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日本の選挙は無効! 岸田政権に正統性なし 井上達夫の「7条解散」違憲論

あまり注目されていないが、朝日新聞デジタル7月10日の井上達夫・東大名誉教授(法哲学)インタビューは刺激的だ。


安倍元首相銃撃事件から1年 法哲学者・井上達夫さんに聞く(前編)

(後編)


もともとは、7月6日に出た、安倍氏暗殺1年で「識者に聞く」という企画記事でのインタビューだった。

その記事は、識者をダシに「安倍は殺されて当然だった」とでも言うような、朝日のイヤらしさと左翼偏向が出過ぎていて、私は批判した。


しかし、元記事に追加された詳しいインタビューは、暗殺1周年にかこつけた「井上法哲学入門」のような内容になっていて、我田引水的とはいえ、面白い。


とくに刺激的なのはインタビュー「後編」だ(有料記事)。

井上はここで、日本の選挙がフェアな競争になっておらず、それゆえ現政権含めて、歴代自民党政権の民主的正統性は疑わしい、という議論を展開している。以下のような議論だ。


民主主義の生命線は公正な選挙である。

選挙に勝って権力を握った政権与党が、選挙を有利に操作できないようにしなければならない。そこで、憲法が選挙の公正性を保障し、違反がないかどうか、政治から独立した司法が監視していることになっている。

だが、日本の選挙の公正性はあやしい。政権与党に有利に運用されており、それを司法がとがめないからだ。つまり、フェアな政治的競争になっていない。

そのため、政権交代が起こりにくい。

井上は、不公正(アンフェア)の例として「政党助成制度」「1票の格差」「7条解散」の三つを挙げている。


1票の格差が放置されて自民党に有利に


たとえば、1票の格差について、より少ない票で当選できる地方は自民党の地盤であり、自民党に有利になっている。

井上はこう言っている。(以下、太字は引用)

ある人は1票だけど別の人は2票分の選挙権をもつという格差を許容するもので、憲法14条の平等条項にあからさまに反します。それなのに日本の最高裁は、この「2倍未満」というルールすら厳格に適用しようとせず、格差が2倍を超える選挙についても「違憲状態だが違憲ではない」とか、「違憲だけど選挙は有効」という法理的に極めて疑わしい論法で、無効宣言を回避している。


1票の格差が2倍以上の選挙区で落選した候補者は、全員、選挙無効を訴え出ればいいのだ。なぜ、それをしないのだろう。

井上はこう言っている。


選挙無効宣言をすると「政治的空白」のような混乱が生じると指摘されることがあるが、そんなことはない。289の小選挙区すべての結果を無効にする必要はなく、2倍の閾値(しきいち)を超える選挙区だけ無効にすればよい。さらに小選挙区の選挙結果とは別に、176の比例代表選出議員の議席は確保されている。


憲法違反の「伝家の宝刀」


「7条解散」は、さらに悪質だ。


憲法7条は「内閣の助言と承認」により天皇が行う国事行為の一つとして、3号で衆議院の解散を挙げています。自民党はこれを根拠に、衆議院が内閣不信任を決定した場合に内閣が衆議院を解散できると定める憲法69条以外の場合であっても、いつでも自由に衆議院を解散する実質的決定権を内閣がもつと解釈し、この「7条解散」を濫用(らんよう)してきた。

国会に対し連帯責任を負う内閣という行政府の長である首相が、衆議院をいつでも好きな時に解散できるというのは、国会を国権の最高機関と定めた憲法41条に反する。しかも4年の任期を基本としたうえで衆議院議員を選挙で選出する国民の選挙権を侵犯するものです。


7条解散の違憲性は明らかなのだが、さらに悪いのは、それが与党・自民党の優位を事実上決定してしまうことだ。


国会の最高機関性や国民の選挙権の侵犯に加えて問題なのは、この7条解散の濫用により、与党たる自民党が世論の動向を見て、自分たちが選挙で勝てそうな時に衆議院を解散して政権の延命や強化を図ることが容易になっていること、すなわち政権交代を阻害する手段として解散権が濫用されていることです。


戦後日本の衆議院解散総選挙のほとんどは、「首相の専権事項」などと言われる、この疑わしい「7条解散」によっておこなわれている。直近の2021年の選挙もそうだった。(なお、井上の言い方だと自民党だけが7条解散しているようだが、民主党の野田連立政権も2012年に7条解散している)

今春にも、岸田首相はこの「伝家の宝刀」を抜こうとしたが、支持率の低下を見て見送ったと言われた。政権与党に有利なタイミングで選挙がおこなわれることを、野党もマスコミも当然視し、おかしいと思っていない。憲法感覚がマヒしているのだ。

ここでも、7条解散による選挙で、落選した候補者が、解散は違憲だとして選挙無効を訴え出ればいいのである。なぜ、そうしないのだろうか。


7条解散については、苫米地義三・元衆議院議員が解散の効力を争った「苫米地事件判決」(1960年)があるが、判決が違憲判断を避けたことを、井上は強く批判している。


(苫米地判決は)いわゆる「統治行為論」に逃げて、違憲判断を回避した。いまもこの判決が判例として通用している。違憲判断をしないということは実質的に合憲のお墨付きを7条解散に与えることと変わりなく、最高裁は政治的問題を回避しているどころか、政治的競争のルールを自分たちに都合のいいように歪曲(わいきょく)する政権与党の政略に自ら加担したことになる。そのような政略を許さずフェアな政治的競争のルールをプレーヤーに厳格に課す中立公正な審判者の役割を果たすことこそ、司法の使命なのに、その責任を放棄している。


60年以上前の苫米地判決で「7条解散違憲論」が止まっているのが異常だ。

昨日(7月11日)は、トランスジェンダー職員のトイレ使用制限は「違法」との最高裁判断が出た。その判断の是非とは別に、最高裁判断が時代によって変わり得ることを示している。

日本の司法が、急に政治から独立し、立派に変わるとは思えないが、誰か野党の落選議員が、選挙無効を訴えて、粘り強く戦ってくれないだろうか。最高裁に何度もチャレンジすれば、7条解散違憲判断を勝ち取れるかもしれない。

もちろん、そうなると、政権交代してかつての野党が与党になったときに「伝家の宝刀」を抜けなくなるが、それがフェアな競争というものである。

(一般市民が、たとえば「政権交代が起こらない不利益」を訴えて、7条解散違憲訴訟を起こせるかどうかは、専門家でないからわからない。井上もそこまでは触れていない)


私だって、政権交代が普通におこなわれる政治の方がいい。

野党が、「護憲」や左翼イデオロギーを捨てて、現実的になるのを待っていたが、私はもう待ちくたびれた。

選挙の違憲訴訟が、意外に「政権交代」の近道かもしれない、と井上のインタビューを見て思った。





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