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人と神の個人的な問題 : 18年考え抜いて出した答えとその過程

はじめに

アントクアリウム(antquarium)をご記憶ですか。透明な容器にジェルが入っており、蟻の巣を観察出来る製品です。この文章は思想や価値観を扱います。私達は全員別人で、異なる価値観や課題を持っています。この文章は、自死遺族を代表する意見ではなく、個人の意見であることを明記します。例えば、自死遺族を傷つけることに用いることは、お慎み下さい。

考え抜く力について話します。個人的な経験と、私が18年かけて出した、私的な答えで、内容もフレームワークも一般化出来るとは考えていません。考えざるを得ず、誰かに答えを教わることが出来ない問題への、取り組みの一例です。

12歳で直面した不条理を、17歳から18年かけて、堂々巡りさせず、学びと経験を増やし、問いを更新し続けました。これは、私にとって、存在そのものを問う形而上学の旅でした。

小学6年の冬に、数学者の父が研究室で命を断ちました。彼は鬱病を6年闘病し、ベストのコンディションで研究に没頭できないことで苦しみました。

遺族として、父の人生を理解し、私の家族に何が起きたのか、理解しようと試みました。
何冊読んでも、本に答えは書いて有りませんでした。17歳で父の死因を告知され、35歳頃まで、考え続けました。

本が好きな子どもでした。宇宙の絵本・図鑑・ドリトル先生・ナルニア国物語・西遊記とともに育ち、犬養道子は2000年の時点で刊行された本は全て目を通すくらい影響を受け、遠藤周作の『沈黙』はとても心に響きました。カミュと荘子にも影響を受けています。宗教学が好きだったので、『日本仏教史』の単位を取りました。私たちの精神的なルーツを知りたかったからです。柳田邦男の『犠牲』は、まるで兄を喪失するかのような、深い衝撃を受けました。

社会人になって『影響力の武器』を読み、私達がどれほど考えないようにしているかや、返報性の原理や一貫性の法則などを他人に逆手に取られるリスクが有ることを学びました。また、丸屋真也の『なぜ、他人のゴミを拾ってしまうのか?』は、バウンダリーを学ぶのに、理解しやすかったです。

業務の経験は、例えば、自社の落ち度で顧客に返金の説明を電話で行う際のこと。名乗ると、「下の名前は!」とフルネームを求められ、フルネームをお伝えすることからはじめ、感情的な行き違いがあることを理解し、「現金書留で発送いたしました。誠に申し訳ございませんが、あと2日ほどお時間をいただけませんか」と、お伝えしました。このケースは、他の社員が慇懃無礼な対応をしたことへの対応不満が原因であり、自社側では2つミスを重ねています。そのことを理解し謝罪することで、対話の機会を与えられました。
皆様に対して釈迦に説法ですが、社会人になると、会社の看板を背負って行動しますから、学生時代とは異なる体験が出来、視野が広がりました。

加えて、キリスト教の教えや文化とその実践から、フレームワークを得たくて、カルトに陥らないように、信頼できる教会や牧師を探しました。作家でプログラミングの造詣も深い結城浩氏の「聖書を読みたい・教会へ行きたい」というページを参考にし、情報リテラシーの観点で、判断材料を適切に掲載したホームページの有無を目安にしました。幸いに、洗礼のために暗記を要求したり、牧師が答えを出すのではなく、私の取り組みを宗教家の立場から、見守って理解し励ましてくれる人達が受け入れてくれました。私の探究心と愚直さを認めてくれ、可愛がられたことは、予想外の出来事でした。
なお、教会は私が訪ねて構わないように、誰でも訪れる場所だから、色々な人がいることも、書き添えます。信仰の多様さを学びました。

なぜ神道や仏教では無かったのかは、縁だと思います。犬養道子の影響を受ける前に、こんな原体験がありました。母は特定の宗教に属していませんが、祈る人です。4歳頃に「お母さんが気がつかなくても、神様とトラガラ自身は知っているんだよ」と教わり、まだ「神」という概念は分かりませんでしたが、「自分以外にも見ている存在」を聴いて、なるほどと4歳なりに納得しました。

冒頭でもお伝えしましたが、私の出した答えも、用いたフレームワークも、一般化出来るとは思いません。そもそも、文学も哲学も宗教も、私が探索した範囲では答えが有りません。「無神論者の父が自死した場合」について、私の理解の範囲では聖書に記載は無いです。「神がいるのならなぜ悪があるのか」を哲学者が問うように、「弱さもある父だったけど、私は気に入っていた。人でも贈り物を返せとは言わない。まして、全知全能の神が、与えて奪うとは何事だ」と、12歳から葛藤を抱え、17歳に死因を理解し、35歳になるまで、激怒し続けました。

激怒の対象は運命ではなく、不思議なことにキリスト教の神に対してでした。
今思えば、とても激しいだけで、本質は祈りと似ていました。

祈りは個人的主観的な領域です。神仏・祖先・自然など、祈る対象は異なります。祈り方も異なります。だから、一様な答えは存在しません。どの本、どの体験、どの思想信条でも、確実に誰でも答えを出せる道筋が「無い」ことは、共有出来るかもしれません。
繰り返すと、課題とその課題を解決する方の組み合わせは、全員異なります。

キリスト教だけでは無理だけど、哲学と心理学のバウンダリーで解決させました。あくまでも、私的な答えと、フレームワークです。

・信仰は人と神のバウンダリー
 ・神には神の責任
 ・私には私の責任
 ・父には父の責任
  ・父は鬱病を6年療養しており、病が父に影響を与えた面がある。だから病には病の責任

私の答え

これだけです。責任の線引きをすることで、誰も責めずに済みます。また、神の領分と人の分際と言ってるわけですから、神学的に矛盾は無いはずです。

18年くらい考え抜いて、客観視による外在化を行いました。今も、悲しみと無念さは有りますが、考えて答えを出したことで息子としての責任は果たしました。無神論者の父と「天国」で再会することは、おそらく無いでしょう。彼は、肉体は死んだらゴミになるという死生観の人でしたから。けれど、彼の一生を知り、私の人生経験を通して理解し、察することは出来ます。じつに迷惑な人ですが、それでも私にとって父です。迷惑な人でも、一人くらい理解者がいても、いいと思うのです。
文学的に言えば、心の中の12歳が泣き止んだ、と言えます。

ですから、私にとって考えることは、自分のための答えを自分の言葉で見つけることです。そして、適切に考えた分だけ、我々は自由になります。


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