの晴れ間でも、とにかく動こうとしている。

 今日は祝日で休みだった。

 午前10時半頃、雨が降ってきた。
 それも突然、激しい音がした。

 乾いたはずの洗濯物を入れていたら、妻が戻ってきた。

 午後にも何時間か雨が止む時間帯があるらしい。最近、テレビで1時間ごとの天気予報を見てくれているので、妻が、天気のことは細かく把握してくれているので、ありがたい。

 そして、晴れたら、洗濯物を出して、降り始めたら室内に入れての繰り返しも妻はしてくれた。

 時々、太陽の光が強く差しているのに、雨が降っていることがあった。

 天気雨とか、狐の嫁入り、と言われるような気象現象なのは知識としては知っているのだけど、晴れていて、こんなに激しい雨は初めてだった。

 台風が来ていて、空気が不安定になっているのだと改めて思った。

シンポジウム

 臨床心理士の資格をとってから、もしくは公認心理師でも同様だと思うのだけど、どうすれば、普段の生活でも臨床の力を伸ばすことができるのだろうと考えている。

 ただ、とても分かりにくい力でもあり、筋トレなどとは違って、その向上についても、明確ではない。

 それでも、心がけていることはある。

 この道を志し、歩み入ったならば、自分の中の知見(これはただの暗記でなく、自分の経験と知識に照合し、自分の中を潜らせて、自分のものとして納得し、使いこなせるものになっている)を豊かにするべく不断に努め、安易に自分の生の感情に自分を委ねるのではなく、考える、その結果生じる感情を大切にする、という態度を磨いていくことが求められていると思われるのです。

 だから、毎日、知らないことに対して、知ろうとしている。

 それに、話題になったことが、自分には無縁かもしれないけれど、場合によっては、どんなふうに相談に関係してくるかわからないので、なるべく学ぶ時間を作っている。

 今日は、オンラインで、こうしたシンポジウムがあった。3時間を少し超えた。

 やっぱり、どんなことでも考えないとダメなことは改めてわかった気にもなったが、同時に、こうしたシンポジウムでの話を聞くと、近い将来のイメージが暗く、重くはなる。

 これから、台風がさらに近づいてくる。





(他にも介護のことを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただけたら、ありがたく思います)。




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