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江川紹子が歴史改ざん? 忘れられた「オウム」事件とメディアの責任

(以下、敬称略)

オウムは「無名」だった?


江川紹子が、自分の十八番である「オウム真理教」事件で、歴史の改ざんをしている、と「炎上」中だ。

発端は、江川の20日の以下のポストだった。


オウムが広く知られるようになったのは、彼らが無差別に人を殺したからです。
(江川紹子 2月20日21:55)


これにたいして、「歴史の改ざんだ」と批判がはじまり、現在まで続いている。


この人がオウムについて歴史改ざんをやり始めるとは思わなかった。 さすがにこれは無い。
(タカラミックス 22日21:05)


コレはひどすぎる歴史修正主義。 かつてオウム真理教に対しては、テレビをはじめとするマスコミが、いかにもアレなカルト宗教をエンタメとして面白おかしく取り上げて彼らの宣伝に一役かってしまい、彼等を増長させた批判されたのに、それをサリン事件のあと有名になったとか何を歴史修正してるんだ
(丹羽薫 23日17:55)


「朝まで生テレビ」で「オウム真理教vs幸福の科学」という番組やってて、麻原彰晃が出てたの私は見てましたよ。マスコミはサリン事件の少し前までは基本的にオウムを肯定的に出していて、マスコミの影響で入信した人も多かった。江川さんも当然知ってます。
(ricercare 23日17:06)


よりによってオウムについて一番歴史修正してはいけなかった江川氏がそれをやる、と
(トリ頭 23日23:00)


1995年3月20日の無差別テロ、「地下鉄サリン事件」のはるか前から、オウム真理教が有名だったことは、30年前のこととはいえ、さすがにみんな覚えている。

なぜ江川は、このような「改ざん」をするのか?


これは、ただの言い間違いや記憶違いではなく、江川が無意識的に隠したい事件の真相がからんでいる、とわたしは思う。

それは、オウム事件の本質にも関連するので、とても興味深い。

江川を「歴史改ざん」と批判する人びとも、事件の発端を忘れている、あるいは、最初から知らされていないと思うので、以下に事実をまとめておきたい。

江川紹子の「痛いところ」


まず、冒頭の江川の発言が、どういう流れで出てきたかというと、伊東純也選手のスキャンダル問題がきっかけだった。

伊東純也が、性被害を訴えた女性を、逆に名誉棄損で訴えた。

それにたいし、江川はこうポストした。


女性の訴えが広く伝えられ、伊藤選手にとって不利益な影響を発揮したのは『週刊新潮』が記事にしたからなのだが、その雑誌は訴えない、というのはいささか不可解。⇒【速報】伊東純也選手が性被害訴える女性側に「2億円」の損害賠償求め民事で提訴(関西テレビ)
(江川紹子 2月19日13:16)


それにたいして、次のようなツッコミをする人がいた。


オウム真理教が広く知られ、騙された信者に不利益な影響を発揮したのはメディアに出演したからなのだが、メディアを訴えないと不可解なのだろうか
(少佐 20日19:19)


それにたいして、江川が問題のポストをする。


オウムが広く知られるようになったのは、彼らが無差別に人を殺したからです。
(江川紹子 20日21:55)



少しわかりにくいが、「少佐」のツッコミの趣旨は、

「『被害のもとはメディア報道なのだから、メディアを訴えるべきだ』、という江川の論法が正しいなら、オウム真理教事件では、オウム真理教のことを広めたメディアを訴えるべきだったのか」

ということだろう。

ここには論理の飛躍があるのだが、偶然にも、江川の「痛いところ」を突いたのだと思う。

つまり、オウム真理教事件で「メディアに責任がある」という点だ。

だから、江川は即座に「歴史改ざん」せざるを得なかった。

「いや、オウムが無差別殺人をしたのが先だ。メディアに責任はない」

と。



以下のとおり、江川の「隠れた動機」に、気づいている人もいた。


ははあ、なるほど。江川紹子氏がなんで「オウムが広く知られるようになったのは、サリン事件以降」みたいな歴史改竄をしたかといえば、江川氏が「伊東純也選手が性被害を訴える女性側に損害賠償したのはおかしい!メディアを訴えろ!」と主張したら、「じゃあオウム事件のときもメディアを訴えるべきだったの?」といわれたからか。え?こんなことでという感じだが、ほんと元々、オウム叩きの時流にのり、名前を売っただけの人であるのに、自分の主張のためにオウム問題の重要ポイントでも恥じることなく歴史改竄をはじめる、これは流石にもうジャーナリストとしてどうなのか。
(丹羽薫 23日18:09)


人びとの記憶も改ざんされている


ただ、上記の人も含めて、もうオウム真理教事件の「真の発端」を覚えている人が少ないことに、今回気づかされた。

オウム真理教が有名になった経緯を、以下のように記憶している人が多いのだ。


オウム真理教を初めて認識したのは、衆議院選挙に出た時でした。多分1990年だったと思います。地下鉄サリン事件の5年前ですね。
(あんぐら 21日15:41)


その頃が多分絶頂期でしょうね。その後、積極的な露出による拡大路線がアダとなって内部統制の乱れやトラブルが増加したところで、メディア進出で作りあげたイメージ戦略が選挙惨敗で瓦解して、一気に反社会性が加速していった…
(少佐 21日15:48)


しかし、オウム真理教が社会一般に認知され、ワイドショーなどで取り上げられた発端は、1990年の選挙ではなく、1989年の10月からのサンデー毎日「オウム真理教の狂気」キャンペーンである。


「サンデー毎日」1989年10月2日発売号(10月15日号)。表紙に、「息子を、娘を返せ」「肉親の悲痛な訴えを聞いて欲しい!」とある。


そして、そのネタは、ほかならぬ江川紹子が、サンデー毎日に持ち込んだものである。

このサンデー毎日のキャンペーンを、ワイドショーが派手に取り上げたから、テレビに露出した坂本堤弁護士の一家が1989年11月に惨殺されることになったのだ。


事件の本当の発端を、時系列に沿って述べれば、次のようになる。



1989年夏 神奈川新聞をやめたばかりの江川紹子は、教育問題を専門とするフリーライター(教育ジャーナリスト)として自立しようとしていた。その彼女が、オウム真理教に入信した子供の親からの相談を受け、オウム真理教と保護者間で紛争があるのを知る。

1989年10月 江川からネタをもちこまれたサンデー毎日が、「オウム真理教の狂気」という大キャンペーンを始める。信者の親子の問題をおもに取り上げ、「新興宗教にくるう若者問題」が主旨だった。
 江川も、サンデー毎日も、この時点でオウム真理教が「殺人集団」とは知らない。なお、サンデー毎日は現在は子会社から発行されているが、当時は毎日新聞社本体の出版物だった。
 このキャンペーン記事がもとで、テレビのワイドショーが連日オウム真理教を取り上げるようになった。

1989年11月 実はオウムは、江川もサンデー毎日も知らない信者の殺人を、すでに一件起こしていた(その前に信者の修行中の事故死が一件あり、殺された信者は、それを暴露しようとしていたようだ)。
 サンデー毎日の報道で、それらがバレるのを恐れた麻原彰晃は、サンデー毎日編集長の牧太郎を拉致してキャンペーンを終わらせようと試みるが、失敗。
 その代わり、江川やサンデー毎日と共にオウム追及の先頭に立っていた坂本堤弁護士を拉致しようとするが、なりゆきで1歳の息子ふくめた一家を惨殺することになる(11月4日)。
 坂本弁護士一家が姿を消した事件は、当初「一家失踪事件」とされた。それがオウムによる犯行であるのがわかったのは、6年後、地下鉄サリン事件で逮捕された実行犯の自供からだった。

1989年12月 坂本弁護士「失踪」事件の疑いは、当然オウム真理教にかかったが、オウムは巧妙に否定。むしろ、その過程で、麻原のキャラクターやオウムが世間に「面白い」と受け入れられていくことになる。
 しかし、江川もサンデー毎日も、「失踪」事件にオウムがからんでいることを直感し、12月時点ではほぼ確信したのだと思う。
 サンデー毎日はびびってオウム追及をやめた。毎日新聞だけでなく、大メディアは、オウムの辣腕弁護士の名誉棄損訴訟などにおびえ、ほとんどオウムをよいしょするような扱いをする。
 江川紹子は、日本共産党系の新日本出版社の出版物などをつうじて、オウムの追及をつづけた(その新日本出版社に有田芳生がいた)。


江川紹子『横浜弁護士一家拉致事件』(新日本出版社、1992)


麻原は、この坂本弁護士事件を起こしてしまったことによって、「警察につかまれば死刑になる」と確信した。

だから、オウム真理教のその後の行動は、基本的に坂本事件を隠すため(警察の目をそらすため)の陽動や攪乱であり、それが結局「地下鉄サリン事件」に結びつくのである。

(だから、1989年のことを知らなければ、オウム真理教事件の本当の意味はわからない。)


メディアは自らの加害性を隠す


麻原らが1990年に選挙に出た以降のことは、人びとによく記憶されているようだ。

しかし、その前の1989年10月~12月のこと、つまりオウム真理教事件の本当の発端は、なぜか多くの人の記憶から消えている。


それは、日本のメディア全体が「歴史改ざん」に加担したからではないか。

メディアは、オウム真理教事件を振り返るとき、教団の内在的な「狂気」が引き起こした、という面だけを強調する。

メディアの「刺激」が、教団の「反応」を引き起こした、という面は極力無視する。メディアの責任を問われるからだ。

しかし、異常な「刺激」が、異常な「反応」を生んだのである。

自分たちの異常な「刺激」は、メディアぐるみで、なかったことにする。それは、安倍元首相の暗殺事件でも見られるとおりである。(「アベガー」の異常報道をなかったことにしている)


オウム真理教事件では、麻原を出演させたTBSやテレビ朝日の責任を問う声は現在もあり、今回のXでのやり取りでも見かけた。

しかし、それに関しては、江川紹子に責任があるわけではない。

本当にヤバいのは、それ以前の「サンデー毎日」報道であり、それは、江川のネタの持ち込みから始まった。それがすべての発端になっている。


それは、バブル絶頂期の1989年。

今週抜かれるまで、株価の史上最高値を記録した年だった。

みんなギラギラしていた。

フリーライターとして独立したばかりの江川紹子も、新編集長に変わったばかりのサンデー毎日も、「一発当ててやる」と、功名心に燃えていた。

とくにサンデー毎日は、同年春に鳥越俊太郎編集長が「宇野宗祐スキャンダル」で有名になり、「テレ朝キャスター」に転出したばかり。

後任の編集長の牧太郎にも、同様のスクープの期待がかかっていた。


その功名心から、本来はたいした話ではない新興宗教の親子問題を、大きな社会問題のように報じて、オウム真理教を必要以上に追い詰めた。

(当時はインターネットもなく、マスメディアの威力は絶大だった。江川やサンデー毎日は、なんの後ろ盾もない若者集団であるオウム真理教など、すぐ「降参」すると思ったのではないか。オウムをナメていた。その誤算もあったと思う。)

それが、坂本弁護士事件や地下鉄サリン事件など、子供を含め30人近い死者を出した「オウム真理教事件」につながっていく。

その発端は自分なんだ、と江川紹子は知っている。

(なお、当時のサンデー毎日編集長、牧太郎は、坂本弁護士事件のあと、心労からか脳出血で倒れ、半身不随となった。かれもオウム事件の犠牲者かもしれない)


前にも書いたが、江川は問題を追及はしたけれど、事件を防げたわけではない。真相を暴けず、むしろ最悪の結末をみちびいた。

「あれはメディアの責任だ」と言われるのを、いちばん恐れているのは間違いなく江川である。


松本純也のスキャンダル報道をきっかけとしたX上でのやり取りで、江川は、その「痛いところ」を突かれたと感じた。

それで、無意識的に「歴史改ざん」した。

というのが、わたしの「読み」です。


あらためて、オウム真理教事件の本当の発端を知りたい方は、事実をもとにしたつたないフィクションではありますが、以下のわたしの小説をどうぞ。




<参考>


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