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連載小説『恋する白猫』第四章・美しい星

明日は横浜に帰るというのに一体全体今日はどこへ出かけるって云うのよ?と母が悲しみより怒気を含んだ声を上げながら廊下を歩く光(みつる)の後ろをドタドタと慌ただしくついてくる。
光は玄関の上り框に腰をかけ、
長い間実家に置きっぱなしであった新しいままのハイヒールを履きながら、背後の母に向かってまるで耳の遠い人相手に叫ぶようにこう言った。

『偶然だけどこっちに滞在中、近所の街で高校の時のクラス会があるらしいの、この間知ったんだけど、ちょろっと覗いてこようかなって思って』

『近所の街ってどこよ?
そんなのこれからいくらでも行けるでしょう?
それよりお父さんや私達家族と一緒にいる時間を短い滞在なんだから少しは大切にしたらどう??』

『ずっとクラス会に出ずっぱりのつもりはないの、
ちょろっと覗くだけ覗いたら…
すぐに帰るから』

『そんな…それも失礼な話じゃない?それじゃまるで冷やかしじゃないの』

『そうだよ冷やかしみたいなもんです、じゃあね』

クラス会は本当につまらなかった。逢わない方がましみたいな歳の重ね方をしている輩(やから)ばかりだと感じつつも光の年齢ではギリギリみんなまだ若く、誰が誰だか判らないなんてことはさすがに無い。
女のクラスメイトは少なからず化粧のせいもあるにはあったが、昔よりもずっと艷やかになった者、既に熟年に差し掛かったかのような貫禄を三十路前にしてたたえつつある者も居た。

決して高級ではないそこそこのブランドの洋服を皆、然りげ無く着こなし、それが解りやすく平成風か、或るいは今風に技巧を凝らしたメイクのもと女子達はいかにも平成に生まれたものの否応なく令和を意識せざるを得ず、そのうわべだけ分かり易い顕在(けんざい)の手触りだけを頼りに生きているかのように見えた。
だが同時に令和を迎えたはしたものの、充分に適応する者達の中に、言葉に表わすことの出来ない昨日まで世界を覆っていたあの色の違いを感じて躊躇する者は、どことなく音の無い不協和音を日々感じていることが解る。
だがそれを彼等は決して口に出して言うことは無い、

不協和音といっても音の無い不協和音など説明のしようもなければ彼等の生活にこれといった影響も今のところは無いからだ。

だがなんとは無しにおかしいのだ。そう感じている人間もいれば全く感じていない人間も大勢いる。
だが誰も何も言わないのだ。
まずどう言っていいのか解らないし、言ってどうなると云うのだろう?
平成までは徐々に変わっていったものが今や昨日と今日とで白と黒ほど極端に変わる。

‘’日本はこんな国だったのだろうか?‘’光は取り立てて外国に興味が無かったし日本にしか住んだことが無いのにそう思うことが最近は度々あった。
‘’いいえ、こんな国を私は知らない、いつの間にかここは見知らぬ国か、あるいは遠い星のようになってしまった‘’と光は時々その不安を声にして叫び出したいような焦燥感に駆られた。

ついていけない者は淘汰されるだけだ。
器用に、或いは靱(しな)やかにそれを回避出来るか、
回避出来ずにもろにその余波を受けるか、受けても回避出来るタイプの人間が家族にもし居ればそのもとで庇護されつつ偉そうに‘’生き残った、々‘’と吠える室内犬の如く生き存(ながら)えることは出来る、

保健所で潰(つい)えていくことを当然と見なされるのはそんな環境など皆無の人間だけだ。

そんなことは昔からある程度そうであったろうに今やダスター・シュートに投げ込まれる‘’モノ‘’のように、その未来を確実視している者の生きた心地もしないヒリヒリした思いは一体どこへ持ってゆけばいいというのだろう?

そして光はふと思った。
何故、こんなにも私は不安なのだろう?
家族も実家も何もかも既設された安全な背景があるはずなのに、
ダスターシュートに振分けられる類いの人種ではないはずなのに…
心の奥底で声がするのだ。

‘’なんとか無事でいられるのは、今だけみたいな気がする‘’と…

近くて遠い将来もうこんなに安穏とはしていられないだろう。
総ては怖ろしく発展し、或いは昭和も平成も無く落ち零れ、劣化しているかのどちらかしかないだろう、
私のような凡庸で無能な人間は、掃き寄せられた塵芥のような余生を送り、別種の人間はもしかしたら異う星へその晩年移住を始めているかもしれない、
本当の話、と光は時々思った。
‘’そのカウントダウンはもう始まっているのよ、
だからこそ今、吸えるだけこの地の空気を吸っておかなくてはならないし、この地が続く限りこのささやかだけど愛すべき日々の営みを謳歌しておかないと…‘’
と光は思った。
だってきっとそれらはいつまでもは続かない、無自覚に気づいてる人もいればはっきり気づいている者もいる、ただそれがいつ到来してくるのかは今や予測不可能だ。
徐々にではなくふいに足元を天変地異と酷似して掬われる時代にもう時は移り変わってしまったのだ。


そしてその全てに無自覚な“もと男子達”にその視線を巡らせ、同じように清潔で同じようにスタイリッシュな決まった型に依るその空疎な羊の群れを見た。
男を見る目の無い光から見ると、彼らの服のセンスは皆、同じようだが、同じように良かった。
それと同時にさながら女のメイクのように彼らは髪のセットが皆、揃って異常に巧かった。
どうすればその奇妙な前髪のギリギリのバランスを造り、長時間保つのだろう?と光は彼らのほんの少し風に吹かれたまま静止したようなどこか危うい感じの前髪をつらつらと眺めたりもした。

そしてそれを横目に匂いの無い凍りついた花のような嫌悪を感じて彼らと同じようにプリントされた笑顔を満面に浮かべて光はさも懐かしそうに彼らと談笑した。
台詞は全部前もって決めた通りであっても何故だか少しも困らなかった。
そこで自分を疑っと見つめるあのタイトでスタイリッシュなスーツ姿の男を見つけた光は自分の躯に穴が空いてしまうのではないかと思うほどに自分を見つめる彼の無遠慮な視線に気がついて、息を呑んだ。
すると忘れていた古傷の痛みが燃え盛るようにその昔(トラウマ)を呼び覚ました。

『あいつだ!』

光は自分の顔を視線という粗暴な小刀で彫(え)るような勢いで自分をひたすらに見つめてくるその男から、思わず顔を背けた。
その男は昔、光と同じ学区に住んでいた為、高校も小学校も同じであった。
小学の四年の頃、彼は周りの少年達とつるんで何故か光独りに執着し揃って執拗に虐めていた時期があった。
もともと子供時代の光は弱虫で、クラスでもよく虐められるほうではあったが、この男からの虐めは病的にしつこく、子供ながらに性的な含みがありまだ幼い光は芯から傷ついた。そしてその事態にさらなる進化と加速をつけてしまったのが担任の男性教諭の『昔はスカートめくりというものが流行って平成の今では考えられない子供の間にだけ流行る麻疹のようなものだった』という何気ない思い出話であった。
その大人の語る思い出話を発端にそれは男子生徒の中でも、
やや勉強が出来てなんとはなしに性的に目覚めを感じてはいるものの、どうにも対処出来ず悶々とする早熟な少年たちの間でそれはひっそりと、だが同時に熱狂的な口火を切り、さながらリバイバルのように流行った。

帰り道そのそこそこに優等生の少年達に取り憑いた流行り病いにより、
狙われた光はひとけの無い学区内の死角とも呼べる無人の袋小路で待ち伏せされた挙げ句、
3人の少年達に追い回された。
袋小路はその傍を通り抜けるだけであった筈なのに光はさながら誘導されるかのようにそこへ立ち入り、逃げようと試みるその血路という血路を身を呈す少年達により、つぶさに封じられた。
それは一見、罪のない戯びとしてその凶暴性を顕(あら)わにした少年達により再生された野蛮で峻烈なゲームだった。
そのゲームは子供ながらに躊躇いのない嘔吐のような感情に任せてほとばしる性への目覚めであり、少女を逃げられない的としてまるでそれは狩りのように奔放に行われた。
あちらこちらで‘’小さな彼ら‘’による少女狩りの幼い被害者がいるという噂はあったものの、光にとってはその輪郭すら判然とはしない嘘か真か解らぬままいつの間にか忘れてしまうよくある噂にしか過ぎなかった。

それはさながら夕刻過ぎるとトイレの花子さんがトイレに出るとか理科室の骸骨の模型がケタケタと嗤い出すといった一度も遭遇せぬままに終わる噂でしかないはずだったからだ。
そんな類いのものがよもや現実として自分の身に降りかかるなどとは光は想像だにしていなかった。

然しそれは昭和を模した‘’スカートめくり‘’ごっこなどという決して生易しいものではなかった。
それに依って、血路を塞がれた光は、いつの間にか彼らに抑え込まれた。そんな少年達からのさながら加速をつけて鞭打つかのような残酷で洗練された身のこなしにより、光はまるで手足をもがれるような激しさでその下着を脱がされてしまうという顛末を迎えた。
喉が引き裂かれんばかりの悲鳴を上げた光を呆然と見守っていた一人の少年が震える声で残りの少年たちを制した。

『ねぇもうやめよう!
酷いよこんなのやり過ぎだ』

もともと最初から少年は他の少年と違い、そのゲームには消極的で、あとのふたりに命じられるまま動きながらも辛そうにしていたからだ。
少年の発した光以上に悲痛な声を聴いて急に鼻白み、興が削がれたまだあどけない残党はやがて彼を口々に宥(なだ)めすかし、光を壊れて飽きた玩具のようにその場に横倒しにしたまま冷酷な一瞥をその上に呉れて去って行った。

光は自分の靴さえどこにいったのか?
いつ少年達により奪われたのかと解らぬ泥だらけのソックスだけの足でべそかき半分膝から血を流し、跛行しつつ帰途へと着いた。
しかし道半ばそんな妹を発見した当時高校生に上がる寸前の姉、瞬だけは暴れ川の奔流の如く幼い妹の傍へと駆け寄った。

『どうした??光!?
何があった?』

彼女は咄嗟に妹の小さな躯の一部が何にも包まれず裸である違和感と不条理とを妹の躯に触れて確かめるまでもなく察知した。
妹から溢れ出る拒否の仕草とそれにより作られる甚だしい羞恥の壁によりまるでそれらを見たかのように知悉したのだ。
と 同時に歳の離れた妹を抱きすくめるや否や、姉は解き放たれた獣のような勢いでどこへともなく我を忘れたように姿を消した。

何がその後起きたのか光は覚えていない、自分か何を語ったのか語ってないのかも覚えていない
ただ姉はその時共に下校中であった今は亡き親友の藤田麻佑子に『妹を頼む、なるべく親には知らせぬように家へ匿(かくま)い、着替えをさせて』
と光を託すなり、猛然とどこへともなく駆け出してゆきその姿は翌朝になるまで誰も見ることは無かった。

後日、学校で光を見かけた少年達のあの総じて雷雨に叩きつけられ濡れそぼったかのように小さく縮んで怯え切ったかのような様子を、光は長く忘れることが出来なかった
、あの悲痛な泣き声を上げた例の少年など芯から光を恐れ、光に背(そびら)を向けると、その華奢で細っこい脚をもつれさせつつ、乱麻の如く呂律の回らぬ足取りで遠く逃げ去ってゆく様に光は自分の姉が彼をそうさせたのだと思う以上に、言いしれぬ不思議な力を自分の内側にも感じて酷く満足した。

『ごめんよあんな酷いことして、でも君の姉ちゃんはもっと怖いよ俺思い知ったから…
もうよく解ったから、
だからお願いします、
もう許して』

わけは解らないものの光は、恐れ慄(おのの)く少年達が痛快だった。
後年あのトラウマに数年間は親にも言えず彼女は独りむせび泣くこともあったが、その都度気がつくと姉がいつの間にか光を抱き寄せてくれていた。
そしてそれが繰り返されるたびに光はそれを忘れることの出来ぬ過去なりに今も続く激しい痛みとして自覚しないまでに立ち直っていった。
と、ほぼ同時に姉は何故か当時活発で明朗であったその気質を喪失したかのように目に見えて大人しくもの静かな女子高生へと変容していった。
以降、光は姉がまるで見知らぬ別人になってしまったかのようで淋しく感じたが、今ではむしろ変わってしまった姉のほうが見慣れてしまい、遠い昔の記憶に在る姉のほうがまるで何かの思い違いのようにすら思える時があるほどだった。

クラス会に途中参加した光は、少しだけ高校生当時親しかったもと少女と世間話を交わしたものの、二次会へ繰り出そうという話しが出始めた時点で冷ややかにその帰り支度を始めた。
だがそんな彼女を気がつけば相も変わらず残酷で臆病なあの‘’もと少年‘’は凝視を降り注ぎ続けた。

光は消耗を伴う抵抗を感じはしたものの帰り際にトイレへ立ち寄るとその場でメイクした顔を流水で音をたてて洗った。
鏡の中の自分は驚くほど険しい顔をしてその雫を滴らせ、自分を突き抜けてまるで違う次元を睨むかのように光は感じた。

トイレから出て廊下を歩く彼女に彼はまるであの日のように計画性をもって声をかけた。
あの日と違うのは彼が微塵も楽しそうではなく端(はな)から後ろ暗そうにしていたことだった。

『山田さんあのう…ひさしぶだね、あの…俺なんていったら良いのか今更なんだけど…
昔は本当にごめんなさい今更なんだけど…
あのこと謝っておきたくて』

光は震えを抑えながらも気丈にこう問うた。

『謝るって何を?貴方だれよ?』

そんなことなど、覚えても居なければ男のことすら記憶にも無いといったふりをすることで彼女は、自分の中にある薄っぺらい面子を辛うじて保とうとした。

しかし‘’もと少年‘’はどこまでも愚鈍で愚直で善良ですらあった。
『君のお姉さん元気?
…いいお姉さんだったよね、
凄く妹思いの…』
そう言って彼は、自分の眼を見ようともしない光に心無らずもその蒙昧だが常に稼働して止まぬ好奇心を揺り動かされた。

『お姉さん…まだあの例の森に、行ってるの?』
何故かその思いもつかぬ“ヘンな言葉”が光の心を不意打ちの如く殴打した。

『はっ?』と、光は彼を鋭く振り返ってそう言った。

『いや、だって…その…』

『何?なんのことよ、森って何よ?』
そう言いながらもふとあの過酷な体験が見えざる女神の手により覆い隠されたかのように耐えられるものとなった今、ふと昔聴いたことのある女神自身の噂となって光の脳裏に今更蘇った。

光の住む街と隣り街に跨がる部分に玉蜀黍畑に取り囲まれたもとは神社があったと噂される森があった。
光はそれについてあまり詳しくはなかったが、森は禁足地としてそこいらでは有名な忌み地でもあったらしい。 
戦前の昭和の始め頃までは神社と言われたり、あるいは寂れた寺領であったとも言われる今やその歴史が判然としない森があった。 
田畑の中に忽然とあるその森はそう大きくはないものの確かに濃く繁茂する一見鎮守の杜風の外観であった。

光自身、時々人伝にその森へ出入りする姉、瞬の姿を見たという噂を昔、たびたび耳にしたことを彼女は何故だか艷(なま)めかしく今更急に電流に触れたかのように思い出した。
同時に父がまるで諭(さと)すかのように光の両肩を掴んだあの分厚く硬く温かい掌の感触を彼女は昨日の事のように思い出し、と同時に怖くもなった。
その父の温もりにどうしようもなく深い、誰にも癒やすことの出来ない悲しみが父を宿り木として少女の光の中へと、それが瞬時に輸血の如く流れ伝うのを彼女は過去、鮮烈に感じたからだ。

『いいかい?光、
そんなのはウソだ全部ウソっぱちだよ、みんなねここいらの街の人達はなまじっかお姉ちゃんの子供の頃からのことを中途半端に識っているから、
だからあんな悪意ある噂を流したりするんだよ、然しそんなのはね、ちょっとばかり他の人達より並外れた面が多々ある為にどうしても目立つお姉ちゃんへの嫉妬やそれによる低次元な意地悪にしか過ぎないのさ、だからお父さんもお母さんもあんなこと、信じてやいない、
光ももうそんな噂は放っておいて…そんな意地悪な人達よりむしろお姉ちゃん自身を信じてあげるんだ、いいね?』

光は父の言っていることの意味は全く解らなかったが、解らないにも関わらず何故か腑に落ちる部分も感じてはいた。
だが、それについて深堀りすることは光にとってさながら家族の忌諱に触れるかのようでどうしても出来なかった。
父の瞳を見てそこに巣食う深い悲しみと無念の波長を感じ取り、それに依って何故か訳も解らぬままに光は共に傷ついた。
だがまだ少女であった光に当時出来たことは、理解することではなくただ闇雲に頷いて父に共感するふりをして、それによって安心してもらおうと努めることだけだった。
同時にその噂の内容も、増してや真相も知らないまま、ただひたすらに両親の想いと姉の見えない‘’無実‘’とを信じようと彼女なりに努めた。
それは‘’知らないふり‘’をすることであり、同時に本当に識ろうともしないことでもあった。

だが‘’もと少年‘’の言葉は鎮かな暗闇の中、睡り、安らう光の中の、従順なその仔鹿を鋭く照射するヘッドライトのように突き照らした。
まるで寝た子を起こすか、
一方的に賦与するかの如くそれは突然知らされてしまったのだ。

『知らないのかい?
君のお姉さん、あの杜で発見されたんだよ、
みんな知ってるじゃないか、
君の姉さんは棄て子だったって』

『えっ』

『知らなかったの?
ああごめんね、しまったなぁ
俺また余計なこと言ってしまったのかなぁ』

『何よそんな…何を言い出すのかと思ったらあんた…
一体自分が何言ってるのか解ってるの!?』

『ごめんねでも俺…大人になってからもずっと君のお姉さんのこと思い出すんだよ彼女こう言ったんだ、もうすぐ私の仲間が迎えに来るから…』

『……』

『そうしたら二度と今の家族には逢えなくなるから、妹にした酷い仕打ちを覚えておけって』

『何それどういう意味?』

『今この歳になってそんな馬鹿なことあるわけ無いって思う癖に、今でもあの言葉思い出すと怖くってならないんだ、
俺、もうすぐ娘か生まれるんだ、もし娘の身に俺が昔、君にしたようなことが起きたらって…
今でも怖くなるんだよ、
そのことを思うと…俺は一体、
罪の無い小さな女の子になんてことをしてしまったんだろうって…俺だってまだ子供だったっていうのに、』
と彼のその狂おしげな視線は、自分の足元や光の背後や宙に向かって心許無くフラフラと泳ぎ、その瞳には涙さえ浮かんでいた。

『本当にごめんなさい!
許して下さい山田さんっ』
彼は朽ちた折れ釘のように弱々しく、と同時に深々と光に向かってその頭を下げた。


光はカフェのテーブルの上にあるエメラルドグリーンのバンカーズランプに照らされた珈琲カップの中にその視線を落としていた。
そしてそこに回る珈琲のドライアイスの霧のような左回りの渦を見ていた。
さっきとはうって変わってカフェの雰囲気で落ち着きを取り戻した彼は光に向かって本来話さなくてもいいはずのことをそのリラックスも手伝ってか思わず放埒なまでに話しだした。
『俺さ実を云うと君のお姉さんに子供の頃、憧れていたんだよね』

『お姉ちゃん綺麗だもんね、
みんな言ってる。お姉ちゃんだけ家族の誰にも似ていない、
お祖父さんかお祖母さんに似たのか?って、でもそういうわけでもなかったから…
私もずっと不思議だったの』

光はもと少年の病的なリラックスに感染し、心無らずも思わず昔からの仲の良い幼馴染に話すような気易い口調でそう言った。

『いやそういうことではなくて』と彼は小さく否定すると今更正気を取り戻したように光に向かって説明した。

『まぁ確かに最初はそうだった、でもあんなことがあってから君の姉さんが怖くて怖くて今でもちびりそうなほど怖いのに…』

『怖いのに何よ?』
光はようやく正気に返るとその懐かしい侮蔑を唇の端に取り戻したかのように浮かべてそう問うた。

『何か言いしれぬものに…説明なんかつかないものに憧れてしまう時季(とき)って、人間にはきっと等しくあるんだと思う、それを実行するかしないかは人に依るけれど無自覚のうちにみんなその時を通り過ぎていくのかもしれない、それは例えば途方も無く巨大で聡明さすら持つ悪だとか、一見素直で野放図に見える性であるとか』

『‥……』

『…子供の頃から憧れる遠い宇宙の果てのこととかさ』

結局彼が語り始めた話にアレルギー的拒否反応を感じた光は思わずその場を後にしたものの、その帰途いちいち彼を憎んだ。
その美容室に行っていなくても行ったかのように造り込まれたヘアスタイル、
蝋細工のように美しい手の容(かたち)
オドオドと、どこか引き攣った話し方、
こもったような醜く質の悪い声、
とまるで親の敵を見るように一々粗探しをしては光は彼を徹底的に嫌悪しようと努めた。

‘’あんな話、全部嘘、
よくそんな作り話が出来たわね、どうしてそんな出鱈目を私に今更するのよ!!私があんな話、信じるとでも思っていただなんて、
随分見くびられたものね”

駅に向いながらもと少年の彼の話を反芻しながら光は遠く見えてきたその古い駅舎の上の空がまるで暗く渦巻くような厚い雲が低く垂れこめるのを見た。
彼の言葉はもうすぐ雷鳴を連れて来る黒雲のごとく光の中を不安で一杯にした。

『君のお父さんとお母さんはなかなか子供が授からなくて、とても悩んでいた時に君のお母さんが、あの森で泣いていたお姉さんを見つけて養女にしたんだよ、
そのおよそ9年くらい経ってからのち二人には本当の子供がまるで神様の気まぐれのように出来た…
それが君だよ山田さん』

タクシーは浅春の雪が未だ真冬並みに積もった田畑の跡地が細長く延々と続くその寂れた風景の中の一本道をひた走りその駅へと到着した。
背後で閉まるタクシーの渇いたドアの音にすら光は怯えた。

ふと怯えた光が震えながら見上げた空に有り明けの月が在り、月の表面にはクレーターがさながらモノクロームの印刷物のように虚ろに見えた。
そしてまだ夜ではないのに何故か星が見えた。それはまるで夜の星のように燦然と輝かしかった。

‘’そんなはずがない‘’と光また思った。

‘’昼の空に月はあっても、
星なんて…こんなに鮮明(はっきり)と綺羅めいて見えるだなんて、このことを言っても…
きっとまた誰も、私もを信じてなどくれないだろう‘’
光は途方も無く広大無辺な孤独を感じて永遠の中で立ち竦(すく)むような痛みに怖ろしくなった。
 
そのまだ明るむ空の中に強過ぎる輝度を持つ星を見るとあのもと少年の言葉が彼女の中に蘇った。

『後から判ったことなんだけど殺人犯の子供なんだよ君のお姉さん、殺人犯の男は大昔に捕まったけど、産まれたばかりのお姉さんをお姉さんの母親はあの森に遺棄して逃げたんだ、
君だけがずっとそのことを知らなかっただなんて…
なんだか信じられないよ、
多分だけど君のお姉さんもそのことを知っているはずだと思うよ、あの街では凄く有名な話だからね』彼はそう言うと美しく整えたアーチ型の眉をひそめ、同時に声を潜めた。

その旧粧しい駅舎へと光は茫然と脚を踏み入れた。
駅のホームへ向かう階(きざはし)を登りつつ光はふと思った。

『姉の知る禁足地へと私も今、足を踏み入れたのかもしれない』と。





to be continued to episode-5th

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