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子どもとお金の出会い方


1.ボク、そのお金はどうしたの?

私たちがこの社会を生きていくときに、お金というものを抜きにして語ることはできません。

となると、子どもの教育ということを考えるときにも、「子どもがお金とどのように出会っていくのか」ということは、非常に大事な教育のテーマであると思うのです。

いったい子どもはお金とどのように出会っていくのが良いのでしょう?

たとえば経済を語る言葉の中で「消費者」という言葉をよく耳にしますが、はたして消費者とはいったい何なんでしょうかね?

お店に何かを買いに来ればそれは消費者ですか? では小さな子どもが一万円札を握りしめてお店に来ればそれは消費者なんでしょうか?

私は感覚として、子どもがいきなり消費者として経済活動に参入してくることに違和感を感じます。

端的に言えば「ボク、そのお金はどうしたの?」と思うのです。

むかし小さい頃、近所のコンビニで買い物をしようとして一万円札を出したら、レジのおばちゃんに「この一万円札はどうしたの?」と言われて、何だか急に後ろめたい気持ちになって、モジモジしながらなんだかんだと言い訳をした思い出があります。

一万円札という子どもに似つかわしくない大金で買い物しようという行為を、レジのおばちゃんに改めて問われることで、急に何かイケナイことをしている気になってモジモジしちゃうなんていうのは、いま思えば子どもの私にとってなかなかかぐわしい良い体験でありました。

そのおばちゃんはコンビニのレジ店員として、余計なお世話をしているのかも知れません。でも何というか、私はそのとき「お金についての通過儀礼」を正しく受けたような、そんな気がするのです。

そのレジのおばちゃんは、店員である前におばちゃんであって、一万円札を差し出す子どもの私を前にして、店員であるよりおばちゃんであろうとしてくれたのです。

おばちゃんは自身の直感に従って、その一瞬お金の力の支配から抜け出てチラリと素顔を見せてくれたのです。それは店員ではなく、私にとって正しく「人間の顔」であり「おばちゃんの顔」でした。

それは、私にとって図らずも大切なお金の教育だった気がします。

子どもの私が持っていた一万円札は、おそらくお年玉だかお小遣いだかとして、誰か大人の人からもらった一万円でした。それ以外に私が一万円札を手に入れる方法はありませんから。

つまり、私はただ「贈与を受けた」だけなのです。おばちゃんは正しくその事実を見抜いて、確認として問うたのです。

ですが多くの場合、お店の買い物の場面では、その事実が隠されています。そのお金は私の持ち物であり、たとえ私が子どもであっても、立派な一消費者として社会的に振る舞うことが許されます。

社会に対して一万円分の貸しがあり、その対価の分の労働を社会に要求できる者として、いきなり存在できるのです。

「それの何が問題なの?」と思われるかも知れません。「むしろそれは正しいことでは?」と思われるかも知れません。それは確かにそうなんです。

それでも私は、子どもがいきなり消費者として振舞っていくことは、まだお金についても経済についてもよく分かっていない子どもにとって、経済という営みの本質を勘違いしてしまう原因になるのではないかと思うのです。

2.子どもはただ贈与を受ける存在

繰り返しになりますが、子どもがどのように「お金」や「経済」と出会っていくのか、それはとても大切なことだと思うのです。

私が思うのは、子どもはまず「贈与を受ける者」として、次に「生産する者」として、そしてその後に「消費する者」として存在することが、事の順序なのではないかと、そんなことを思うのです。

どういうことかと言うと、つまり買い物の場面においては、子どもはお店の人から「はいどうぞ」と贈与を受け取る存在であるのです。

もちろんその背景で大人が支払いをしているわけですが、それは大人の事情であって、子どもの世界においては「お店の人から贈与を受け取る」ということで良いと思うのです。

子どもはそうやって周囲のすべての大人たちから、ひたすら贈与を受けるだけの存在であり、そのときに「ありがとうございます」と言って受け取る構えだけ、きちんと身に付けていけば良いのです。

子どもが大人に何か返そうと思っても、「お前はまだいい」とか、「十年早い」とか、「黙って受け取ればいいんだ」とか、そんな風に子ども扱いされてしまうということ。

そのような等価でない非対称的な関係は、少し理不尽であるようにも思えるかも知れませんが、初めに「落差がある」ということは、実は非常に重要なことであると思うのです。

何故なら、そこから連綿と続く「借り(負債)の運動」が始まるからです。
それが人類が人類である所以の「信用創造」なのだと思うのです。

それは世界中のあらゆる宗教や物語が教えてくれていることでもあります。

その落差の体験は、「自分も早く大人になって働きたい」とか、「誰かのために何かしてあげたい」とか、そんな思いを育てていくかも知れません。あるいは「海賊王になる」とか何とか言って、麦わら帽子を返す旅に出るかも知れません。

その衝動がいったい何なのか、よく分からないながらも実践しつつ、実感しつつ、やがて自分なりの確固たる中心としての何かを立ち上げていくということが、おそらく「大人になる」ということなのです。

だってどう考えたって、子どもはまだ働く大人と等価交換できるような存在ではありません。

子どもが大人に助けてもらったときに「御礼はいくら払えば良いでしょうか?」なんていうことを考える必要はまったく無いんですよ。そんな子どもイヤですよ。てゆうか悲しくなっちゃいます。

そんなことを考える子どももイヤだし、それを受け取る大人もイヤだし、そんなことを要求する大人はもっとイヤです。大人だったら「お前がそんなことを考える必要はないよ」と答えて欲しい。

子どもはもっと、すべての人から愛されていて良いはずです。子ども時代は、ひたすらに愛を浴びながら育てば良いんです。

3.子どもたちに何を伝えたいのか

そうして、子どもはまずはひたすらに「贈与を受ける者」として存在した上で、その後成長とともにちょっとずつお手伝いという名目で、「生産者」になってゆくのだと思うのです。

つまり、まずはおうちのお手伝いであり、素朴な手仕事であり、自分の手を使って誰かのために何かを作り出す、という営みです。

そこで子どもは、誰かのために「物を作ること」や「手助けしてあげること」を通じて、誰かのために働くことの喜びや幸せというものを少しずつ体験していくのです。

それは、「私にも”返す”ことができる!」という喜びです。

それが正式な意味での「経済活動への参入」となります。誰かのために何かすること。まだお金は手にしていませんが、それはすでに立派な経済活動です。

そのような営みを繰り返しながら、ゆっくりとお金の介在する市場経済へと入っていくこと。それが経済や貨幣というものについての本質を体験しながら学んでゆくことにつながると思うのです。

つい百年くらい前まで、子どもというのは大人たちの営みの隙間でちょろちょろ遊んでいるような覚束ない存在でした。

大人たちが生活必需品を並べて売り買いしている商店街やバザールを、商人でもなく客でもない存在として、通路を走り、カウンターをくぐり、店の奥まで入り込み、裏口から抜け出たりしながら、金も払わずにお菓子をちょろまかしたり、あるいは恵んでもらったりして、うろちょろしていたのです。

経済市場において、子どもというのはかつてはそのような何者でもない自由存在で一人前扱いされない、いわゆる「みそっかす」でした。

今では子どもたちも一人前の消費者として扱われるので、そのような自由存在として扱ってくれるお店や商売人もずいぶん減ってしまいました。

子どもも町を歩けば一消費者として「どうですか?どうですか?」と、商魂したたかな大人たちの手による色とりどりの商品広告を見せつけられるのです。

「どう?欲しいでしょう? 欲しかったら対価を払って手に入れよう!」と言われ続けているのです。まだ働いてもいない子どもたちがです。そうして何も知らないうちから消費者の仮面を被らされ、消費者としての身振りを求められるのです。

イヤイヤ、ちょっと待って下さい。

それが私たち大人が子どもに対して本当にしてあげたいことなのでしょうか? それはいったい何をやっているんですか? 子どもに何を伝えたいんですか? どんな人間に育って欲しいと思ってそんなことをしているのですか?

私たちは、自分たちがいったい何をやっているのか、きちんと考えてみた方が良いと思うのです。「目の前の事に一生懸命になっていたら、気づいたら本来のルートから大きく逸れてしまっていた」ってよくあることです。

少なくとも私は、子どもをいきなり消費者として等価交換の原理に巻き込むのは、完全に間違っていることだと確信しています。

それは世界の寿命を極端に縮めることです。ヒトという現象の元栓を閉めるようなもので、湧き水が涸れ、運動が停止していくことを招きます。

等価交換から物語は生まれません。
それは物語の終わりを意味するのです。

それが加速していけば、老人のような子どもと、子どものような老人ばかりの世界となってゆくことでしょう。イヤ、もうなりつつあるのかも知れません。老児化は着々と進んでいます。

だからお金について、きちんと考え直したいのです。お金の教育について、みんなで考えたいのです。

みなさんは子どもたちに何を伝えたいですか? 

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